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父のラストソングは”Good-bye”

初めに今から20年程前、僕が森林組合で木こりをしていた時の話をする。

木こりなので基本現場は山奥で、移動用の車から近い場所の場合は車で、遠い場合は山の中にブルーシートを張って昼休憩をする。昼休憩は11時半から13時まで。この間に昼食を済ませ、昼寝をするルーティンなのだが、毎回必ずBGMで流れるのはNHKラジオ第一。11時35分あたりから15分間流れる「私の本棚」という朗読番組があって、昼食を急いで流し込んで、煙草を吸いながらその番組を聞くのが楽しみの一つになっていた。
その番組の中で朗読されていたのが久世光彦氏の「マイ・ラスト・ソング」というエッセイ。「もし最期の時に一曲だけ聴くことができるとしたら、どんな歌を選ぶだろうか?」というテーマで書かれた内容が心に響いて、いつもは聞き流すだけの番組に耳を傾け、その本のタイトルをメモした。

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自分がどのラストソングを選ぶか?というよりも「音楽が好きな父ならどんな曲を選ぶだろうか?」という思いが強く湧いてきて、その仕事の帰り道、その本を本屋で取り寄せして買うことになる。今ならAmazonでポチッとすれば翌日には届くから余り印象に残らないが、あの頃は自分の欲しい本は本屋に行って、なければ取り寄せして手に入れたから、この本を読んで父に渡した後の会話まで、すべて印象深く心に刻まれている。

その後に八王子の実家に帰る機会があって、実家の居間で家族揃ってお茶を飲んでいる時に、その本を父に手渡した。そして、まだ読んでもない父に向かって「お父さんが人生の最後に聞きたい曲は何?」と訊いてみた。
父の音楽の趣味は演歌からジャズ・クラシックまで幅広く、悩むと思ったし、僕からしてみれば「問題提起」のようなものだったから、すぐの答えなんて望んではいなかったのだけれど、意外にも答えはすぐに出た。

「お父さんはもう決まってるんだよ。葬式の時はこの曲を大音量で流してほしいってね。ベニー・グッドマンの"Good-bye"って曲なんだよ。」

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その時から、葬儀の時の曲だけは決まっていた。
人生の最後に聞きたい曲を訊いたんだけどな…葬式の曲が返ってきた。


あれから20年が経って、先日、2021年4月6日15時14分に父が亡くなった。
家族がついていけないくらいスピード感のある、キレのある最後だった。
そして死ぬ間際でさえ、たくさんのエピソードを残していった。
こんな亡くなり方は父にしか出来ないだろう。

そんな父が最後に残したエピソードが、まさに亡くなるひと月前からの経緯。僕が直接見聞きした場面は少ないので不確かな点もあるけれど、母や兄から聞いた話も合わせて簡単にまとめてみる。

3月の初旬から肩の痛みを訴えていて、整形外科に診察に行く時に、自分から心当たりを母に喋り始めた。「いずれわかっちゃうから言うけどさ…」と。

父が言うには、ボケ防止のために寝る前に横になりながらスマホで「ソリティア」を毎晩1時間程ずっとやり続けていて、そのやりすぎがたたったのだろう…とのこと。白状した内容がまさかの「ソリティアで寝落ち」て…

父は若い頃から早朝野球をやっていて、そのトレーニングとして毎朝走っていた。近くの公園まで走るジョギングから、通販で買ったルームランナーに変わり、そのルームランナーが壊れるまで使うと、今度はエアロバイクになった。それは肩の痛みを訴える直前まで続いた。約40年間も。40年もですよ!

