太平洋戦争が起こってしまった原因を、中国大陸を軸に考えてみる

毎年、終戦記念日が近づくとテレビで戦争に関わる番組が放映されるようになります。

でも、様々な角度で太平洋戦争が語られているのに「なぜそれが起こってしまったのか」についてほとんど取り上げられません。

平和を実現するためには、戦争が起こってしまった原因を考え、みんなで共有し、反省して、未来に活かしてくことが大切ではないかと思うのです。


そこで今回は、朝河貫一教授の「日本の禍機」が当時(明治期)から警告していたシナリオを、現代の知識を付け足しながらご紹介したいと思います。


朝河貫一教授は明治時代に、日露戦争が起こっていたその時に、アメリカのエール大学で教鞭をとっていた方です。日露戦争勃発に当たっては日本の大義を世界に発信し、国際世論を動かすことに多大な貢献をされました。

その一方で、日露戦争が終わってすぐの1909年、この本を著して、日本の変容を批判し、その後の米国との戦争に至るシナリオまで含めて日本人に警告していました。そしてそれは、極めて残念ながら現実のものとなってしまいます。


もちろん、あの戦争の原因をひとつに求められるほど歴史はあまくありません。

でも、朝河教授が指摘された1905年9月15日は重大なターニングポイントのひとつだったとは言えると思います。

それは、日本とロシアによってポーツマス条約が調印された日です。



良好な日米関係が険悪になる転換点

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1941年12月8日の真珠湾攻撃で火蓋が切られた太平洋戦争。

この時、日米両国民のお互いに対する感情は最悪のものでした。


では、いつから日米関係はそんなに悪化してしまったのか。

ペリーが黒船で日本にやってきて、日米が出会った瞬間からずっとこんな感じだったのでしょうか。

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もちろん、そんなことはありません。

日本がまさに国運を賭けて戦った日露戦争(1904年)では、アメリカは日本の味方でした。戦費の足りない日本に莫大なお金を貸してくれたし、戦争を終わらせるための和平調停を斡旋してくれました。

しかし皮肉なことに、このアメリカが斡旋してくれた日露戦争の講和条約であるポーツマス条約こそが、日米関係の転換点になってしまいます。ここを境に、両国関係は徐々に悪化していくのです。

その原因は、条約の中で定められていた中国大陸の利権でした。



アメリカが日露戦争で日本のことを応援した理由

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画像参照元:http://bit.ly/2TwDOyP


そもそも、なぜアメリカは日露戦争で日本を応援したのか。

それは、ロシアに中国市場(※1)を独占されたくなかったからです。

※1 …… 当時は「清国」。そしてこの後、「中華民国」、「中華人民共和国」となっていきますが、シンプルにするために「中国」で統一

ロシアは中国東北部(いわゆる満州)を侵略し、中国の主権を明らかに侵害していました。これは、アメリカだけでなく、イギリスにとっても頭痛の種でした。

中国という巨大な市場を、ロシアが武力でほしいままにしてしまうと、自分たちの商売にとってリスクだし、いずれはロシアがより強大な国となり、牙をむくかもしれない。

そこで、米英が中心となって唱えていたのがいわゆる「清国主権」と「門戸解放」です。表向きは「清国は独立国なのだから主権を尊重して、外国に対してどことも平等にビジネスできるようにしよう」というもの。

本音は「抜けがけはやめて、列強諸国で平等に中国市場の旨味を分けあおう」でした。

とはいえ、米英としてはこの大義名分でロシアを批判したのはいいものの、強大な力を持つロシアと戦争してこれを食い止めるのは、正直ツライ…

そこで現れたのが新興国の日本でした。

この時の日本にとっては、中国市場での商売うんぬんより、このままロシアに南下されると次は自分たちが侵略される番なわけで、国家の命運がかかっている状況でした。


米英は、日本にロシアと戦ってもらって、中国市場(=自分たちの利益)を守りたい。日本は、米英に協力してもらって、ロシアから日本を守りたい。

この互いの思惑が完全に一致!


だから、日本がロシアに対して戦争を決意した時に、世界中に日本が発信した大義がまさに「清国主権」と「門戸解放」でした。

独立国である中国をロシアから守り、やつらを追い出す!そして、中国には世界中の国と対等な立場で平等に商売してもらうようにする!と高らかに宣言したわけです。

米英をはじめ、ロシアの横暴に腹を立てていた世界各国は日本に拍手喝采!

