見出し画像

自分も他人も叩き潰さない

以前は、自分が信じていることを誰かに伝える時、「これは私が個人的に信じていることであって、相手にそれを押し付けたくはない」という気持ちが勝って、ものすごく遠回りに言ったりはっきり伝えなければならないときには手が震えてしまったりしていた。
特に関わっていた媒体に関することでは過去のトラウマ(その媒体は数年前にPTSDを患うことになった事件と密接に関わっているため)も手伝って、パソコンでうまく文字が打てないほどに震えてしまったりしていた。

自分の大事にしていることと、その媒体全体として見ればもっと緩やかに許しても良いこととを自分の中でうまく切り分けることができず、ずっとしんどい気持ちだった。
私はその媒体にとても愛情を持っていたので(自分が作った場であることもあって)、毎日、不具合はないか、ライターさんたちが不便をしたりしていないか、気持ちよく参加してもらえているか、楽しい仕掛けができないか、細かに見て丁寧にひとりずつとやりとりをしていた。
けれど、そういうことをしているのは私だけで、他のスタッフはサイトにエラーがあっても全く気づきもしない。
みんな自分の生活が忙しくて、気にかけている暇はないのだ。
実質仕事をしているのは私一人だった。
毎月20人ものライターさんとやりとりをし、エラーを発見しては直し、コラムに感想を書いて送り…まるで赤ん坊を世話するように、大事にしていた。
しかし他のスタッフは、そこまでの思い入れがないから、ライターさんとのやりとりもどこか「うちの媒体に書けて嬉しいでしょう」という気持ちが透けて見える。
私ライターさんが書いてくれなければこの場は成り立たない、書いてくれることに対してどうお返しをできるかわからない、という気持ちでいた私は、彼らのそういう態度に対して何度も大事なことを伝えてみたのだが、表面的にはそれを理解したような反応がかえってきても、結局はこころの根に「書く場所をあげている」という気持ちがあるのか、ライターさんへのメールにその気持がのぞいてしまう。
そういう言葉の裏にある気持ちに、ひとは敏感であると私は思う。
だから、そういうメッセージを見つけるたびに差し止めて、訂正して送っていた。

これは最低限の礼儀である、とか、お金のことはきちんとしなければならない、とか、時間は守らなきゃいけないとか、相手に頼む仕事があるならそれを優先的に回さなきゃいけないとか、本番を急にキャンセルしてはいけないとか、お客さんを呼び捨てにしてはいけないとか、
そういう言うまでもないこと、これは私だけの常識ではないと思うこと、もちろん私は私から100%離れることはできないから100%の客観視などできないけれど、私だったらそんな態度をとられたらすごく腹が立つよね、と思うようなことを、悪意なく自然にやっちゃう人が私の周りに最近多すぎて、もしかして私が神経質すぎるのだろうかと疑いたくなる。
私がただ周りに対して懐疑的になりすぎて、小さいことをつついて大げさに怒っているだけだろうか?と。

以前は手が震えながら、なんとか嫌な気持ちにならずに受けとってもらえたらいいな、などと神経をすり減らしながら伝えてみていたのだが(短いメールに2日くらいかけたりした)、いかんせんこういうことが多すぎて、私はもうこういうことをちゃんと叱っていっていいのだ、と思うようになった。
こういうことが本当にわからないひとたちがいるのだ。
それを認めよう。と。

私は十分に自分を客観視できている。という自覚もある。
もちろんそのことを過信しない、と肝に銘じながら、自分がこれはどうしてもおかしいんじゃないか、と思うことは伝える覚悟を決めた。
うるさいなあと思われたり、そんなつもりじゃなかったのにと相手が傷ついたりするようなこともあろうが、そのときにはその時の対応をすればよい。
一旦はストレートに伝える。
そしてフォローすべき時にはきちんとフォローする。
指摘と同時に、解決策を伝える。
ストレートすぎたかな?きつく言い過ぎたかな?と思うくらいのことを書いても、私の言葉は柔らかいし遠回りだし相手の立場のことを考えて話せているらしいので、大丈夫。
できるだけはっきり言おう。
感情的になる必要はまったくない。

そうするようになったら、気がついたら手が震えなくなっていた。

私が正しい、正しいことを言っているから良心の呵責もないから手が震えないのだ、…なんてことではもちろんない。
私はいつだって正しくないかもしれない。
私にとっての正しさは、私だけのものだ。
でも、今私がそのことを私の胸に聞いて「正しくないんじゃないかな。こう伝えたほうがいい気がする」と思うなら、それをまっすぐ伝えれば良い。
相手だってただ気づかないだけなのだったら、それに気づけて勉強になるかもしれないし、逆にこちらの気づかなかったことを指摘してもらえるかもしれない。

喧嘩別れにならず、上手に議論をしているフランス人から、少しずつ私も学んでいるのかもしれない。

ここから先は

0字
連載を進めるうちに何故私がフランスで生きることを決めたのかにも関わってくるので、そのことを掘り下げてゆけることが自分でも楽しみな連載です。 読んでいただけたら嬉しいです。

いわゆるモラハラを受けていた過去の辛い時代について考えたことを書きました。今の私がどうやって元気になっていったのか、どうやって自分の足元を…

頂いた「サポート」は、よりいいものづくりのために役立てます。