健康診断も毎年受けていて、健康には絶対的な自信があったから、そんな父が肩の痛みを訴えるとしたら…「ソリティア寝落ち」くらいしか無いか…そんなバカな!という話だけれど、家族全員がなぜかそう思ってしまった。
ただ、昨年の健康診断はコロナ禍のため受けていなかった…ようだ。
それを悔やんでも仕方がないから、今となってはこれはどうでも良いことだけれど。

整形外科で撮った肩のレントゲンも異常なし、鍼治療をやってもらえれば、「80歳のカラダには見えませんね!」と感心されて、逆に気を良くしてしまう始末…

おとなしくしていれば、すぐに治るさ…と本人も僕たちもそう信じながら、1週間が経ち、2週間が経った。

母からの電話で、その間、父は夜殆ど眠れていないということを知った。横になって背中が布団に触れると激痛が走るため、布団にあぐらをかいてクッションを抱えながらウトウトと寝ているという。そして痛みが少し収まると横になって寝て、また30分くらいすると痛みに耐えきれなくなって起き上がり、再びあぐらをかいてクッションを抱えるの繰り返し。

食欲もなくなり、お出かけ好きな父が外に出る気力もなくなって行った。

「もう体重も6kgも落ちたのよ」と母は言う。

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その週末、父を驚かせようと奥さんとサプライズ帰郷をすることに。前日の晩から父へのお土産にパンを焼いた。有機レーズン入りのカンパーニュと普通のカンパーニュ。朝はパン食の多い父に喜んでもらえるだろうか?

父に最後に会ったのは昨年の10月終わり。世の中がGO toキャンペーンで盛り上がっている時に、なんの特典もつかない飛騨の家に来てくれた。あれから5ヶ月ぶりの再会。

居間でいつもの笑顔でむかえてくれた父。もっとげっそり痩せているのかと思ったら、顔は頬がちょっとシュッとして「更に良い男になったね」というくらいだった。「そうだろう、そうだろう」と笑う父だったが、きっと筋肉もだいぶ落ちているんだろうな…と感じた。

食欲がないという父が、僕らの前で楽しそうに話しながら、焼酎の水割りを飲み、ロースカツ1人前を平らげた。

「今日はよく食べるね」と母は驚いていた。

いつもは20時には就寝して、家族から「子供か!」と突っ込まれる父がその日は21時半ころまで居間で談笑して、やがて2階の寝室に上がっていった。その後兄や母と談笑していたら、父が笑顔で降りてきて母にこう言った。

「今日は結婚記念日でした!今気づきました。ごめんね。いつもありがとうございます。それではおやすみなさい」

そんな元気があるなら大丈夫!肩の痛みにテンションが落ちていただだけなのかもしれないな…誰もがそう思った。

翌朝、父とブランチをした時も父はよく喋った。飛騨のこと、山菜のこと。お土産のパンをみて「パン屋で売っているやつみたいだな」と喜んで「美味しい」と言ってくれた。

会話の中で「なんで自分はこんなに肩が痛いんだろうか?レントゲンでも鍼でも異常が無いというのに…ということを夜眠れない中で考えるんだよ…自分の人生何だったんだろうって…」と言い始めた。

それほど痛くて辛いんだな…。「でも、きっとこの痛みには意味があるんだよ」というようなことを僕は返した。「早く元気になって飛騨においでよ。車じゃなくて、あずさで松本まで来てくれれば楽だし、松本まで迎えに行くから」とも。

その後父は疲れたようで2階の寝室に上がっていった。

兄の話によると、明日から朝のトレーニングを少しずつ再開しようと考えているらしい。ちょっとテンションが上ってきたのかな?快方に向かっているのかな?と僕らもテンションが上った。

帰る時に寝室を除くと、あぐらをかいてハズキルーペをして新聞を読んでいた。「帰るね、次に会うのは飛騨でだね」と言うと「そうだな、気をつけて帰れよ」と返した。その時の新聞を広げながらハズキルーペをして上目遣いで僕を見上げる父の姿がなぜか目に焼き付いている。
今思えば、その時に僕も何かを感じていたのかもしれないけれど、良くないなにかだったからそのまま感情を押しつぶしたんだろう。そういうことって良くある。そんな時は「ちがうちがう」と顔を横に振ってリセットする。
ちなみに、うちの奥さんは「会うのはこれが最後かも…」という予感がしていたようだ。