アメリカは経済的に日本を支援し、イギリスにいたっては日本と日英同盟を組んで軍事的にも支援します。

中国人も、ロシアよりはまだマシだと日本を応援しました。

このような状況の中で、日本はロシアに莫大な戦費と人命の犠牲をはらって奇跡的に勝利します。この結果、日本とロシアの間に結ばれたのが先ほどのポーツマス条約です。


ポーツマス条約の第三条にはこうあります。

露西亜帝国政府は清国の主権を侵害し又は機会平等主義と相容れざる何等の領土上利益又は優先的若は専属的譲与を満州に於て有せざることを声明す。


つまり、日本が開戦の時に宣言した通り、ロシアの横暴な中国支配は退けられ、米英はじめ世界各国の目的は見事に達成されたわけです。

しかも、人類史上で初めて有色人種が白人に勝利した瞬間でもありました。

世界は日本に喝采を送りました。


その一方で、日本はロシアの持っていた中国大陸の利権を一部引き継ぐことにもなります。

例えば、こんなものが含まれていました。

■ ロシアは東清鉄道の内、旅順-長春間の南満洲支線と、付属地の炭鉱の租借権を日本へ譲渡する。

■ ロシアは関東州(旅順・大連を含む遼東半島南端部)の租借権を日本へ譲渡する。



中国大陸の利権の功罪

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日本のポーツマス条約の講和団


あれ?と思った人も少なくないでしょう。

だって、日本は「清国主権」と「門戸解放」をスローガンにして日露戦争を戦ったはずなんです。

ところが、ポーツマス条約では確かにロシアを中国から追い出しはしたものの「がっつりその利権を日本が引き継いどるやんけ!」というツッコミが米英からはいります。

米英からしたら「ロシアの代わりに日本が同じことやる気か?」という疑いの目を向けざるを得ない状況です。彼らには、これが日本の熱い手のひら返しに見えました。


とはいっても、日本にだって言い分はあります。

まず、権益を引き継ぐとはいってもそれは「期限付き」であり、ちゃんと時がくれば中国に返す約束をしていました。

かつ、ロシアから引き継いだ鉄道を守るための「必要最小限の」軍事力を残してあとは撤退する約束をしているのです。

だから、ロシアの頃とは全然違うぞ!というわけです。


何より、先に述べた通り今回の日露戦争では日本は莫大な戦費と尊い人命を失うことになりました。当時は「二十億の資材と、二十万の生霊」という合言葉ができました。  

20億円の戦費と、20万人を超える死傷者を出した、ということです。

20億円といえば、アジア歴史資料センターの『日露戦争史』によると、1905年度の日本政府の歳入が約4億円だったので、その5年分ですね… 戦争の間だけ!という留保つきでしたが、この戦費をまかなうために国民は超増税され、貧困に苦しむことになります。

しかも、自分の愛する夫、子どもを戦争に差し出して、しかも多くの人が亡くなってしまった状況です。


こんな状況で、多くの日本人には日露戦争「大勝利」の報が届けられるのです。当然、沸き立ちます。

これで日本がロシアから侵略されることは当面なくなり、しかも、ロシアから多額の賠償金をもらうことで、生活も楽になる… 夫や子どもは亡くなってしまったけど、これで少しは気も晴れる…

みんなそう思っていました。


ところが、ポーツマス条約では日本はロシアから賠償金を1円も取れませんでした。


というのも、先に記載した通り日露戦争の実態は「大勝利」などではなく、日本にとっては本当に薄氷を履むような「辛勝」だったためです。

局地戦で勝利を納めていたのは事実でも、日本政府的にはもう財政的に戦争続行は不可能だったので、賠償金なしで妥協することにしたのです。


これで、一時的だったはずの気が遠くなる増税がずっと続くことが確定


当然ながら、それでは国民は納得しません。賠償金は無理でも、それに変わる経済的な利益は必要不可欠でした。

そのひとつが、中国大陸の利権だったのです。


日本にとって日露戦争は、当初は、自分たち自身をロシアの侵略から守るための戦いでした。世界に向けては「清国主権」と「門戸解放」を大義名分として協力を得ました。

なのに、ポーツマス条約が締結された1905年9月5日を境にして日本人の考えが変わりました。


多くの日本人が膨大な血と汗を流して獲得した中国大陸の利権、これは日本の正当な権利であり、絶対に死守する!という国民的合意ができあがってしまったのです。

以降、これまで良好な関係だったアメリカやイギリスとのすれ違いが始まります。


後世の後知恵でいえば、この強大な列強諸国を敵に回してまで固執するレベルの利権ではありませんでした…(※3)

※3 …… 当時4億人と言われた中国の人口のうち、日本が獲得した満州地域は僅か3百万人ほどの小さな市場だった



なぜ日本だけが批判されるのか…?

