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女性になんてなりたくない

女性の働き方改革、女性の社会進出、などという言葉が昨今大手を振って歩いているが、そもそも私は「女性」になどなりたくない。
そんなものになるくらいならいっそ死んだほうがマシである。と、本気で考えている。

「女性」になるということは「少女」でなくなる、ということだ。もちろん、客観的に見れば私は間違いなく前者である。しかしこれは身体的な事実には関係がない。重要なのは、その精神なのだから。

初経が来たときの絶望を今でも覚えている。

幼い私にとって、母親の粗暴さは「女性」への嫌悪感を抱かせるには十分すぎた。
下品な笑い方、どこでも構わず大きな声で話し、時にヒステリックに泣き喚き、男性と遊びに行って朝帰りをすることもあった(父とは早々に別れている)。恋人らしき男性に対し、卑猥な画像を送っているのを見てしまったこともある。

私にとって「女性」になるということは、即ち母親のようになってしまう未来を諦め、受容するということなのだ。

「少女」とは「女性」未然であり、性別の境も曖昧で、何にでもなれる自由さと高慢に高潔に自分を生きる強さをもった存在だ。
「女性らしさ」という規範も僅かに及ばない。家父長制における異性愛主義からも、少しばかり離れた存在だと言える。

別に、私だって(残念ながら)そこまで潔癖に生きているわけではない。
性的嫌悪に近しい感覚を抱いてはいるが男性ともお付き合いをしてきたし、今のパートナーもそうだ。
親しい人や、憧れている人から結婚や出産の報告を受ければこちらまで幸福な気分になるし、嬉しそうな表情をもっと見たいと思う。

ただ、いつか自分の身に降りかかると思うと一気にゾッとする。それは強制的に私を「女性」へと変えてしまうものだからだ。いま怒りをもって見ている世界を許し、諦めてしまうことだからだ。

「女性」になんてなりたくない。

「少女」で在りたい。永遠に。


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