「郊外論入門 ~その7つのイメージから~」

◎こちらの文は、8月14日にコミックマーケットで頒布をおこないました、「ポップカルチャーから紐解く2010年代の郊外 SUBURBS」に、スプラウトさんから寄稿していただいたコンテンツを、ご本人からの了承も頂きまして、全文を期間限定で公開いたします。お手に取る際のご参照として頂けたら幸いです。



ポップカルチャーから紐解く2010年代の郊外 SUBURBS

コミックマーケット88
2015年8月14日 金曜日
東地区 "フ" ブロック 55a
会場頒布価格 800円



~その7つのイメージから~

スプラウト


1、郊外を語ることの難しさ


 本誌は郊外というテーマの下、複数のライターの寄稿によって構成されている。集められた各原稿は、それぞれ形式やジャンルによって語り口が違うだろうし、また多様な郊外の見かた、切り口によって書かれていることだろう。2015年の夏において、様々な郊外語り(郊外論)が思い切って試みられているはずだ。

 けれど、それぞれの世界の見つめかたに触れるとともに、私たちは郊外論のこれまでの「文脈」だとか、それを受けての「現状認識」だとかを、ほんの少しばかり知っておいてもよいのではないだろうか。

 郊外論は簡単ではない。いや、郊外論は実はとても難しい。

 その語るべき範疇があまりにも広すぎることに加えて、時代的・地理的な各イメージが複雑に、曖昧に、こんがらがってしまっているせいもある。

 しかも、単純に新しい観察によって上書きされることで、古い観察が無効になるというわけでもない。十年前、数十年前、百年前の「郊外イメージ」が今現在でも通用するケースがあるため、複数の郊外論が並列され、また組み合わされる。このことが郊外を語りはじめる際に一定のコンセンサスを得ることを困難にしているのだ。

 本稿「郊外論入門」は、このような時代状況をふまえて、郊外について語りだすためのささやかな助けを提供するために書かれたものだ。郊外について予備知識がない、あるいは郊外という言葉にリアリティを感じられない、郊外の意味するところが曖昧であることに困惑している、そんな読者にとって役に立つテキストをめざしている。

 とくに、郊外を想い浮かべる際、主だっているであろう「7つのイメージ」を分類・提示することによって、読者ごとに取っ掛かりとなる関心領域を得ていただきたいと願っている。

 どうか本稿を、それぞれの場において活用していただきたい。


2、アメリカの影


 さて、しかしながら、この限られた小論において確固たる「郊外の定義」を宣言することには正直自信がない。それに、おそらくそれは馬鹿馬鹿しいことなのかもしれない。郊外は動的なものである。広がる。変わる。生まれて死ぬ。また、郊外は都市の一形態である。都市の定義もおなじく、シカゴ派の都市社会学いらい様々に考察されてきたけれど、いまだに定まったものはないと思われる。

 郊外にとって相応しいのは、静的な「定義」ではなくて、むしろ動的な「イメージ(学)」の方なのだろうと本稿は考え、その仮説に従いながら進み行くことにしたい。

 いちおう、郊外が郊外としてイメージされ始めるための、最低限の条件というものは幾つかあるはずだろう。それは例えば、「郊外とは都市周辺エリアのことであり、農村共同体とは区別される」などが挙げられるだろう。こういった(おそらく誰でも考えられる)ような知識とイメージを通して、いわば消去法的に郊外イメージを整理していくことは大切な過程だと思う。

 けれど、さし当たってここで十分に念頭に置いてほしい前提条件として「郊外は既に/常に対世界的な視線の中に取りこまれていること」を本稿では強調しておきたい。

 本誌の目次を見るかぎり、そこで参照されている場所の多くは、日本における郊外都市であるかもしれない。またライター陣の現住所に条件づけられるようにして、東京近郊の風景語りが目立つかもしれない。

 けれど、世界的に見れば、郊外論の主戦場は極東の島国ではなく、近代アメリカをはじめとする欧米のsuburb, suburbiaであることは踏まえておいてよい。海外文学が翻訳輸入された戦前から、アメリカのホームドラマやハリウッド映画が文化的ヘゲモニーを発揮した戦後、つづいてインディーズ制作による音楽や映画が静かに浸透していった今世紀に至るまで、海外発のsuburbia文化が日本の郊外に与えた影響は、直接的・間接的に多岐にわたるものである。