飛騨に帰った翌日、実家に電話した。

「お父さん走った?」

「走ったけど3分持たなかった」

「えっ、そうなんだ、やっぱり辛いんだな」

40年もの間鍛え続けた心肺機能はそんなにすぐに落ちるものなのか?という疑問。家族から「呼吸が浅すぎやしないか?」との声が出始めた。

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その後数日間、整形外科でMRIを行い、内科を受診してレントゲンと血液検査を行ってもらうことに。MRIの検査は、泣き言なんてまず言わない父が「死ぬほど辛かった」と母にこぼしたくらいしんどかったようだ。
内科のクリニックでは、すぐその場で結果が出るレントゲン検査で肺が白くなっているのがわかり肺炎の疑いが出るも、その場でPCR検査を行いコロナの可能性は低いことが判明。「なるほど、肺炎で呼吸が苦しかったのか。肺炎と肩の痛みの因果関係がわかれば、お父さんもスッキリするだろうね」と全員が思ったが、どうやら考えが甘かったようだ。

その診断の翌日4月3日に、紹介された病院でCTを撮り、その結果を血液検査を行った内科へ持って再度診断してもらうと「すぐに入院が必要」とのこと。ここからが父の人生のクライマックス、今思えばここから一気にドライブがかかった気がする。

コロナ禍のせいなのか、病状の深刻さのせいなのか、地元八王子に受け入れてくれる病院はなく、隣の市の病院が受け入れてくれることになり、内科から救急車で搬送。その状況が実家の兄から飛騨に戻った僕のスマホへ逐一送られてくる。

受け入れ先の病院はコロナ患者受け入れの最前線病院でもあったため、病院に到着後、あれよあれよという間に救急車に同乗していた母と父は離され、少し遅れて兄が自家用車で着いた頃には「退院するまでもう逢えないかもしれない」という状態に。母も兄もわけのわからない展開に不安が募るばかり。でもこれがコロナ禍ってことなんだろう。

そこで母と兄は究極の二択を迫られる。

(1)退院するまでもう会えないかもしれないけれど入院する。

(2)次の受け入れ先が見つからないかもしれないけれど一度家に連れて帰る。

いろんな思いが溢れる中、まずは父の肩の痛みや呼吸の苦しさをとって、楽になってもらうことが先決だと入院を決意。

その後、この病院でコロナの陰性が確認できれば一般病棟へ移動して、多少の面会であれば可能であることがわかり、母も兄もほっと一安心。

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その日は土曜日で仕事が休みだったので、父に食べてもらおうと、以前送った時に好評だった「くるみあんパン」と新作「オレンジピールとカカオのパン」を焼いた。(結局食べてはもらえなかったけれど、母が冷凍して少しずつ、父と一緒に食べていることを想像しながら食べてくれた)
その時点で、僕一人で翌朝実家に帰ることを決めていた。

前回3月の終わりに帰った時に父に提案した「あずさ」を使っての帰郷。朝5時半に家を出て、松本発8時の「あずさ10号」に乗り、春まだ浅い信濃路を逆行。松本は桜が満開で、別には春は浅くないけれど「8時ちょうどのあずさ」だったのでなんとなく…(詳しくは狩人の「あずさ2号」の歌詞参照)
*小さい頃はたびたび信州に家族旅行に行っていて、その時父がカーステレオでよく「狩人」のカセットテープを流していたから、ウチの家族はほぼ狩人の曲とその歌詞を知っている…。

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10時過ぎに実家に到着して、母と兄と3人で今後を話し合う。この時点で血液検査の結果から体中に転移している末期ガンが疑われていて、この事を父に告知するのかどうか?実家の店のことや相続をどうするか?など…。

昔から、母が、こういう事を笑って話せるうちに話しておきたいと言っていたのだけれど…。元気な時ほどそういう話を忌み嫌うものですね。
笑って話せていたのは父のラストソングくらい…

11時半頃に病院から「コロナではなかったので、14時に一般病棟へ移動します」との連絡が入る。レントゲンを撮った病院でコロナでは無いことはわかってはいたけれど、最前線の病院の検査でも陰性が確認して、母はホッとした表情をしていた。「やっとお父さんに会える!」そういう嬉しさが表情に現れていた。もう僕らの母の顔ではなく、父を愛している奥さんの顔だった。
病院へ「15時までには行きます」と言って、店を閉めたり、父の着替えを用意したりと準備をする。

