何もなくなった、と書いたあなたへ

自分にはどれだけの努力をしても、他の人が得ているような『幸せ』は手に入らない。
そう思っている人は、物事の大小の差はあっても、沢山居る。

不公平だなあ
何であんな何も努力してないヤツが、のうのうと楽に、楽しそうに、能天気に生きてるんだろう?
それに比べて、自分なんか、こんな思いばっかりさせられて、貧乏クジの人生しかないじゃないか!くそう!

世の中や隣人をいくら羨んでも、妬んでも、何も手には入らない。

幸福な人はずっと幸福
不幸な人はずっと不幸

そんなような文章を見たが、そうではない。

おもしろいことに、幸不幸は全員に平等にプラマイゼロで、毎日の中で起きている。
それは自分でも他人でも意外に注意していないと気がつかないものだという。
毎日の積み重ねで、一ヶ月。
一ヶ月の積み重ねで、一年。
そして一年の積み重ねが人生になる。

大切なのは一年や人生に繋がる、土台となる一歩の今日一日をどう過ごしたか?
もっとシンプルに、どんな気持ちで過ごしたか?

こういうことを書くと、巷で流行ってる、まるで自己啓発みたいだ。

そんな自己啓発なんて大袈裟な、金儲けのエサのような、そんな事ではない。
そもそも『自己啓発』というのは、改めて勉強なんかせずとも、みんな、どこかでやっている当たり前の行為なのに、自覚がないから分からないだけだ。

いまの自分よりもっと良い自分になるには、何をすれば良いのだろう?
そう思っているでしょう?
これで良いんだ。
そう思っても、
本当にこれで良いのか?
と、心の何処かで時々、自分を疑ったり相手を疑ったり、検証してるでしょう?
それを感じられた時点で、自己啓発している。

この書の通り、人の人生は毎日揺れ動きながら刻々と進んで行っている。

幸福は誰かと比較して決める事ではない。
不幸は自分の身に起きた出来事をどう捉えるかによって変わるもの。

どんなにお金持ちそう(そう=みたい)に見える人でも、食事の内容や着るものの素材が違うだけで、自分と同じように布団で寝て起きて、歯を磨いて、顔を洗って、オシゴトして今日一日を過ごすのは変わらない。

どんなに貧しそうに見える人でも、それをしているか、していないかだけの違い。

大抵の場合、自分を不幸で損な人生しか送っていないと感じている人たちに共通しているのは、
自分の欲しいモノを持っている他者ばかりをターゲットに注視しがちで、それを比較対象して、頭の中の天秤で量る ”悪い癖” がある。

前に記事で書いたが、日本社会では生まれた家によって、本人にどんなに能力があっても絶対に成りたくても為れない職業がある。
それは、医者。
医大に入るためには、既に小学校中学校からの基礎学力が必要で、親や家にお金がなければ高い学力の高校へ入学出来ず、医大の入学金、授業料、教科書代諸々は、優に億を超える。

それは自力で稼ぎながら出来る様なものではない。

昨今の無給医問題がそこにある。

医大卒の勤務医全員の家が、世間の言うような お金持ち ではない。
親も必死で金策している。
ただ我が子が誰でも成れる訳ではない『お医者さん』になるのだから、そのチャンスを逃させないため、と一生懸命頑張っているのだ。
それでも起きた、女子学生を不合格にするという医大の不正。
ここにも知らなかっただけの、不公平、不平等がある。

だから昔から
『上を観ればキリがない、下を観てもキリがない』
と言うのだ。

一律に誰の人生も量ることは出来ない。

自分が考えるべきことは、
今日一日の自分に楽しい事があったかどうか?
昨日あった嫌な出来事をいつの時点で、何日掛かって、嫌な事じゃないように解決出来たか?
明日は何を、楽しいことをしようと計画しているか?

今日あった嫌な、悪い出来事は今日片付けてしまおう。
今日の内に片付けないと、また明日嫌な思いをするから。

自分ではどうしようもなく、変えようのない問題は確かにある。
それを運命とか宿命とかで表現するのではなく、
それは『因縁』という。
因縁は、良くも悪くも ”縁” なのだ。
因果関係があって繋がっている縁=因縁

自分が生きるのに、それがどうしても邪魔をして歩もうとする人生の障害にあるのなら、何をさて置いても断ち切る方法を考えなければいけない。
けれど、人はそれを勘違いして、大切な人と簡単に縁を切ってしまう。
親を恨み、親のせいにして、お前さえ居なければ!と縁を切ってしまう。
『毒親』なんて、最悪な呼称を産み出した現在、そうやって親と縁を切らせようとする風潮は良くない。
それでは、みんな家族や親子を捨てて孤立してしまって当然だ。
他人と中々、心を通わせ合って生きにくいのに、唯一の血縁を断ち切ってしまったら、もう自分には誰も居なくなってしまうじゃないか。

虐待をするほどに傷つける親とは縁切っても仕方がないだろう。
でも、縁は心の中で繋がっているものであって、自分がその人を意識して想っているかどうかだけで繋がっているようなものだ。
疎遠にするのは、苦しいけれど、自分の中から、その存在をまったく消去してしまえば良いくらい簡単なことだ。

人が本当の意味で死んだとき
それは世間の一人も、その亡くなった人の事を思い出さなくなったとき。

そうなるには、自分の予想も着かないくらいに相当な期間が掛かる。

自殺でも自然死でも、これから死んでしまうかもしれないと自分のことを考えたら、
それを考えてみると良い。
自殺で自分はこの世から、とりあえず一旦は消える(消えられる)
でも人の心の中(頭の中)から、いつになったら思い出されなくなるくらいに消えられるのか?
一人残らず自分を思い出さないでくれ、それは不可能だ。

自分が生きている理由なんて何もない。
心臓が動いているから。
それで血液が循環して、脳に酸素が送られて、機能しているから。

生きる意味探しと、本当に生きている理由を混同して考えない方が良い。
空しくなるだけだから。

私が感じたことを最後に書こう。
大発作を起こして3日3晩寝込んで、やっと目覚めた朝、爽やかな風が窓から柔らかな陽射しと供に入って来て、鳥たちの声がした。

『これが在るからやめられないんだよなあ!』

意識混濁と喪失から目覚めた最初に思ったことだった。

私は、それを忘れない。

どれだけの痛みと朦朧とする意識で苦しんでも、
その苦しさに比べたら、ほとんどの事は大した事に思わなくなった。
痛みに堪えきれず、それで何も出来ない無能な日々を時間だけが過ぎて行って、死のうとした事も沢山あった。
それでも、穏やかに目覚められた、健康な人が当たり前に迎えている、
テレビドラマのような朝が私にも訪れる日がある。

それが私にとっては、何よりの素晴らしいしあわせ。
だから、それを味わいたくて今日も生きている。
眠る前に、「明日も良い朝が来るといいな」、「今日も何もなく無事に終わって良かったね」
一緒に寝る犬に話しかけている。

これをタイプしている私の手の親指の第一第二関節は、一週間以上前から突然脱臼して外れている。
理由も原因も不明。
病院に行った処で原因が判らないから、処置をしたとしてもまた外れるという事で成す術なし。
痛いはず、少しだけ痛いのに、その感覚も痛み止のせいで感じない異常事態。
どうにか出来ない問題のまま放置して生活していくしかないのは、とてもおかしいと思う。
でも、固定装具を外したら結局はまた脱臼するのだから無意味。

少しでも、ツラいと感じている誰かの気が楽になってくれたら…
そう願います。

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