いまの感覚が当たり前ではないということ
令和時代1日目。あけましておめでとうと少し似た空気感に不思議と浮足が立っていた。
ひねくれているかもだけど平成最後の〇〇って考え方があまり好きじゃなかった。だって、元号なんて、1歩海の外に出たらどうだっていいことだから。それに最後ってなんだ?別に平成が終わっても、次の日からはまた日常が変わる。
もし今みたいにSNSが発達していなかったら、テレビや新聞が普及していなかったら、時代が変わったことに気づくのがだいぶあと、みたいな人もいるだろうから。
そんな風に思っていたけど、新元号「令和」が発表されてからというものの、ちょっとだけわくわくしていた。
ちゃっかり退位の儀も中継でしっかりと見た。我ながら、明日からの日常も何も変わらないと言っていたわりにミーハーだなって呆れたものだ。
中継を終え、先ほどの天皇陛下の言葉が何度も何度も繰り返し放送される。アナウンサーはそれに対する、SNSの声をいくつか取り上げた。
「このような儀式を、あたりまえのようにリアルタイムで見られる時代で、本当によかった」
その中の1つにこんな意味合いの声があった。
たしかに、私たちは今当たり前のようにいじっているこのiPhoneも当たり前になったのはつい最近。SNSが普及したのも、つい最近。わたしが高校の頃は顔出しするやつ=痛いやつだったし、SNSそのものが「危険なんじゃない?え?mixi?危なくない?」みたいな認識だった気がする。
でも、私に子どもができて、その子が中学生くらいになった時に、「SNS?危険だよそんなの!」だなんてはきっと言わないと思っている。なぜなら、私はSNSが当たり前で、使い方を間違わなければ危険じゃないことを知っているからだ。
今さら何をいうのだろう、そう思うかもしれない。でも、世の中にはきっと、そういうことがありふれている。
当たり前のことは当たり前でない時もある。ほんの数年前のことを思い返しただけでも、今当たり前となっていることは、当時は異端だったということだってある。
この感覚を忘れずに、平和な時代を歩めたらいいな。改元を迎え、そんなことを考えさせられたのであった。
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