一時は二度と会えないとまで覚悟した父に「やっと会える!」という思いと、その後に突きつけられる重病であるという現実。どうやって前向きに告知するか?そんな事を考えながら車で病院へ向かう。

病院に着くと、書き物やナンプレ、クロスワードが好きな父のために、売店でナンプレ・クロスワードの本とノートとペンを買う。
車椅子で待合室まで連れてこられた父は点滴をしながらよく喋った。面会時間は10分と言われたが、これまた父がすごい勢いで、凄い目ヂカラでよく喋る。殆ど父の話で終わってしまい、10分なんてあっという間で、告知する時間なんてありやしない。
「お母さんが急にいなくなっちゃったから、どうなるのかと思ったよ」と入院時のごたごたで不安だった事を父が言う。でも、こうやって会うことが出来てお互いにホッとしている様子。
その後病院で起こったことを事細かに、順を追って父が話していく。もう誰かに話したくて仕方がなかったんだろう。肺に水が溜まっているせいで水を飲むことを制限されているために口が乾いてうまく話せないんだけど、そんな事お構いなしによく喋る。あっという間に10分が経って、父は病室に戻っていった。こういう時のコミュニケーションの方法にスマホのSMSやLINEがあるのだけれど、父は見ることは出来ても打ち込むことは出来ない。ソリティアの指はなめらかに動くのに、トーク打ち込みの指は全く動かない。看護師さんが上手く教えてくれないだろうか…

その後、救命救急での父の担当医に話を聞くと、状況としてはかなりヤバい事が告げられる。今生きているのが不思議であること。相当前から症状が出ていたはずであること。体中にガンが転移していること。おそらくは胃ガンが原因ではあるが、明日消化器内科の先生に診てもらわないと確定できないこと。告知については、消化器内科の先生の診断を受けてからしたほうが良いが、今晩急変するかもしれないこと。などなど。

結果、翌日、消化器内科の先生と面談して方向性を決めていくことにして、その日は帰宅。スーパーで購入した夕食を食べながら、兄の娘のダンスの発表会をZOOMで鑑賞する。鑑賞の為のURLを父にLINEで送ってあるようだ。父もスマホで見ているだろうか?
そう言えば4/4に僕も父のiphoneに昨年の父の日に贈った父と母のツーショット写真や、今晩の母の元気そうな写真とメッセージを送っておいたのだが、その後父から「ふむん」と意味不明の返事が来た。とりあえず見ることは出来るようだ。

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その夜、次のステップをどうするかを話し合った。
その時に母から、最近父が眠れない中でYouTubeで真剣に観ている動画があることを教えてもらう。多摩大学名誉教授である田坂広志氏の「すべては導かれている」という動画。まずはこれを見ることから始めよう。

翌日、5時に目が覚めて、田坂先生の動画を2回見る。これはなかなかすごい動画だ。今の父にはぴったりかもしれない。父がこの動画を何度も見るのがなんとなくわかる気がする。まさに「すべては導かれている」。結果的にこの言葉が、父や僕ら家族を支えてくれることになる。リンクを貼っておくので興味があれば是非ご覧になってください。

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https://youtu.be/qhSRBpML-3U

午前中、母が眼科の定期検診に行っている間に、動画の内容をwordにまとめてみた。病室が動画を見られる環境なのかもわからないので、プリントアウトして父に渡しておこうと思った。同時に、それは「家族も同じ動画を見ているよ」と言うメッセージでもある。こういう精神的な事は、家族が同じ価値観を持っていると知れることが心強いと思えるからだ。

午後は消化器内科の担当医と面談をするために再び病院へ。前日の医師との面談で、入院前に撮ったMRIの結果をCDに焼いてもらい、午後に病院に持っていくことになっていた。これは父が「死ぬほど辛い」と言ったMRI検査を再びやらなくて済むようにするため。

