山田健太 視座 ジャーナリズムのやんちゃ性 小さな声を拾う作業こそが「公正さ」

大学で学生と接していると、メディアに「完璧さ」を求める声が強い。この「感情」は学生だけにとどまらず、社会全体を覆うメディア批判とも重なると思われる。その中身として主に3つが挙げられる。

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 第一は「無謬(むびゅう)性」だ。報道は絶対に間違いが許されないとの思い込みがある。例えば、週刊誌の憶測(おくそく)記事はもってのほかとされるが、果たしてそうか。全メディアが均質で同様の「確からしさ」を身にまとっていては、私たちの生活は味気ないものになるだろう。雑多な情報があってこそ豊かな情報空間が生まれる。

 事実は一つだから、さまざまな報道があるのはおかしいとの声もよく聞く。しかし、ものの見方は多様で、同じ事象を見ても受け取り方は人によって異なる。こうした声を突き詰めると、メディアは一つあれば十分ということになりかねない。

 受け手側はメディアの違いを理解し、情報を見分ける力を身に付ける必要かあるし、ましてや公権力に「浄化」を求めるようなことがあってはならない。そもそも締め切りに迫られて報じるにあたり、完璧さを絶対条件にしては、記事や番組は出せないだろう大切なのは、不確かなことを断定しない「誠実さ」や、とことん真実に迫ろうという真摯な「追求努力」があるかどうかだ。

 第二は「品行方正」だ。プライバシーを侵害するなどもってのほか、記者は社会の迷惑にならないよう範を示す立ち振る舞いが必要というわけだ。それは、ある意味正しいものの、正当な取材行為が日常生活のルールと異なることはままある。とりわけ事件や事故に遭遇し、緊急性や非代替性がある際は形式的に法に反することがあり得る。何より取材で政治家や公務員から情報を聞き出す行為自体、形式的には情報漏洩(ろうえい)をそそのかす行為にほかならない。

 あえて言えば、みんなが聖人君子のように振る舞えば、私たちの知る権利は満たされないことになる。しかし、今の学生には、そこまで無理しなくていいのではないかとの気持ちが強い。必要以上に行儀のよさが強調される社会は息苦しく、多様性を失うことにならないか。

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 第三は「中立性」だ。主張することは良くない、報道は常に不偏不党であるべきだとの判断基準は、時に政府が言っていることは正しいはずで、否定するのはおかしいとの思いにつながる。いわゆる偏向批判ということだ。もちろんジャーナリズムが党派性を帯び、政治的、社会的対立をあおることに精を出してしまっては、分断が進み、報道機関の重要な機能である議題設定も、社会的合意を生み出すこともできなくなる。

 だが、日本の報道機関は客観中立をうたいつつ、取材先と協調的な関係をつくる中で情報を入手してきた結果、メディアと政治の距離の近さが問題になった。一方、市民運動や住民運動に肩入れすることは、運動と一体化することで許されないと評価されてきた。しかし、社会の弱い立場に寄り添い、小さな声を拾う作業こそが「公正さ」の発露であるはずだ。そもそも課題解決のためにも一歩踏み込んだ「主張」が必要な場合は多いだろう。

 もちろん、やんちゃが過ぎると世の中から嫌われるし、ジャーナリストとして最も大切な信頼性が失われるため、十分な注意と節度が必要なことは言うまでもない。

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