価値観の正解はひとつじゃない(from シェアハウス)

いま私が住んでいるシェアハウスは、簡単にいうと「1年間住んで、それぞれの夢に向かって成長する」というコンセプトで運営されている。

しかし、最近シェアメイトのひとりが「1年間は長い」と言うようになった。

私は最初、その言葉を「やめたい」という意味だと思ったので、かなりドキッとした。

無理して共同生活していたのかな?と色々勘ぐって、勝手にとても心配したのである。


しかし真意を聞いてみると、少し違うようだった。

とてもシンプルに書くと、「人間関係が固定されている」ことに懸念があるとのこと。

①いま住んでいるシェアハウスは、ここが自分にとっての活動の場でもあり、生活の場でもあるという状況。だから、例えば仮にここで人間関係の問題があった場合、逃げ場がない。

そして、

②田舎特有の人数の少なさが故に、出会いが広がらない。

とのことだった。

なるほどなあと思った。


私は高専を3年で中退して、浪人して、文転して大学に行って、会社に就職して4ヶ月で辞めてからシェアハウスに来た。

これまでの人生で、多種多様な価値観の人に出会うことができた。

また、浪人と現役、理系と文系、学生と社会人、会社員とフリーランスなど、いろんな価値観の違いを生でみることができたのが幸運だったし、楽しかった。

いろんな人との出会いを参考に、自分にとってもっとも心地よい「自分の価値観」を作ることができた。

特に生まれ育った鳥取と、大学時代を過ごした京都で出会った人には思い入れがある。

人生に悩んだときは、その場所を離れた今も、そこで出会った友人や先生に連絡をすることが多い。


今の高知・嶺北という場所は、私はもちろん気に入っているが、独特の価値観があると感じる。

それはちょっと乱暴に2つにまとめると、「外から移住してきた若いブロガーの価値観」と「ずっとここに住んでいる田舎のお年寄りの価値観」だと思う(説明は今回は省く)。

その幅は、決して広くはない。


限られた価値観の中で生きるデメリットは、「その軸に合っていないと、自分は社会不適合者だと感じて、自信が落ちるし、応援されにくい」ということだと思う。

本当は価値観の正解はひとつではなく、無限にあるのに、それを知らないで、今いる集団の正解に自分を合わせようとするのは、もったいないことだ

今回のシェアメイトはいま20歳で、高校に行ったり行かなかったりして、卒業後は引きこもりをして、シェアハウスに来た子だ。

比較することではないかもしれないが、一般的に、家族と学校しか知らない人と、いろんな出会い方で、いろんな人に出会って、いろんな経験をしてきた人とでは、やはり考え方や、人間としての厚みに差が出ると思う。

それを無意識に感じて、いろんな価値観の人にもっと出会いたいという気持ちが出てきてるのかもしれないな、と思った。

「価値観の正解はひとつではない」を、腹落ちさせる方法は、やはり実際に色々な人に会って、十人十色の価値観に触れるのが一番だからね。



少し続きがある。

先日、この話を小学校の時からの親友に電話で話したら、

「それはすごい!その子応援したい!」

と、半ば興奮気味に答えてくれた。

「だってその子、引きこもりだったんでしょ。引きこもりの人間が、外に出ていろんな人に会ってみたいと思うようになるってのはね。鼻からスイカなんてもんじゃないよ。

COKOちゃんはもともと外向的な方だと思うけど、もともと内向的な人間が外向きになるのには、外向的な人の何倍ものエネルギーが必要なんだよ」

親友からこのように言われたことによって、またひとつ、目からウロコが落ちた。(そして、鼻からスイカが面白い。笑)


私は半年間のシェアハウス生活を経て、シェアメイトを疑似的な「家族」のように感じていた。

夕食を作るときは、ただ自分の食べたいものを作るというのではなくて、「今日は寒い夜だからみんなで温まるメニューにしよう」とか、「今日は直売所で、珍しい旬野菜が手に入ったから、一緒に季節を感じられる料理を作ろう」という感じで、「みんなで楽しい気分になれるもの」をずっとテーマにして作ってきた。

それ以外の時間も、シェアメイトたちと家で顔を合わせるたびに「元気かな」「異状なしかな」と、様子をみたり声をかけたりして、確認していた。

みんなのことを、いつも気にかけていた。

だから「1年は長い」というシェアメイトの言葉を最初にきいたとき「やめたい」という意味だと解釈して、家族がバラバラになることに近いショックを受けていたのである。


しかし、ショックを受ける必要はなかった。

つまりシェアメイトは、このシェアハウスで、考え方が進化したのだ。

このシェアハウスは成長を目的に集まっているのだから、今までと違うことを言い出したというのは、喜ぶべきことだったのである。

そもそも「もっと広い世界を見たい」と思うことは、人間にとっては極めて健全な成長だ。


私はもともと勝手に背負い込みやすい性格なのだが、この性格のおかげで、期せずして子離れできない親の気持ち(の、ようなもの笑)を疑似体験することとなった。

そして、

①シェアハウスの仲間に対しての、成員の見方はそれぞれ違うということ(みんなシェアメイトを大切に思っているが、必ずしもみんなが「家族」のような気持ちで仲間をみているわけではないということ)

(親友は、「家族と考えるのもひとつの見方として間違ってないと思うよ」と言ってくれた。)

②今回のことは「仲間がバラバラになる」という意味ではなく、仲間が成長したことの証で、それは喜ぶべきものであること

この2つを学んだ。


これもまた、ひとつの成長なのかもしれない。





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