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精神障害者とどう向き合うべきか

(この文章は「性の悦びおじさん死亡説」が流れたときに勢いで書いたのですが、書いた後で「死者をネタにするなんて…」と非公開にしていたものを、「おじさんやっぱり生きてた」というニュースを見て公開に踏み切ったものです)

先日、僕のTwitterタイムラインにこんな記事へのリンクが流れてきました。

『性の悦びおじさんを笑った人へ』https://note.mu/yuzuka_tecpizza/n/nac258cb13d0d

街中でおかしなふるまいをする精神病患者・発達障害者(以下、語弊もあるかと思いますが便宜上「精神障害者」で統一します)をSNSで晒し、笑いものにする風潮に対して、精神科での勤務経験もある筆者が警鐘を鳴らす、といった趣旨で、「そういう人々は病気だから笑いの種にするのではなく、公的機関に通報でもしてあげてほしい」というような提言で結ばれていました。主張自体は思いやりにあふれており、またそこには切実さもひしひしと感じました。「通報て…ハードル高ない?」という何ともいえないモヤモヤこそ残りましたが、おおむね同意できる内容でした。

精神障害者の動画や写真を撮ってネットに晒す、という行為は断じて許されるべきではないと思います。ただ、これを言いたいがために「性の悦びおじさん」を引き合いに出したのはあまり良くなかったとも思います。理由は2つあります。

理由1:性の悦びおじさんは迷惑な人だった
ネットを炎上させる人の多くは、義憤に駆られています。僕が初めて見た性の悦びおじさん動画は、電車内で喚く姿を隠し撮りしたものでした。電車という閉じた空間で大声で喚き散らす行為。しかもテーマが「性」です。子供連れでなくとも気分を害します。その他、繁華街の路上でも大声で喚いたりしているようですが、同様に迷惑であり、不愉快に感じる人がいたとしても仕方ありません。晒すことによってフォロワー達の威を借って攻撃し、これを罰したいという人がいても不思議ではないでしょう。この行為自体は決して褒められたものではありませんが、「迷惑行為から身を守る防衛手段として、もしくは周囲へのアラートとしての拡散行為」という性格が含まれている以上、「ただ単に精神障害者を面白がって晒し者にしている」事象と十把一絡げにしてしまうのは無理があるかなと感じています。

理由2:一方で性の悦びおじさんは実際面白く、かつ面白がられている自覚が本人にもあった
理由1と矛盾するようですが、実際このおじさんの動画は見れば見るほど味わい深い。西郷隆盛のような風貌とも相まって、なかなかにシュールで面白いと思います。冒頭に紹介した『性の悦びおじさんを笑った人へ』の筆者は、性の悦びおじさんがテレビ出演も果たしていることや、一般人の問いかけに対し気さくに応え、写真撮影などにも応じていることをご存じないのかもしれません。これは、「精神障害者を面白がって晒している」とは意味合いが異なります。また、自分から「笑わせたい・笑われたい」と思っている障害者を止める権利は我々にはありません。NHKの『バリバラ』が好例です。

後はまあ、「そもそもこの人て障害者?」という疑問もありますが、上記2つの理由によって、「精神障害者の動画や写真を撮ってネットに晒すのは卑劣な行為である」という主張を裏付ける事例として「性の悦びおじさん」は不適当だと感じました。

ところで、「精神障害者」と「健常者」の違いって何でしょうか。僕は全くの門外漢なので迂闊なことは言いたくないのですが、両者には分かりやすい境界線は無く、「むちゃくちゃ精神障害者」から「むちゃくちゃ健常者」までがグラデーションのように存在しているのではないか、と思っています。また、同じ人でも体調や服薬状況などによって「ほんのり精神障害者」な日もあれば「ほんのり健常者」な日もあったりするのではないでしょうか。なぜこんなことを前置きしているかというと、「精神障害者を晒して笑いものにすべきではない」という議論をするときモロに悪影響を被るのが、僕の大好きな「お笑い」だからです。精神障害者と健常者の線引きがあやふやな以上、世論が「精神障害者を笑いものにしてはいけない」一辺倒になると、お笑いの構造が萎縮してしまいそうで、いちファンとしてそれは避けてほしい。

2016年末、海原やすよが脳動脈瘤という病気で入院しました。幸い症状は軽かったようで、1ヶ月ほどの入院生活ののちに復帰を果たしています。ただ、普段から天然発言が多い海原やすよは、復帰直後のバラエティーでもとぼけた発言を連発し、そのたびに「それは突っ込んでええんか?ちゃんと完治したんか?」と気遣われることに。もちろん突っ込む方も「そこをイジるというお笑い」という意図だとは思いますが、ここに「笑っていいボケとそうでないボケがあって、病気に由来するものは後者」という暗黙の了解を改めて確認する結果となりました(海原やすよの例は精神病とは違いますが、病名が付いたが最後、同じボケでも笑えなくなるという点では同じだと思います)。他にも素人参加型番組の場合、「これテレビに出していい人〜?」みたいにツッコまれることがありますが、同じような暗黙の了解があるのでしょう。

さて、ものすごくものすごく前置きが長くなりましたが(恐るべきことにここまでが全て前置きです)、僕が一番声高に言いたいのはここです。この暗黙の了解、無くしません?

僕が好きな芸人のひとり、コロコロチキチキペッパーズのナダルは、正直言ってなにがしかの障害を持っていると思います。でもそのおかげで、常人には出せない笑いを生み出すことができています。もっと言えば、お笑い芸人はどこか「キチガイ」な面が無いと面白くないとすら思います。

2016年にレイプ事件を起こした高畑裕太は、普段からその性豪っぷりがバラエティーなどで取り上げられ、笑いの種としてイジられていたそうです。これも「常人ならざるものが生み出す笑い」です。ナダルとの違いは、それが犯罪に結びついたかどうか、です(あと単純に面白いか面白くないか、というのも)。

冒頭の記事のコメント欄では、「発達障害者が健常者に比べて暴力事件等を起こす割合が優位に高いというデータは見たことがありません」という意見もありました。僕なんかより精神疾患に詳しそうな方の書き込みでしたので信憑性は高いのだろうとは思います。そしてそれを信じるのであれば、つまり「障害者だろうと健常者だろうと犯罪を起こすときは起こすし、起こさないときは起こさない」というのが真実なのであれば、「障害者もいじりまくってどんどん笑いの種にしていこうぜ!」と僕は思うのです。もちろん「本人が望む場合に限る」という条件付きですが、その姿勢こそが、冒頭の記事を書かれた方が恐れている「患者への見て見ぬふり」を防ぐことにもなるんだろうとも思います。「晒す」と「イジる」は違います。「晒す」は敵視した結果ですが、「イジる」は仲間意識です。仲間意識が無いとイジれません。一番怖いのは、お母さんが子どもによく言う「見ちゃいけません」です。どんどん見ていこうぜ。そしてどんどんいじっていこうぜ。本人が嫌がったらゴメンナサイしようぜ。そんな感じで。一歩間違えるとイジメにも繋がりかねないので注意が必要ですが、怖がりすぎて見て見ぬふりをするよりいくらかマシだと思います。

ちなみにこんなことを提案しておいてなんですが、僕はできるだけ面倒臭いのには関わりたくないので、非難もしない代わりに距離をものすごくとります。ただでさえ僕自身が面倒臭い奴だと自覚しているので、面倒臭い同士、相性はさぞ悪かろうという判断でもあります。それも個々の自由だと思います。

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