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立体交差の議論

すっかりnoteをお留守にしてしまった。
以前は何でもかんでも書きつけていたけれど、今は「書きたい」という衝動が実際に画面に向かわせるあいだにいくつかの紆余曲折があって、つい遠のいてしまう。

単純に書く時間がなかったり、
今はまだこれについて書く時期じゃないんじゃないかと疑ったり、
他の誰かの文章を読んで、書くという行為の中にエゴを見出して書くことに気後れしてしまったり、
アウトプットよりもインプットにかまけてしまったり、

…そんなところ。

パリで行われたイベントのお手伝いをしてきた。
こういうお手伝いをするといつも、貧困とかエコとかが叫ばれているのに、お金はあるところにはあるし大量のゴミが省みられることもなく捨てられているんだなあとうんざりする。
お世話になった方々はみんな良い方で、楽しい仕事であったことが救い。

今週は友人とのやりとりを通して、ひとと人とが議論するって難しいなということをつくづく考えた。
その友人とは今まで何度も衝突しては仲直りしているのだが、どうもある領域からはとことん柔軟性を失うようなところが彼にはあるような気がしている。
普段は感覚を分かり合える良い友だと感じているんだけど、急にぐっと頑なになる瞬間があって私にはその逆鱗のありどころが今だにわからないのだった。
原因のひとつは私があまり上手に言葉を操れていないことと、彼の論点よりも、私が大事に思うことが、別の階層にある…つまり私が言っていることはどちらかというと具体的な問題点には触れていず生きるということの根本のことを語ろうとしていて、彼が取り上げたいのはもっと個々のこと。
それを同じレベルでの話だと考えると、私の考え方はただの空論というか戯れのように感じてしまうのも想像できる。
でも、そのことをうまく説明できないんだな、いつも。
ことばの上手な人には、会話をさらって行かれてしまうから、自分がほんとうに言いたいことじゃない道にひょいっと運ばれてしまって、その道はほんらい自分の本意じゃない道なのに、その道の中だったらこう言うしかない、という言葉を不用意に発してしまう。
そうするとそこを突っ込まれて、自分の論点が自分でもぼやけていってしまって話が止まってしまう。

やれやれ。
もう少し上手に話ができるようになりたいものだけれど、上手に話ができないという特質こそが、この「生きるということの根本」の部分を手放さず漂っていられる理由でもあると思うので、どちらも捨てがたいというかなんというか。

言葉とはやっかいなものだな。

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