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これでいいのだ

私は『バカボン』を見て育った世代です。
小さい頃だったので、そんなに細かくは覚えていないのですが、いつも『バカボン』を見て笑っていた記憶があります。

社会人になってから、パパの、「これでいいのだ」という台詞が、私を救ってくれました。

その頃、私は生真面目で、几帳面で、完璧主義者でした。「ちゃんとしてなきゃいけない」、そう思い込んで生きていました。
毎日毎日、そういう生活をして、そういう仕事をして、過ごしていました。

でも、いつからか、それを続けていくのが苦しくなっている自分に気がつきました。
だけど、気がついても、苦しくても、尚、私は『完璧で真面目な自分』から離れられないでいました。

模索しました。
なんで私はこうなんだろう?
生まれつき?
親の躾?
いつからこんなだったんだろう?

やっぱり、できないとダメだと思う。
大人なんだから、ちゃんとしてなきゃいけないと思う。
だらけたりするのはよくない。

私は自分で自分の首を絞めて、背負い込んで、勝手に苦しんでいました。
二進も三進もいかなくなって、自我が崩壊する寸前で、空から、パパの声が降りてきました。
「これでいいのだ」。

良いわけないじゃん。
初めはパパの声を受けつけることができませんでした。

でも、少しずつ、私は「これでいいのだ」というパパの声に心を開いていくようになりました。
「こんな自分でもいいのだろうか」、「できなくてもいいのだろうか」、と幾度も鏡に映る自分に問いかけました。
パパの声が、固く固く閉じられた私の扉を、ゆっくりと開いていってくれました。
時間をかけて、私は『私』を許して、認めて、受け容れられるようになっていきました。

エッセイか何かで(タイトル忘れちゃった、ごめんなさい)、春樹さんが「そういうものだ」、「それがどうした」の話を書いていて、それも面白くて楽しかったので、興味がある方は読んでみてください。助かる人もいると思う。
それを読んだ頃はもう、私は、パパの「これでいいのだ」で軌道修正できていたので、ただただ楽しく春樹さんの言葉を読ませてもらいました。


今、私は、ある部分ではできることがあるんだけど、それ以外は、まあポンコツでヘッポコです。
でも、なんていうか、そのポンコツでヘッポコなところが、ある意味、私の持ち味なんだな、と感じています。
すご〜く変な例え方なのですが、飲み物がなくなってしまったグラスに、氷だけ残っていて、でも、その氷も、グラスを振ってみるとそれなりに音がする、みたいな感じです。

ポンコツさとか、ヘッポコ加減を、「愛しい」と思えるようになりました。

赤塚不二夫先生が、以前、どこかで、言っていました。正しくはなんて言ってたのか分からないのですが、「バカでいるといい」。
「バカでいると、周りの人がいろんなことを教えてくれる。バカでいるといいよ」。
そんなふうな意味合いのことを、仰っていました。
不思議と、その言葉が胸に残っています。

よぉく考えてみると、『バカでいる』っていうのは、実は『本物のバカ』には無理なことなんじゃないかな、と思うのです。
赤塚不二夫先生って、人として、とても練られた、奥の深い方だったんだな、と感じます。
果てしない温かさと、優しさを感じます。

周りの人が教えてくれるっていうのは、ほんとうだと思います。
実際に、私は知らないことだらけだけど、どこからか、情報が入ってきます。
知り合いや友だちが教えてくれたり、信号待ちのときの、そばにいる人たちの何気ない会話だったり、善意ある誰かの口コミだったり、noteで全然知らない分野の記事を読ませてもらったり。

ポンコツ・ヘッポコワールドでも、見えないところで、ちゃんと誰かが補ってくれて、『私』は『成っている』のです。
その不思議な、大いなるカラクリに、感謝の毎日です。ありがとうございます。


では、今日はこの辺で。
読んでくださって、ありがとうございました。
また明日。
おやすみなさい。

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