母と兄と僕と、途中で兄家族と合流し病院へ到着。
消化器内科の先生と面談をした。
「CTや血液検査の結果を見る限りでは、お父様はおそらく胃がんの進行形でステージ4以上の可能性があります」
「ただ、それを確定させるには胃カメラをやる必要があって、今のお父さんの肺や呼吸の状態を見ると、その検査に耐えられない。まずは肺や呼吸の状態を落ち着けることから」
「おそらくは、化学的治療もかなり難しい状況です。その場合、延命治療をするのか、緩和ケアで行くのか?…いかがなさいますか?」
と、ヘビーなお話。
僕ら家族は、これ以上父に痛みを与えたくない思いは一致していたので、延命治療という選択肢は無い。大好きな音楽を聞いて、窓からは若い時に登ったアルプスが見えて、最愛の母と家族に囲まれて穏やかな最後を迎えてもらう…そんな事を願った。
「わかりました。まずはお父様の痛みを和らげてあげて、肺の苦しみを楽にしてあげるようにします。告知についてはその後が良いかもしれません。今の状況での告知は受け入れがたいと思います。ただ、お父様も検査の結果を気にしておられるでしょうから、肺炎と胃がんの可能性も考えられます…ということは軽く伝えておきましょう。」と先生。
その後の父との面会を願い出ると、
「私の一存では決められないので、医局で話し合って決めますのでしばらくお待ちください」と言われた。

待合室で待っていると面会が出来るとのこと。
その嬉しさに反して、病状が深刻な場合にのみ特別に面会の許可がもらえるケースに今まさに当てはまっているんだと思うと複雑な気持ちである。

面会は兄家族(兄・義姉・姪2人)と、母・兄・僕の二手に分かれて行われることに。車椅子で病室の前に出てきてくれた父と、その傍らにはパソコンで父のカラダをモニタリングする看護師、そこから廊下で約5メートルの距離をおいての面会。「ほっちゃん(姪っ子、孫)、昨日のダンス見たよ。とても良かったねぇ」と父の声。
おっ、観れたんだ。よかったよかった。
孫に囲まれた談笑で父は呼吸は苦しそうだけど、本当に嬉しそうだった。
続いて母・兄・僕の番。どんな事を話そうか?と思っていたけれど、そんな心配はどこかへ言ってしまうくらい父がしゃべる。
「あれ、雄介は帰らないのか?」
「この後帰るよ。せっかくだから顔見に来たんだよ。」
「ありがとうな、気をつけて帰ってよ」

「看護師さんが本当によくやってくれて、とてもありがたいんだよ」
「あまり水が飲めなくて、痰が詰まっちゃうから箱のテイッシュペーパーがほしいんだ」

生死の瀬戸際にありながら、普通に周囲への感謝の言葉が出る父から学ぶことはたくさんある。

面会の時間はあっという間に過ぎてしまう。最後に滑り込ませるように
「田坂先生の動画観たよ!凄いねあれ!内容をまとめておいた紙を渡しておくから、また観ておいてね」
と言った。

面会の後、病院にあるコンビニに箱ティッシュを買いに行き、医局へ渡しにいった。医局前で看護師さんを待っている時に、父の病室の方を見ると、カーテンの隙間から父の足が見えた。
あのハリのある筋肉をまとった父のふくらはぎが随分と細くなっていた。

実家への帰り道は昨日よりも気持ちが重い。担当医から聞かされた現実はあまりに厳しかった。兄が「電車の時間は大丈夫か?」と聞くので「一度実家に戻って、仏様に線香を上げてから帰るよ」と言った。
母が弱っている時、うちの奥さんがいつもギュッと手を握ってあげていたのを見ていて、今回は僕がそれをしていこうと思っていた。

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実家を出る前に、母と二人きりになった。
母が母から父の奥さんの顔になって、緊張の糸が解けて寂しさが涙と共に溢れ出した。
そんな母を見て僕は抱きしめることしかできなかった。
「もう楽しいことできなくなっちゃうよ。あたし一人じゃどこにもいけなくなっちゃうよ…」
ずいぶんと小さな体。よくこの体から自分が産まれたものだ…。だからこそとても愛おしい。肩を震わせて泣く母を座らせて、うちの奥さんがしたようにギュッと手を握る。涙が出てくる。でも、まだダメだ。これからなんだから。もう一度母をギュッと抱きしめたら「お父さんみたい」と言われた。
昨年あたりから、ほぼ毎日ギュッとしていたらしい。どんだけ良い夫婦なんだよ…。

