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『アリスのための即興曲』Vol.24 優しい噓

習作『アリスのための即興曲』というのを書いております。
ラストを書き直しております。
もしご興味がありましたら、ぜひ。


あらすじ

大学3年生の坂本は、華道の講師である祖母とふたり暮らしをしている。
ピアノを弾くことが趣味の、どこにでもいるような学生だ。
ある日偶然見つけたフランス語レッスンの張り紙を頼りに、彼は古びた洋館へと向かう。
レッスンを担当するのは、アリス・デュボワというフランス人の女性だ。
彼女はレッスン料を請求しない代わりに、毎回、不思議な頼み事をする。
坂本はアリスに惹かれながら、抗いがたく「兎穴」という闇の中に引きずり込まれていく…。

初めての方は、こちらからどうぞ。

Vol.1  兎を追いかけて

前回のストーリーは、こちら。

Vol.23 アリスのための即興曲


本編 Vol.24 優しい噓


 

 それから一週間ほど過ぎた。大学では期末テストのシーズンに突入しようとしていた。図書館の灯りが夜遅くまで点るようになり、学生たちは緊張した面持ちで廊下を行ったり来たりしていた。

 僕が通っていたのはカトリック系の大学で、週に一度宗教講義というものがあった。担当の教師はまだ三十そこそこで、冷蔵庫から取り出したばかりのもやしみたいに色の白い小男だった。彼は学生のレポートにはろくに目も通さず、出席日数とテストの点数だけで評価するという噂だった。言い換えれば、学生にとっては比較的単位が取りやすいということだ。実を言うと僕はそれだけの理由で講義に出席していたのだった。

「『悔い改めよ、神の国は近づいた』と『マタイ伝』4章17節にあります」教師は静かな声で言った。
「けれどマタイの福音書 12章28節で、イエスは『もう神の国はあなたがたのところに来ている』とも仰っています。これは一体、何を意味しているのでしょう。」
彼は特に学生の反応を期待していたわけでもないようで(実際、大部分の生徒が講義を聞いていなかった)、教室の隅の虚無に向かって淡々と語り続けた。

「私はこう考えます。すなわち『神の国』とはどこか未来の遠い地点にあるのではなく、 私たち一人ひとりの心の中にある場所を指しているのです。そう、それを『神性』と呼んでもいいでしょう。その心の中の『神性』としっかりと向き合うことが出来た時、神の国はすでにそこにあるのです。神がどこか未来の遠い場所におられるように見えるなら、それは私たちの心が神から遠ざかっているせいなのです。神は、今、ここに存在します。私たちの心の聖域に」

暖房で温められた生ぬるい教室に、教師の声がむなしく響いた。
「仏教にはあまり詳しくないので、まちがった点があったら申し訳ないのですが」
教師は前置きしてから話を続けた。
「私の知る限り、仏教は真の意味では魂の救いを提示していないように思われます。前世、今生、そして来世といった命のサイクルは、あくまでもカルマのシステムに則った賞罰制度です。悟りを得た者のみがそのサイクルから逃れられるとされていますが、それは十億分の一くらいの可能性にしか過ぎません。そうでないものは、来世に儚い望みをつなぐしかないのです
教師はこのように話を終えた。「来世」という言葉が、まるで杭のようにまっすぐに僕の胸を突き刺した。それはアリスが最後に言った言葉を思い出させた。考えてみれば、仏教徒でもない彼女が「来世」などという言葉を知っているのは奇妙なことだった。


 僕は前世とか来世とか、そういったものに一切興味がない。今この人生を生きるのだって精一杯なのに、どうして過去の罪だの未来の赦しだのを気にしなくちゃいけないのだろう。僕がこの世から消えたら、意識が消えて、躰は焼かれる。それだけのことだ。いや、焼かれることさえないかもしれない。(考えたくはないけれど)おそらく祖母の方が先に亡くなるだろうから。そうなれば僕はひとりで残されるのだ。わざわざ僕のために葬儀の手続きを行ったり、骨を拾ってくれるひとがいるとも思えない。僕の躰はどこかの小さなアパートで朽ちていくのだろう。それ以上でも以下でもない。死後の世界なんてものは、亡くなっていくひとのための優しい嘘だ。僕はこれまでそのように考えていた。

 けれどアリスはこの世界を違う目で見ているようだった。「わたしたち、生まれ変わったら来世で逢いましょう」と彼女は言った。来世というものは、行ったことのない遠い国のようなものだと思っているみたいだった。たとえば僕はフランスに足を踏み入れたことはないけれど、この地球のどこかに存在していることは確かだ。だとしたら、それと同じように「来世」という場所を見つければ彼女と会えるのだろうか(僕は「来世」というものを時系列上で捉えることが出来なかった)。それとも、それは僕を遠ざけるための優しい嘘だったのだろうか。もしそうだとしたら、それは残酷な仕打ちだった。鳥の死骸を埋めながら、「小鳥さんはお星さまになってしまったのよ」と子どもに言い聞かせる母親のように。





 僕は希望という鎖で繋がれた奴隷だった。その鎖は、重く、甘く、むせぶような香りのする過去の時間の中に僕を留めようとしていた。そこにはいつもアリスがいて、僕を待っていてくれた。レースのカーテンのような亜麻色の髪に隠れている彼女の白い顔。すぼめた小さな唇が、サカモトさんと僕を呼ぶ。ねえ、ピアノを弾いてくれない? と彼女は言う。ピアノの前に座る僕の背中に、彼女は腕を回す。彼女の髪の毛が首筋をくすぐる。固くくっきりとした乳房の感触を背中に感じる。よく熟れた桃のように、素敵な重みを持った乳房だ。そんなにくっつかれちゃ、ピアノが弾けないよと言って僕は笑う。彼女は腕をほどいで僕を解放する。僕は背筋を伸ばして鍵盤に向き直り、ピアノを弾く。アリスのためだけの音楽を。彼女はブラボーと言って拍手する。「あなたには才能があるわ。わたし、わかるの…」あの日と同じセリフを彼女が言う。

 それは吐きそうになるほど幸せな光景だった。僕はそこでいつまでもそうしていたかった。たとえ時間が腐ってしまっても。けれど心のどこかで、僕はむき出しの真実と出逢いたいとも思っていた。腐った妄想から抜け出し、壊死した部分を切断しなければならない。真実は鋭い斧のように、いつか僕に振り下ろされるだろう。


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