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作品をつくっていてよかったなあ、と思ったこと

パリからほど近い村に行ってきました。
こちらに書いたヨーロッパ世界遺産の日のイベントに参加するためです。
共同で作品を作ったのは、日本人が2人と、フランス人2人、ポーランド人。パリで何回か打ち合わせや作品のすり合わせをして、車で出発、3時間ほどで村に着きました。

村では、屋根瓦を焼くための窯とその近くにある大きな蔵を住むための家に改築した建物があって、そこに滞在しました。
屋根瓦を焼くための型とか、窯の跡があってとてもおもしろかった。
ボーリング場にできそうな広い屋根裏に寝泊まりしたり、昼には庭にテーブルを出して、採れたかぼちゃやズッキーニなんかでできたパイをみんなで食べたり、近くの小川にあるもう使われていない洗濯場などを見に行ったり、城の跡を見たり。
小川のせせらぎに包まれながら、花を育てたり森を散歩したり、猫と一緒に暮らしたり、村の隣人と時々長話をして生活するのもいいなあ、と…いいなあ、なんてのんびりした感じじゃなくて、切実にこういう暮らしがしたいなあと思ったりしました。

夜は花火が打ち上げられて、それを見に行きました。
村の人も、隣村のひとも、たくさんのひとが集まって一緒に空を見上げた。
これまでで見た花火の中でも五本の指に入るほどセンスのいい花火だった。
こんな小さな村でよく予算があったな…。

このものづくりの活動をしていなかったら、私はここにはいなかったんだな、ということをふと考えた。
私はあまり器用な方じゃないし、何ごとも感じることが先立ってしまってその感触が身体を支配してしまうから、実用的な立ち回りがうまくできない。周りの人を見るとどうしてあんな風に日常を、社会生活を、ちゃんと営めているんだろう。私は欠陥だらけじゃなんじゃないだろうか、と時々悲しくなる。
言葉だって、人よりうんと、習得が遅い。
疲れるとすぐに人の声と周囲の音が聞き分けられなくなってしまう。
日本語なら口を見ていれば何を言っているか分かるが、フランス語では口の形から音を想像することはまだできなくて、周囲の音ばかりがボリュームを上げて、もうだめだ、とぎゅっと目をつぶってしまう。

けれど、私のこういう「感じやすさ」、うまく感覚同士に区分ができないような性質(私は共感覚者なのです)は、芸術に関わる中で居所を見つけることができたし、どうにもコントロールできない自分/世界と自分との間の溝を、自分なりのやりかたで見つめる手段を教えてくれた。
ものづくりに携わっていなかったら出会えなかった友達がたくさんいる。
ものづくりに携わっていなかったら私はこの村にもいないし、こうしてここで一緒に花火を見上げることもなかったし、そもそもフランスに住むこともなかった。
もしかしたら、ここまで生きることだって難しかったかもしれない。

花火を見上げながら、少しだけ泣きそうになった。

村で飼っているミツバチが集めた蕎麦の花の蜂蜜は、やはり蕎麦の香りがしたし、濃厚で渋味もあるような味わい。
自分のためにひとつ、友達のお土産にひとつ買いました。
そのほかに、村の花の蜂蜜もひとつ。

最終日は夜にパリに戻ってのお披露目。
会場が狭かったのだけれど満員のお客様が来てくださって、次々に感想や感動を伝えてくれた。
自分からはフランス語でなかなか話しかけられないし、大勢の会話に切り込んでゆくようなスピードで話せもしないので黙ってにこにこしてしまうのだが、こうして作品を見てもらったあとには、興味を向けてもらって話しかけてもらえて、たどたどしいフランス語もじっと時間をかけて聞いてもらえる。
村で作品を見た方がパリまでついてきてくれて、やっぱり最後の回が一番良かったよ、と言って下さった。
本番が終わったあと、お客さんも交えてワインを飲んだり、ご飯を食べたりしたんだけど、その方はずっと私の隣りにいて「ご飯美味しい?」「パリにはいつ来たの?」と話しかけてくれた。
ちょうど私の祖母くらいの年の方だったし、話す雰囲気も祖母に似ていた。
大好きなおばあちゃんを思い出しながら私も色んなことを、つっかえながら話した。

楽しいお祭でした。

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