その日のうちに飛騨に戻り、翌日、会社に状況を伝えた。
仕事の合間に緩和ケアが出来る病院を調べたり、飛騨の家を拠点に(実家では狭いためそこでのケアはほぼ不可能)緩和ケアができるかどうかを考えたりした。

実家では互助会に入っていない為、母が「朝のうちに斎場に入会しておきたい」とのことで、3年ほど前に父と「こんなところで家族葬ができたらいいね」と見学に行った斎場に入会手続きに行っていた。その入会手続きの最中に、母の携帯に着信があった。病院からだ。
「お父様の呼吸の状態が芳しくないため、これ以上悪くなるようなら眠らせる薬を使う可能性があるけれど良いですか?ただ、そうすることでお父さんは呼吸が楽になりますが、意識が戻らない可能性もあります」とのこと。
基本、父が苦しまない方法を最優先する方針であったから、それについては構わない。入会手続きをさっさと済まし、母と兄家族で病院に向かった。

15時15分ころに兄からの着信。

「お父さんね、今亡くなったよ…」
声をつまらせる兄に言葉が出ない。やっと出た言葉は
「どんなだったの…苦しまなかったの…」
だったと思う。

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兄の口から父の父らしい最後が語られる。

息せき切って病院に着いた母と兄家族。しばらくすると面会が許された。
今度の面会場所は病室。これには父がいちばん驚いていたらしい。
ベッドにあぐらをかいて座っている父が言った
「おまえら、よくここまで入れたな」

ここでも一生懸命しゃべる父。その目はステージ4の末期がん患者の目ではない。とても力のある光を感じる目だ。みんなと少しずつ話す中で、呼吸が辛くなってくると徐々に前かがみになる。「この状態が楽なんだよ」と父は言う。その父の背中を、入院前に家で父がつらそうな時にしたのと同じように、母がさする。父の話す内容から本人は肺炎が治ったら退院して、また元の生活に戻ることを確信しているようだ。
でも、母や兄家族は違う。もう、残された時間はそんなに無いことを理解している。そんな中で母が口を開く。
「お父さん、今までたくさんありがとうね」
「お父さん、最後に私たちに伝えておくこと無いの?」
これは随分と重たい言葉。言う方にも聞く方にも相応の覚悟がいる。
(言葉は違うけれど概ねこんな内容のことを言ったようです)

でも返ってきた言葉は
「大輔(兄)、そう言えば注文した軍手は入荷したのか?」
「お母さん、ちゃんとごはん食べてんのか?」

そこか?

でもこの言葉のおかげで、父が亡くなってからも母はちゃんとごはんを食べている。とても愛のこもった言葉だ。

面会を終え帰ろうとした時に、父が下着を変えたいといったので、母が着替えさせた。父はキレイな下着に着替えられてホッとしたのか、そこから一気に意識レベルが低下。先程の光を宿した目はもう焦点が合わなくなり、そのまま息を引き取った。

令和3年4月6日15時14分。入院してからわずか4日。父のクライマックスは僕らがついていけないくらいのドライブで進み、父らしいラストシーンで幕を下ろした。享年81歳の人生。残念なことに、この段階で、父は自分の指定したラストソングを聞けていない。
ただ、僕は、このラストソングを葬儀場全体に流すのは自分の役目だとこの話を聞いた時勝手に思っていた。

職場から家に戻ると奥さんが実家に戻る準備をしておいてくれた。
昨晩きた道を再び父のもとへ向けて車を走らせる。

車の中では父が選んだラストソング「ベニー・グッドマンの”Good-bye"」が流れる。悲しいよりもカッコいい。最後までカッコいい人生だ!

