「東浩紀『動物化するポストモダン』はどこがまちがっているか――データベース消費編」を読んで

「東浩紀『動物化するポストモダン』はどこがまちがっているか――データベース消費編」

しんかい36 (@shinkai35)こと山川賢一は、いくつかの場所で東浩紀『動物化するポストモダン』(以下『動ポモ』)を批判している。筆者はそのいくつかに、さらに反論を加えた。内容は以下にまとめられている。

山川賢一の『動ポモのどこがクソなのか大会』

東浩紀『動物化するポストモダン』-「近代的消費」をめぐる議論

筆者の考えでは、以上の山川の批判は失当である。その理由についても以上のまとめのなかで言及している。関心のあるかたは『動ポモ』を片手に議論を追い、ぜひ自身で判断してほしい。

また、筆者も参加している消費社会論勉強会@GACCOHでは、10月に予定されている第二回勉強会で「データベース消費」について扱う予定である。もし以上の議論に関心のあるかたはぜひ参加いただければと思う。


さて、山川の論考である。今回も私は、山川の批判は失当であると考えている。

山川は論考で以下のように述べる。

このような、用語の意味を少しずつ変えていき、最終的にはまったくちがう主張を同じものにみせるトリックを、グラデーション論法と呼ぶことにしましょう。『動ポモ』の場合、まず「データベース消費」という用語の意味が一貫しておらず、それをごまかすために、「萌え要素」の意味も箇所によって変わるという、二重のグラデーション論法が行われているわけです。

今回の論考が、まさに山川自身による「グラデーション論法」によって形成されていることを以下で見ていきたい。

まずは『動ポモ』の記述から始めよう。『動ポモ』にはエヴァがいかに消費されたか、ということへの説明として、以下のような記述がある。

『エヴァンゲリオン』の消費者の多くは、完成したアニメを作品として鑑賞する(従来型の消費)のでも、『ガンダム』のようにその背後に隠された世界観を消費する(物語消費)でもなく、最初から情報=非物語だけを必要としていたのだ。(62p.)

この箇所は山川にも引用されており、論考では以下のように使用されている。

彼は「データベース消費」されている作品として、『エヴァ』、『デ・ジ・キャラット』、そして美少女ノベルゲームなどを挙げていました。彼によれば『エヴァ』の消費者の多くは「最初から情報=非物語だけを必要(p62)」としていたのです。

ここで重要なのは、エヴァの消費者の「全て」ではなく、「多く」が「最初から情報=非物語だけを必要」としていた、という記述だ。引用に見られるとおり、山川はこの違いについては意図的であったと推測される。

しかし、論考では以下のようにエヴァの消費者の記述が変遷する。

当然ながら、オタクもそのようなストーリー性の高い作品を求めていた、ということになります。この事実は、現在のオタクが「情報=非物語」だけを必要としているという、東が『エヴァ』について述べていた説ではまったく説明できません。

エヴァの消費者の多くが情報=非物語だけを必要とする、という記述と、現在のオタクが情報=非物語だけを必要とする、という記述は同じではない。前者がエヴァの消費者のある部分についてのみの記述なのに対して、後者は現在のオタク全てについての記述だからだ。ここで山川は、「まったくちがう主張を同じものにみせるトリック」を使っている。
上記で引用されている通り、本書ではアニメの消費の形態として、従来型の消費、物語消費、データベース消費の三種類が区別されている。『動ポモ』の主張は、全てのオタクがデータベース消費のみをするようになった、ということではない。

一番目立つこじつけは、『エヴァ』の消費者は原作のストーリーを無視していたという、例の主張でしょう…こうしたことすべては、ファンが『エヴァ』の物語内容に深く魅せられていたことを示しています。

よって、上記の記述は、東の主張の妥当性に何ら影響を与えない。エヴァの消費のされ方はデータベース消費だけではない、ということだ。

この地点から改めて山川の論考を見ていこう。

つまり東の主張どおりなら、オタクたちは『エヴァ』を鑑賞するときは原作のストーリーを無視し、ノベルゲームをプレイするときは、原作のストーリーに没入するわけです。どちらも「データベース消費」されているはずなのに、ストーリーに接する態度はまるで逆になってしまっています。これは矛盾以外のなにものでもありません。 

この「矛盾」が生じた理由として山川は以下のように述べる。

『エヴァ』はシリアスで複雑なストーリーをもつアニメであり、そのことはよく知られています。オタクがそうした作品を好んでいるという事実が、東の「動物化」論にとって都合が悪いことは、容易に見当がつくでしょう。だから東は、オタクが求めていたのはあくまで「情報=非物語」であって、ストーリーを好んでいたわけではない、と論じなければならなかったわけです。

既に述べた通り、この記述は「東の「動物化」論にとって都合が悪い」ものではない。よってこの推測は妥当ではない。

そして、ここで推測されるような東の「真意」を考えることなく、たんに文章を普通に読めば、東の記述には特に矛盾はなく、筋の通った記述として読むことができる。山川は東の「真意」を推測するあまり、いささか過剰に背後の意味を読み込もうとしているように思われる。『動ポモ』は東の著作のなかで最も読まれたもののひとつであり、内容も平易である。まずは普通に字面を追うところから始めるべきではないか。

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