 殊に、「アメリカン・ウェイ・オブ・ライフ」と呼ばれた消費生活のスタイルは、いくら反省と更新とが重ねられてきたといっても、その本質は今に至るまで私たちの中に浸透している。私たちはこの生活様式を、いわば世界を体験するために欠かせない「基本フレーム」として身体化せずにはいられない。

 私たちはモノやサービス、イメージや情報を買うことを頼りにして、自らの世界を認識し、成立させ、表現をする。それも、家族会議でもして一家で一台の車を共有すればいいのに、個人が個人のために個人用の車を買おうとする。自分の財、自分の部屋、自分の家族をもつなど、けっして安上がりとは言えない不合理な選択をする。

 これは後期資本主義がマーケットの頭打ちを回避するために用意したシナリオでもあり、私たちはそれにまんまと操られたという側面がある。でも一方でこの消費生活は、私たちが快感原則にのっとって、自然と、共犯的に、体得していったものでもあっただろう。これは文化ではなく、もはや「文明」の抗うことのできない流れだとも言える。

 私たちはことさら、「日本人としての個性」「日本ならではのライフスタイル」を再発見しようとするが、それすらも相対的なものだろうし、方法論のひとつでしかない。それが偏狭なナショナリズム≒ナルシシズムと結びついてしまえば、私たちは間違った地点から自己イメージを語り始めてしまうことにもなりかねない。

 私たちは、私たちが思っている以上に、まずは〈アメリカ人〉なのだから。

 サブカルもオタクもハッカーもナチュラリストも、海の向こう側からの洗礼を受け、その関係の網の目で生かされている文化的一形態にすぎない。

 そう考えると、たとえば福生や立川といった米軍基地由来の町には、現代日本人の行動原理に直結するヒントが生きているかもしれないし、アメリカ発の都市論を参考にした日本の郊外のアーキテクチャには、なにか「普遍的と思えるもの」を錯覚させるだけのファクターが潜んでいるかもしれない。「アメリカの影」を意識の上にのぼらせること。それだけでも立派な「郊外のイメージ」のひとつであるだろうし、むしろ土台となる前提条件として添えておくことができるだろう。

 海の向こう側からの視線に私たちの身体をさらしながら、さらに、日本における郊外イメージの多層性をざっくりと見ておこう。

 以下に紹介するのは、現在進行形の郊外論における主だった「7つのイメージ」である。おそらく私たちは、この中のいずれか、あるいはいくつかを既に見知っていることだろう。


3、郊外の7つのイメージ学 ~田園の発見から、崩壊の予兆まで~


 以下の①~⑦は、筆者が便宜的に分類・整理した郊外イメージであり、郊外論の系譜である。まったくの順不同ではなく、いちおう登場した年代順に編集してはいる。ただし、各々は現在進行形のものとして交じり合いながら、現代の郊外イメージを形成するために機能しつづけている。①や②が古くなって棄却されたという事実はない。その点に留意されながら、読者それぞれの頭の中で、複合的にイメージの再編集をしていただければ幸いである。

①〈田園〉イメージ

 明治以降ということであれば、日本における郊外は「田園の発見」をその発祥とするだろう。今日の東京であれば、具体的には田園調布だとか田園都市線などにその言葉は息づいている。

 川本三郎『郊外の文学誌』は、近代日本文学の作家たちが「田園」に新しい価値を見出していくことに目をとめている本だ。国木田独歩が『武蔵野』で描いたかつての渋谷の風景。徳富蘆花の世田谷。関東大震災後の人口移動によって、中央線沿線に都市的ライフスタイルを知る人間が流入したこと。

「田園」は、旧来の農村共同体ではない。日本的ムラ社会からの一新をめざしながら、都会の喧騒とも一線を画そうとする。その土地を見るためにあったはずの既存のフレームは一度とり外されて、あるいはその土地の記憶を忘却することによって、「田園」ならではの生活と物語が語られていく。その語り手は現地民ではなく移住者であり、彼らの視野は西洋近代の都市文化を見聞きして、知っていたのだった。