21時に過ぎに父の遺体を安置する斎場に到着。
うちの実家は店舗も兼用で狭く、2階の仏間に父を運ぶのは現実的では無い。でも午前中に斎場への入会を済ませておいたからとてもスムーズにことが運んでいる。このあたりの無駄の無さも、見えない何かに導かれているようだ。この斎場はとても小規模で、一般の方のアクセスもとても不便なところにある。でも、父にとっては最高の立地とも言える。
この斎場の右斜め前には、今はもう建物は無いが、父の生家があった。その隣には陸上競技場や野球場、体育館などが入った公園があって、まさに父の若い頃のフィールドだった。僕ら兄弟も小さい頃に父とジョギングしたり、キャッチボールをした場所。そのまさに目の前に、父の遺体が眠っている。

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これがまた良い顔で眠っているんだ。
ステージ4のガンで亡くなったとは到底思えない。本当に父が普段寝ている姿のままで眠っている。
「やっとゆっくり眠れるね。ありがとうございました。お疲れさまでした」
父のカラダをなでながら、涙も溢れてくるけれど、もしかしたら「おう、雄介、来てくれたのか?」と起きて来るんじゃないかとも思い、なぜかイマイチ泣ききれない。それは全てこの父の遺体が遺体っぽくないからだ。
悲しみという感情もあまり湧いてこない。もっと色々話しておきたかった、もっと一緒に旅行に行きたかった、もっと自分の料理でお酒を一緒にのみたかった…と思いはあるけれど、それよりも、本当に痛みから開放されて、自分のステージを演じきって、生ききって、安らかに眠っている父を見れたことが、父の父らしい最後が、表現が難しいけれど、子供として誇らしく、嬉しかったんだと思う。
悲しみや寂しさは、きっともう少し後にやってくるんだろう。

葬儀までの6日間程はかなり忙しかった。
実家が商売をやっていたのと、交友関係が広かったこともあり、誰にどのように連絡するか?、ほぼこれに費やされることになった。
「なぜあの親父さんが、急に亡くなったのか?」それが信じられない方が多く「だって、1週間前に奥さんと一緒に歩いていて挨拶もしたんだぜ!」という方も沢山いて、そのたびに今回の経緯を懇切丁寧に話すことになる。質疑応答を含めると30〜40分程。これをコチラから電話をしては対応するの繰り返し。どこかホールを貸し切って合同説明会をしたいくらいに喉が渇く作業。これを兄と母がせっせとやる。途中端折れば良いんだけど、どこを端折って良いのかもわからないくらいにエピソードが豊富過ぎて、これは恐らく父から僕ら兄弟への挑戦状かと思われた。
「お前ら、このお父さんのエピソードをちゃんと伝えきれるかな?」

仕事関係や父の交友関係など、飛騨に住んでいる僕には手伝えない案件があまりにも多いので、僕は僕で「なんとか説明時間を短縮する方法がないものか?」「通夜に来られた方に説明する方法はないものか?」と考えを巡らせる。基本家族葬で行うが、通夜だけは町内会の関係もあって、身近な方々には参列いただこうということになったが、想定される人数だけで既に斎場の規模を超えていた…。
父の人望が息子たちを悩ませる…。

合間を縫って、母、兄、義姉、うちの奥さんと共に父が生前に撮りまくった写真を整理。その中で父に選ばれし写真はA4サイズにプリントされラミネートされ保管されている。その数1000枚を超える。その中から父の人柄や、母をいかに大事にしてきたか?がよく現れている写真を選別。その数150枚ほど。これをお通夜と葬儀の当日に会場中に張り巡らして良いとのこと。皆んなで写真を回し見しながらこれは誰?ここはどこ?とか、まさに父を偲びながら写真を選ぶ。
写真を選んでいる間中、僕の頭の中ではベニー・グッドマンの”Good-bye"がなっていて、これらの写真をうまくつないで”Good-bye"をBGMに動画を作成し、当日会場のモニターで流せば、まさに父が望んだ通りの葬儀になるだろう…そんな閃きにつながった。

