令和6年能登半島地震の支援〜福祉避難所で見たもの・感じたこと〜
1/13〜1/21 にR6能登半島地震の支援に行きました。
輪島には知り合いがいたこともあり、何ができるか分からないけれど、何か力になりたいと思いキャンナス災害支援チーム(ぐるんとびー、キャンナス、オレンジ)にジョインさせていただきました。
場所は輪島市の福祉避難所。高齢者や障害のある方など要配慮者を対象とする避難所です。
9日間の滞在でみたもの、感じたことを残そうと思います。
高齢者は多疾病併存の方も多く、被災による変化で容易に衰弱してしまう状況。
持病の悪化やフレイルの予防が重要なミッション
でした。
とはいえ、生活用水のままならない状況、決して良いとはいえない環境でした。
コロナ、インフルエンザ感染者が続出。手洗いも最小限、隔離もできません。
トイレも流せない、感染ゴミも分けられず、感染を防ぐのにも限界がありました。
避難所生活はどうしても運動量が減ってしまいます。なるべく体を動かす時間を増やそうとラジオ体操をしてみたり。
天気のいい日は散歩へ
ここは生活の場
あくまでも施設ではなく避難所。次の生活場所までの中継地点であり、避難者の生活の場である
毎日のミーティング内で言われていたことです。
つい手を差し伸べたくなる。でも結果としてその人の能力を奪ってしまうことになります。ADLをなるべく落とさないために見守ることも大切。
こちらの好意でも、あたり前にやっていた生活の一部に手を出すことで申し訳なさを感じさせてしまって、逆に苦しめているように感じる場面もありました。
誰のための何なのか?考えなければなりません。
一緒に生活を
食事の準備も
掃除も気になった人が行います。
これまでの生活状況を知る、がkey
下肢麻痺があり1日中ベッド上生活だった女性。普段どうやって生活しているのか気になって聞いてみると「歩行器でトイレまで行ってた」と。
「避難所生活では)オムツもやってもらって。こんなくらいなら死にたい。」「歩きたい。」
環境を整える
90代のおばあちゃん。
避難所では布団。日中はずっと車椅子。オムツ交換の介助が必要だったが
「ベッドなら自分で起き上がれるし、家では自分でオムツ交換していた。」と。
そこでベッドを部屋にいれ、少しこれまでの生活に近い環境へ。
食事や間食の提供方法も工夫を。
配膳スタイルから自分で選ぶスタイルへ。
風呂にも入れない日が続き、足浴、洗髪を行っていましたが、少しずつ温泉施設にもいけるようになりました。
皆さんの工夫により快適な空間へ変化し続けています。
なるべくホッとできる時間や空間を提供したり、
生活を整え、身体的に元気に過ごすことを支える。
でも、それが出来たらOK!なのでしょうか?
そういったケアを行う前提として、大切なことがあると強く感じました。
それは
どんな人生を送ってきたのか?に向き合うこと
時間が許す限り、色んな避難者さんと話をしてみました。
95歳で1人暮らしされていたおばあちゃん。「土方の仕事してて2tダンプ乗ってたんや〜」と廊下の窓から山を眺めておられる。家は倒壊し入れる状態ではありません。「95にもなって家を建て直すわけにもいかん、どうすればいいのかと考えると寝られん。」
爪の間が黒くなっていた男性。
「輪島塗りの仕事をしてて、ここへ来る前に片付けしてたんや。奥さんは絵を描いててね…」
103歳のおばあちゃん
「どういうわけかここにいれられた。うちへ帰る!」と怒っている。「うちは一軒家。こんなばあさんでも家の番はできる、家を開けるわけにはいかん」「みかんの木、いちじくの木、、、」
これまで積み重ねてきた生活が奪われてしまったのです。そして元には戻れないかもしれない、知らない土地に移動しそこで最期を迎えるかもしれない…
かける言葉も見つからず、聞くことしかできませんでした。
こんな辛い状況でも
「話しかけてくれるのはねえちゃんだけや。ありがと。」「でもこれも天災。私はいつも前向き。悩んでても仕方ないんや、元気に生きてたいんです」
地震のことも覚えていないおじいちゃん。
「ここはどこでしょう、、、。うちに帰らないといけないんです。」何度も外に出てしまい自衛隊や警察に保護される。毎日混乱状態だろうけど、車椅子の方や腰が曲がりゆっくり歩いている方を見かけるたび「おお、大丈夫ですか」と手を差し伸べるジェントルマン。
その人らしさを守りたいと思いました。
それぞれにこれまでの生活、ストーリーがあります。その延長線上にある"これからの生活"をサポートするためのケアや専門職としてのスキルであるべきであって、そこの土台も知らずに、ケアに入るのではこちらの自己満足で終わってしまうようにも感じました。
私が滞在した期間だけでも福祉避難所内で2件のお看取りがありました。
90歳後半の男性。発熱し、薬で解熱するもどんどん
食べられなくなっていた。
「このままだと死んでしまう」医師が説明すると
ご本人「そうなったらあの世へ行くだけや」
奥さん「この人頑固で。食べるように言ってください」
ご本人「こんだけ生きたんや、天命や」
奥さん「この人の好きなようにさせてやってください。」
そんなやりとりがあった翌日に奥さんに見守られながら息を引き取りました。
震災がそう思わせている部分もあったかもしれません。こんな非日常な状況でも人生に伴奏する・寄り添う姿勢は忘れてはいけないと思いました。
現地に行くだけが支援ではない!
私たちが現地に向かう間、私たちの活動を継続するために全国から医療チームが応援に来てくださいました。
人の繋がり、支え合いってすごい。
その力で少しでもいい方向に向かうことを願っています。
この経験をどう活かす?
今後、まちはどうなっていくのだろう、、、
人単位だけでなく、まち単位で見た時にも同じことが言えると思います。
現地で出会った人から輪島愛を強く感じました。歴史があって、伝統、文化を守り続けている人々がいます。
元どおりとはいかないかもしれないが、
まちが元気になるには?
何ができるのか??
この経験を自分たちの地域にも活かすためにどう行動すればいいのか??
考え続け、行動し続けたいです。
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