 たとえばロシア文学や英国の田園都市運動などから輸入された「風景」と「理念」が、東京西部でトレースされる。「田園」は自然そのものではなく、人工的な舶来物だった。忘却によって捏造された「歴史の浅さ」の上に、郊外生活の理想と憂鬱とがつぶやかれていったのだ。

 やがて「田園」は企業のマーケティング用語になっていく。その開発によって、風景は急速に変えられていく。雑木林と雑草地帯は整地されて、広大な原っぱとして太陽を浴びる。ただし緑輝く原っぱとは、やがて建設が始まるまでの中吊り状態のことだ。おそらく今も、日本のそこかしこに広大な隙間が待機している風景を、私たちは目にしているはずだ。

②〈集合住宅〉イメージ

 原っぱには徐々に居住空間が建設され、そのエリアごと商品化されていく。大規模に、効率的に売り出すための急先鋒となったのは、いわずもがな団地だった。

 1950年代半ば~70年代前半を、社会学者の宮台真司は「団地化」の時代とする。自立して流入してきた核家族がそのメインの住人となると、既存の地域コミュニティは空洞化のベクトルへと滑り落ちていくことになった。互いに「異質」であり「匿名的」であるという、郊外生活の特徴をリードしてみせたのが「団地化」の時代だった。新しい郊外住人は無意識的にこのような傾向を好む。ここにムラ社会とは別様のライフスタイルが成立する契機があるからだ。団地はそのための実験場ともなった。

 大友克洋のマンガ『童夢』は、東京都板橋区の高島平団地をモデルにして描かれたと言われるが、不透明な巨大居住空間での、異様な人物たちの邂逅が感覚的に伝わってくる作品である。

 団地は「集合住宅」の典型だった。そのアップデートされた形式として、今日でも、巨大マンション群が増殖しつづけている。また「集合住宅」の応用として、ショートケーキハウスとも揶揄される建売住宅エリアが、日本全国の町内においてシェア面積を広げつづけている。これらの動きの集中的なものとして、次の③の段階が表れてくるだろう。

 筆者としては、中島哲也監督の『BEAUTIFUL SUNDAY』、豊田利晃監督の『空中庭園』といった日本映画も参考映像としてお薦めしておこう。

③〈ニュータウン〉イメージ

 宮台真司は1970年代後半以降を「ニュータウン化」の時代とする。すなわち、日本における郊外化の次の段階だとする整理である。

「団地化」の時代に見た核家族の台頭は、家族への内閉化という動きでもあった。けれど、「ニュータウン化」の時代には、地域コミュニティの空洞化のみならず、核家族の内でも空洞化が進行していく。

 個室化(プライベートな世界の確保)こそが、郊外生活に必要な最低限の条件として求められ、個人単位での消費生活が基本的な権利とされていく。

 ただし、その権利要求にまかせるままでは、供給する側の生活世界そのものが破綻してしまう。そこで、コンビニ・ファミレスに代表される新しい市場が、代替機能としてあてがわれていくことになる。

 また、福祉をはじめとして行政の役割が多く求められるようになり、直接的な監視とケアのもとに郊外空間はさらされる。プライベートの保身と監視サービスの共存という、矛盾した都市生活がスタンダードになっていく過程だ。伝統が忘却された地だからこそ、このような新しい歴史が物語られていくのかもしれない。

 戦後日本におけるニュータウン計画は多摩地区から始まるけれど、多摩ニュータウン黎明期を幻想的に描いた島田雅彦の小説が『忘れられた帝国』と題されたのは、そのような忘却に由来するのだろうか。

 または、同ニュータウンの成熟期を舞台にした安野モヨコのマンガ『ラブマスターX』は真剣な恋物語ではあるのだけど、それはどこか「解離的」な心理構造によって裏打ちされているようにも見える。これもまた忘却の一形態ではなかっただろうか。

大きい道路 新しいマンション
ガソリンスタンドにコンビニ
そっくりだろう 僕らのいる街と
あの造られた あのファミレス
いくつも並んでるあのファミレスに
一体いくつの似たような恋があることか
―ラブ・マスターX―

④〈ロードサイド〉イメージ

 都市が農村共同体と違う点として、自給自足ができないということがある。生存に不可欠な物資は、ほぼ外部環境に依存しなければならない。郊外都市が自らの「暮らしやすさ」や「高い自立性」を市外にアピールするためには、市外との連絡が必須なのだ。アウトプットとインプット。完成度の高い自閉システムを謳いながら、一方で開放されていなければならない。(このあたりの両義性については、本書に収録された筆者のもう一つの郊外論にその消息をゆずりたい。)