そうそう、4/9に斎場にて湯灌と納棺が行われた。介護用のお風呂で父をきれいにしてくれるのだ。
父は安置されていた時よりもいくぶん顔が柔らかくなっていた。(元々柔らかい表情だっけれど更に)
お湯を入れていくと本当に気持ち良さそうで、最後に家にいた時はお風呂に長く浸かるのが気持ちが良くて楽しみだったようだから、まさに、今、やっと解放されてお風呂に入っている感じ。
お湯のせいか顔や体にも赤みが出てきて、リラックスしているよう。死後硬直を湯灌師が時間をかけてマッサージして解いてくれたおかげで、今にも目を開けそうなくらい気持ち良さそうだった。母が愛おしそうに頭を洗って「お父さん、お風呂入れて良かったね。気持ちいい?」と声をかけていた。
その後、納棺に移る時に母から納棺師に服が渡された。
それは誰もが「中川さんと言えばあの作務衣姿」と納得する作務衣。
作務衣に着替えた父は、生き返ったみたいに自然だった。

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通夜当日、想定を大幅に上回る人数の方々が参列してくれた。もう既に家族葬ではない…。このコロナ禍にこんなにアクセスの悪い葬儀場までご参列いただいて、本当にありがたいし、そこまで思っていただける父を改めて尊敬する瞬間だった。

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会場はまるで「中川和雄写真展」。壁中に張り巡らされた父の写真。若い頃、まだ髪がふさふさだった頃のイケメン写真や、貴重な結婚式の写真、野球をやっている写真、そして、写真の7割以上をシメている、母との旅行の写真。その殆どを、セルフタイマーをセットして小走りしながら最後に自分がフレームに入っての撮影で、その姿が簡単に思い出される。参列の方からも「そうそう、中川さんこうやって集合写真撮ってくれたんだよ」との声。
(※写真のお地蔵様は母の手作り。棺の中に入って父を次の世界へ導いてくれることになる)
遺影の写真には昨年の10月に行った石川県の瀬織津姫神社で撮った写真が選ばれた。両親ともにこの写真をとても気に入ってくれていて、これをパネルにして父の傘寿のお祝いとして贈っていた。セルフタイマーで撮る写真はポーズを決めるが、この写真は両親の振り向きざまを撮ったので、本当の自然の笑顔。この写真を撮るために僕はカメラを始めたもしれない。

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参列者には僕ら兄弟が作った手作りのカードを配布した。
そのカードには、父が無くなった経緯詳細と、会場で流れている動画へつながるQRコードが書かれている。

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そんな風にして、通夜の会場には父が望んだラストソング、ベニー・グッドマンの”Good-bye"が動画と共に流れ、参列された多くの方には、壁に張り巡らされた写真を見て父を偲んでいただいた。
配布したカードに載っているQRコードからの動画再生も300回を超えていたから、結構多くの方にご覧いただけた感じ。
僕らがこの動画に込めた思いは「こんな最高の夫婦がいたんだぜ、こんなにカッコいい親父だったんだぜ、皆んな、奥さんを、家族を大切にしようぜ」ってこと。そんな思いが一人でも多くの方に伝わったら、父が望んだ最高の”Good-bye"の実現が出来るのだと思います。

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動画は上の写真もしくはコチラをクリックorタップ

葬儀は親族だけの本当の家族葬。にもかかわらず、祭壇はお通夜からたくさんの供花に埋め尽くされ、立派なものとなった。

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途中ピアニストが来てくれて電子ピアノでBGMを弾いてくれていたのだけれど、会場に流れていた動画をご覧いただいたのか、もともとの選曲にはない”Good-bye"のスコアをipadで探してくれて急遽弾いてくれたのがとても嬉しかった。こういう事をさりげなくやっていただけるのは本当に素晴らしいし、ありがたいものです。

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かくして、父のラストソングは、父の希望通りに最高の形で会場に響き渡り多くの人に聞いてもらうことができました。
個人的には、動画の中の、曲のクライマックス「パパパパーン」のところからあとの新緑の写真への展開が気に入っています。

長い文章をここまでお付き合いいただき、本当にありがとうございました。
最後にぜひ、この父のラストソングの動画をご覧いただければ幸いです。

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動画は上の写真もしくはコチラをクリックorタップ





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