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孫文の肖像。中華民国の国父・政治家・革命家。初代中華民国臨時大総統


ここでまた、あれ?と思った方もいらっしゃるでしょう。

なんで日本だけがこんなに批判されるの、と。

だって、清国主権とか門戸開放とか偉そうに言ってるイギリスが、上海とか香港とかめっちゃ支配してるよね、と(※4)

※4 …… でも、アメリカは中国には利権を持っていなかった。なので、アメリカは正々堂々と「清国主権」を言えたし、それが後発先進国のアメリカにとって中国市場の利益をゲットできる最善の手段だった


当時の日本人も強烈にそう感じていました。三国干渉の屈辱的な記憶もまだ新しい頃だったはずです。


しかし、日本は世界に対してなんと言って日露戦争を戦ったか。

「清国主権」と「門戸解放」です。


日本は、欧米列強の間で中国の取り合いはやめようというコンセンサスが出来あがってしまった後に、しかも、そのコンセンサスに乗っかって中国利権を獲得していました。


そしてもうひとつ。

それまでは「眠れる獅子」などと揶揄され、欧州列強にされるがままだった中国人が、いよいよ覚醒しようとしている時代でした。

初代中華民国臨時大総統となる孫文を筆頭に、外国にされるがままの清帝国を倒し俺たちの国を作るんだ、という独立の機運が高まっていました。

つまり、今までだったらスルーされていた中国での外国人の横暴が、もはや許されなくなりつつあったのです。


1911年に辛亥革命が起こって清朝が倒れ中華民国ができた時、中国人は日本に対して満州から出て行け!と抗議します。

その時、日本は「ポーツマス条約で得た正当な権利だ」と主張するんですね。


しかし「条約でこう書いてあるんだから、おまえら言うことを聞け」と言って中国人が納得するわけがありません。しかも、その条約を結んだ時の政府(清国)はもうなくなっています。

日本の「正論」は、世界には通用しませんでしたが、それを諦めることはできませんでした。


満州事変で決定的となる国際社会からの孤立

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その後、1914年には第一次世界大戦が欧州で勃発。

ここで日本は頼まれてもいないのに、イギリスの同盟国という理由で参戦します。日本はドイツが権益を持っていた中国の山東半島を獲得しました。


世界が日本に対して漠然と抱いていた疑念が、現実のものとなります。実際にこの頃、日本は中国市場で圧倒的なプレゼンスを確保していました。

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加藤陽子(2009)、『それでも、日本人は「戦争」を選んだ』


国際社会からの批判は本格化します。そして、一方の日本人は態度をますます硬化させていきました。

そして、それがピークに達したのが1931年に発生した満州事変です。

先のポーツマス条約で日本にとっては「正式に」獲得した満州地域の利権でしたが、中国人からの抗議と、日本人の排斥活動が激化していました。

そこで、現地に駐在していた関東軍が、独断行動で、自分たちが守っていた鉄道を爆破し、それを中国人の仕業だとして、一気に満州地域を制圧。

その後、国家として独立させてしまいました。

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これには世界が驚きましたが、実は、日本政府も驚きました。

完全に関東軍の独断専行で、軍規違反ですらあったのです。当事者は当然死刑になるところでした。しかし、なんと、これをうやむやにして既成事実化してしまいます。軍規を犯した当事者は処罰どころか出世する始末…


なんでこんなことが起こってしまうのか。

ここで興味深い統計があるのでご紹介しますと、この満州事変が発生する2ヶ月前、東京帝国大学の学生に対して行った意識調査があります。

そこで「満蒙地域(南満州と東部内蒙古)に対する武力行使は正当か」という問いに対して、88%の東大生が「はい」と答えていました。

その理由は、先ほどから述べている通りです。

日本人は「二十億の資材と、二十万の生霊」を犠牲にして、ポーツマス条約によって「正当」にこの地域の利権を獲得した、と考えていました。

なのに、中国人がそれを妨害してくる。諸外国もそれを止めない。武力に訴えても許されて当然だ、というロジックです。

状況を俯瞰して、客観的に見る訓練を受けているはずの東大生ですらこんな感じでした。いわんや一般市民は…

政治家には、この世論に逆らうことができなくなっていたのです。


この後、1933年2月、国際連盟総会(国際連合の前身)の審議の結果、満州国は日本以外の全ての国によって否認され、それを受けて日本は国際連盟を脱退します。しかし、当時の日本人はこれを大絶賛しました。

中国大陸の利権、これを守るために世界に対して背を向けてしまった瞬間です。

そして1936年には、泥沼の日中戦争に突入。国際社会から批判を浴び、経済制裁もかけられ、ますます困窮の度を強め孤立していきました。



天皇とその側近による最後の努力

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いよいよ日米関係が悪化して取り返しのつかないところにきた頃、和平派によって最後の努力が試みられていました。昭和天皇と、その側近たちが中心となった勢力です。