 少なくとも、幹線道路が必要だ。

 これに沿うかたちで需要と供給が生れる。いわゆるロードサイド店舗が景観を彩り、国道沿いをはじめとしてその風土を郊外化させていった。このような動きは東京近郊に留まらず、首都圏一帯、または地方中心都市の周辺にまで伝播した。地方都市の郊外化、ニュータウン化は、世紀をまたぐ頃には既成事実として私たちの目に映っていた。日本中に、似通った風景が立ちあらわれていった。

 2004年に出版された三浦展『ファスト風土化する日本』は、その副題が「郊外化とその病理」とされる通り、均質的なフランチャイズチェーン店の乱立する風景を批判的にレポートした本である。現在進行形の郊外論を語るための問題提起として、良くも悪くも参照されるセントラルドグマ的な郊外イメージとして読み継がれている。

 三浦の主張は多岐にわたるものの、風景の均質化は人間をも均質化させ、「外部」への想像力を奪うという警笛に収斂している。激しく流動するロードサイドを採りあげながら、むしろ「閉鎖的」な文化を生みだしてしまう郊外像を指し示そうとしている。

 二十一世紀に入ってからの物語の舞台は、都会の中心部ではなく、郊外や地方こそが圧倒的優勢である。物語コンテンツを貪欲に欲する層ほど、ライトノベル、ケータイ小説、ノベルゲーム、あるいは無料で手ぶらで消費できるアニメといったメディアに食指が伸びるようになったのがこの頃だ。これらの舞台設定として郊外空間を導入する事例は枚挙に暇がないだろう。

 今世紀の突端である2001年発表のノベルゲーム作品『未来にキスを』(otherwise)は、地方都市を舞台にした物語コンテンツとして極端なメッセージ性をもつものである。よりによって東西冷戦の崩壊が始まった「1989年」という時代設定らしいが、そこでは、もう「人間」が滅びかけているのだと語られる。ここで言う「人間」とは近代的人間観のことだろうが、それはある種の「キャラ」のような関係性へと置き換わっていくことが宣言され、「圧倒的な楽園」として肯定されてしまう。きわめて挑発的な郊外の寓話として、この作品を読みなおすことも可能かもしれない。

⑤〈ショッピングモール〉イメージ

 前述の④と時を同じくして、ショッピングモールが郊外論の俎上に乗ることは、しごく当然のことである。ロードサイドの均質化と巨大モールの増殖とは、市場経済の「グローバル化」を背景にした規制緩和の帰結でもあり、したがって「世界共通の話題」としてコンセンサスを得ることが可能になったからである。

 たとえば批評家・東浩紀などは海外における郊外、観光地、リゾート地などのモール建築に着目し、そのショッピングパターンやアーキテクチャに世界共通言語のようなものを読み込もうとしている。

 ショッピングモールは、ほんらいの街の中心部から離れて立地していようが、もはやその存在感によって心理的には「街の中心」になりうる。文化とコミュニケーションの結節機関として、ある種の「公共性」さえ獲得していく未来もあるかもしれない。

 ショッピングモールを舞台としたノベルゲーム『パルフェ』(戯画)が、活き活きとしたメロドラマとして成立し、また商業的にもある程度の成功をもって受け入れられたことは、物語のファンクションとしてモールが機能することに説得力を与えるものだった。

 現実の都市設計に目を戻せば、モールを中心としたマンション群と公園との複合体が、都会のただ中に突入して来る動向がある。「都会内郊外化」とでも呼べる再開発現象である。きょう現在の都心部にあって、高級住宅街の代表といった感のある豊洲エリアは、その顕著な事例だ。埋立地の原っぱを尚も残すこのエリアは、銀座郊外の臨海ニュータウンとして羨望のまなざしで見つめられている。本来、郊外とは別のイメージでよく知られていたはずの地域に、じわじわと郊外空間が侵入してきている。モール系の建築はその際の目玉として、人々の目をひきつける。

