PTSD/心的外傷(内傷)後ストレス障害

今では認知度のある傷病名だけれど、その具体的な内容や状況、PTSDに陥るメカニズムの詳細は未だ明らかにはなっていない。

世間では『トラウマ』という表現が当たり前に簡単に日常会話として使われてはいるが、実の処、トラウマというのは、そう簡単に埋め込まれる心傷ではない。
相当な衝撃的な問題に、ふとした時、意図せず受けた自分の認知を超える出来事に遭遇し、記憶にも残らないような部分で根を這っている心理的なものがトラウマである。

「私それトラウマでムリ」
そんな風に言えるものは単に ”苦手なこと” の部類だ。

トラウマがより深く心に刻み込まれ、記憶にもないかのようなもの
それがPTSDだ。

フラッシュバック体験で自覚する事が多いのがトラウマ

ある日、ある場面で、突然現体験をして、いつの事なのかは覚えてないが何となく覚えがある。と身体や脳が思い出す。
それが頻発するようになり、コントロールが出来ないほど精神的に苛まれ、にっちもさっちも立ち行かない程に囚われる恐怖感が現れたら、それはPTSDとなる。

そんなに刻み込まれた精神的な傷には必ずあらすじになるストーリーが存在しているのは言うまでもないが、それを思い出すのは難しい。
何故なら恐怖体験を回避するために一旦脳の記憶を遮断した事で、生命の危機を乗り越える程の体験だったからだ。

思い出した時、パニックを起こして更に悪化する危険性もあって当然だ。

克服は出来ない

PTSDをほんの少し対処出来るようにする事は出来ても、克服して ”完治” するのは無理だ。
それは、その記憶を完全に消し去ることが不可能だから。

抗不安薬、向精神薬等、様々な薬剤で和らげ、出来る限りの安心感が得られるように薬で脳をぼやけさせること、生活環境に煩わしい雑音や人間関係を無くし、患者本人が『ここは安全地帯なんだ』と感じられる工夫をする。

それでも忘れてはいけないのは、フラッシュバックは突然脳に発火して混乱をさせること。

その時は、その興奮作用や恐怖感が過ぎ去るまで繰り返し『大丈夫』『落ち着こう』『息を吸って』そう声を掛けながら、本人を落ち着ける場所に座らせて立たせない、歩かせないよう腕や背中に手を宛がいつつ、誘導して支えてあげる。

それを毎回繰り返し、何度でも『どうしたの?』と本人の声、訴えに真剣に耳を傾けて、今どうしたいのか、今どうして欲しいのか聞き続けるしかない。

PTSDは何故(内傷)であるのか?

確かに外的要因の結果受けた精神的な傷である理屈なのだが、それが過程であって、真に受けたのは脳内神経という内部障害であるから。

脳機能が侵された外的要因を取り除くことは脳梗塞や脳出血など以外では不可能だ。

視覚・聴覚・嗅覚・触覚は物事と共に深く記憶される。
恐怖体験は特にそれらが影響していて、些細と思われる物音ですら爆音のように蘇る。

良い思い出も、あの時の匂い、あの時の風景、あの時の手触り…
そういった具合に蘇る。

苦痛はもっと強烈な感覚と思考で思い出してしまうから、きっかけが有ろうと無かろうと勝手に頭の中に浮かんでしまう。
内傷とは、そういう状況だ。

鬱状態やうつ病のようになるのは二次的な反応性うつである

PTSDは鬱状態にはなるが、うつ病ではない。
そこを明確に線引きをして捉えるべきだと考える。

また逆に、うつ病からPTSDに移行していくものでもない。

PTSDの人にしてあげられること、すること

それは容易ではなく、また短期間でどうにか出来ることでもない。

自分に(相手に)起きた出来事をひとつ一つ思い出しながら、向き合い、その状況を真正面から見つめ、自分に本当に何があったのか自覚すること。
長い時を経て、受けた脳の傷は決して消去する事は出来ないんだ、と思いながらも整理して、客観的に心で受け止められるように、どれだけでも思い出すこと。

それを自分だけのノートに書いて吐き出す。
そして誰か信頼の置ける人に読んでもらう。(大抵は見るに耐えず読んでは貰えないが)

どんな汚い言葉でも良い。
どんな自分本意な言い分だったとしても良い。
恨み、つらみ、泣き言…
世間に知られたらとんでもないと思われるような事でも良い。
自分の中にある ”真実の自分” それをノートに吐き出して、ふとした時に読み返してみる。
すると、意外な自分を発見したり、何年経っても相変わらず同じことしか書いてなかったり、自分が見えてくる。
同じことしか書いてなければ、それが一番自分にとって『引っ掛かっている問題点』なのが分かる。
それをどうやって解消していけば良いのか考える方に脳神経は意識が向いて行く。

誰にも知られる必要も理解してもらう必要もなく、自分で自分を分かってあげる方法だ。

PTSDは、そうなった自分にしか解らない。
傷を受けた時に誰かが一緒に居たとしても、衝撃は人それぞれ違うからだ。
自分しか居なかった状況であれば尚更、他者は想像することしか出来ない。

例えば骨折をした痛みは、誰にでも経験が多少あっても伝わらないのと同じこと。

想像を絶するような自分だけの苦しみをやわらげられるのは、自分だけ。

そう潔く考えられるようになるまで、きっと堪え難い思いをする。
寿命が来る日まで続くだろう。

でも諦めずに立ち向かおう、立ち上がろうと思うのは、
今日という日だけでも、平和で平凡で、安堵と安眠が得たいから。
たった一日だったとしても、安心感の中で、哀しみから解放されて生きられたら嬉しいから。

私はそう考えた。

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