戦争を避けるための最後の希望をかけた日米交渉が1941年4月に始まっていました。

そこでもボトルネックになっていたのが中国です。

両国ともできれば戦争は避けたいのが本音ですから、最初はアメリカ側も日本政府にとってまだ受け入れ可能な条件を提示していました。

中国からの撤退は絶対に外せない条件でしたが、それでも最初は日本人の国民感情を鑑みて満州国に関しては目をつぶる可能性が示されていました。


ところが

ここで当時の松岡洋右外相(国際連盟を颯爽と脱退した人)が日独伊三国同盟の武力を背景にアメリカと交渉するんだからそんな弱腰でどうする!中国からの撤兵の必要なし!と交渉チームが持ち帰ってきた内容を完全否定します。

ここでアメリカは態度を完全に硬化させてしまいます。

そして、その後の日本の南部仏印進駐に伴い、アメリカは経済制裁を発動。そして、石油や重要軍需物資の対日禁輸を決定しました。

アメリカに石油や軍需物資を依存していた日本はここで進退窮まります。


そして、1941年9月6日。

御前会議(大日本帝国憲法下の日本において、天皇臨席の下で重要な国策を決めた会議)が開催され、10月下旬を目処にアメリカ、イギリスに対して戦争をすることが決定されてしまいました。


しかし、天皇とその側近は諦めずに最後の努力を試みます。東條英機を首相にすることにしたのです(明治憲法では、首相は議会ではなく元老によって選ばれる)。

東條英機は陸軍のバリバリの主戦論者でしたが、それだけに陸軍内での力がありました。一方で、天皇に対しては忠実な人でもあったのです。

その忠誠心を利用して陸軍を押さえ込み、日米交渉を前進させるという非常にリスクの高い、それでも、起死回生になりうる策でした(※5)

※5 …… 当時の日本には「軍部大臣現役武官制」という制度があり、軍の賛同が得られない人は実質的に首相になることが不可能だった。つまり、単に戦争を回避したいだけの人を首相に据えても、軍の反対で潰されしまうのがオチだった。


東條英機はかなり困惑したようですが、天皇の意図を汲み、忠実に太平洋戦争を避けるための努力をしました。


しかし、その努力をひっくり返したのが11月26日のいわゆる「ハルノート」です。アメリカの国務長官コーデル・ハルによって作成された、実質的な日本に対する最後通牒と言われています。

そこには、「満州を含む中国、仏印から日本軍及び警察の全面撤退」が記載されていたのです。

つまり、日本人これまで獲得してきた中国大陸の利権を全て捨てろ、といってきたんですね。


これは、当時の日本人には到底受け入れられないものでした。

こうして、結局最後まで1905年9月5日に背負ってしまった中国大陸の利権を手放すことができず、最後までここに固執して、日本は破滅への道を突き進んでしましました。



私たちがあの戦争から学べること

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日本人にとって、あの戦争の一番の学びはなんでしょうか。

本当にたくさんあると思いますが、ひとつには「彼を知り己を知る」じゃないかと思います。

当たり前のことなようですが、私たち日本人はいまそれが出来ているでしょうか。

相手の気持ちを考えずに「正論」をぶつけまくってないでしょうか。自分たちの力量をわきまえずに無茶なことをしようとしていないでしょうか。


私たちは、あの戦争から本当に多くのことを学ことができます。学ばないと、また同じことを繰り返してしまうかもしれません。

私たちの祖先が「二十億の資材と、二十万の生霊」どころではない、文字通り国を滅ぼすレベルの犠牲を払って現代に伝えてくれている教訓を無駄にすることは絶対にできません。


平和は祈るものではなく、考えるものだと思います。

みんなでこれからずっと考えていけたらいいなと思います。



 おまけ:主な参考文献


普通のよき日本人が、世界最高の頭脳たちが、「もう戦争しかない」と思ったのはなぜか、ということをテーマに、めっちゃわかりやすく時代の流れとポイントを解説してくれています。


この時代の話って政治家や官僚視点のいわば上から目線で記載されがちなんですが、この作品は昭和の日本人のありのままの姿を、庶民視点も取り入れて描かれているのが個人的にはとても印象的で、面白いです


日米開戦直前の夏、時の政府から肝いりで選抜された官民横断の若手エリートたちによって構成された「総力戦研究所」。ここではアメリカと戦争になった場合のシミュレーションがされていたのですが、そこで出た結果は史実とほぼ同じだった… という衝撃的な実話


あの昭和の激動の国政政治の舞台の最前線にたち続けた重光葵元外相が、巣鴨獄中で記載した外交記録。なんとか太平洋戦争を回避しようと外交官として、後に外務大臣として、東奔西走したのにことごとく軍部に台無しにされていく様は読んでいてツライ


次第に日本が国際社会との強調を忘れて独善的な外交施策をとっていってしまうようになるプロセスを具に描かれています。上級者向けかも

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