⑥〈ベッドタウン〉イメージ

 ここまでの①~⑤までの郊外イメージが世界規模で共有され、もはやマジョリティの日常風景にまで還ると、郊外イメージ自体が爛熟し、飽和してくる。

 ①~⑤までが複合的に、複雑に、混合物として与えられていくと、住民にとっても自らの街の自画像が描けなくなってくる。イメージ間の境界が溶解し、一度は分類整理したものが曖昧化されて、ただただ「茫漠とした風景」として再帰してくるだろう。

 東京近郊に位置する無数のベッドタウンは、そのような段階の主戦場として、再定義されつつあるだろう。そこでは、かつてニュータウンに向けられた新奇なものを見るような視線はもう無い。クールダウンされた「生活」が淡々とこなされていく。

 均質的な出店を「所与のツール」として利用しつつ、しかし他の郊外エリアや地方都市とのわずかな差異をネットによって確認する。就職や資産などの経済的制約があからさまに影響し、なかば自動的に居住エリアが振り分けられていくが、どちらがより都心に近いかを言及しあうような文化ばかりが自生してくる。

 この文化に嫌気がさせば、鉄道に乗っていっきに都会に日帰りエスケープをすればよい。これは立地のメリットでもあるが、地元に責任をもってコミットする契機も失わせ、郊外カルチャーは徐々に液状化していくだろう。

 空き地の雑草。活気のない田畑。民家は、星の数ほどある。だが、その何割かは高齢化の末路としての空き家かもしれない。ある程度の美観におおわれた、けれど買い手のいない、潜在的な廃墟たち。

 その土地の伝統・歴史がゆるやかに希釈されていき、ゆっくりとゆっくりと郊外としての性格の方が支配的になってくる。茫洋とした風景の広がりにあって、郊外が郊外を語る気力さえも無くさせる段階。それを、あえて個性を廃した名称として〈ベッドタウン〉イメージと呼んでみたい。

⑦〈崩壊〉イメージ

 前項の⑥は停滞および安定のイメージをもつが、もしかしたらこれは平和な時代のピークであって、近い将来的にはカタストロフの時代が待っているのかもしれない。

 近年、増田寛也による『地方消滅』という本がベストセラーになった。

 もちろん「消滅」とは行政・経済単位としての自治体の破綻のことであって、その土地の風土や生活世界がただちに消滅するわけではない。とはいえ、郊外もまた他人事ではなく、システム崩壊の可能性を免れえないのは、格差社会アメリカでの先例を見るまでもないのかもしれない。それはまず、「文化的液状化」という面から始まるシナリオだってありうる。経済においても、文化全般においても、私たちは富の分配ではなく、むしろリスクを分配する時代に直面しようとしている。

 筆者の住む街は東京23区内にありながら、「都会内郊外化」の様相を見せている。駅前の古い工場地帯跡が整地され、比較的大型なシネコン付きモールが出店し、次いで小型のコンセプト型モールも参入した。前者は新たな街の中心地として、今のところ定着しつつあるように見える。けれど後者はシャッター街化が年々進み、より陳腐化された出店ラインナップへと塗り替えられている。駅前に真新しい廃墟建築が残されるのも、時間の問題かもしれない。

 TVアニメ作品『東のエデン』では、あの豊洲エリアがテロ行為によって半スラム化し、巨大ショッピングモールが廃墟化した風景が描かれた。米国ショッピングモールの消費空間を風刺した名作『ゾンビ(Dawn of the Dead)』が、深夜のモール内をさまよいながら言及される。過去の映画のデータベース(記憶)だけが、残骸の中で回顧される。郊外空間の崩壊感が美しい、予知夢にして悪夢である。

4、おわりに

 ここまで、主に「イメージ」という観点から郊外論のヒントを提示してきた。

 おそらく、この拙論から導かれる限りにおいても、複数の郊外論を語り出していくことが可能だろう。あるイメージについて展開したり、補足したり、あるいは批判することを通して、2010年代にあってリアリティのある各々の郊外を体験していってほしい。

 現在進行形の郊外論に進むための突破口を、どうか探っていただきたい。あるいは、郊外を舞台とした物語(フィクション、コンテンツ)を創作する際のアイデア集として、本稿を活用していただきたいと願っている。

 郊外は、想像している以上に私たちの身近に存在している。内にも、外にも。

(著:スプラウト)


ポップカルチャーから紐解く2010年代の郊外 SUBURBS


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