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夏の夜世界中が海

 夜の海はどこまでも広がる虚無をたたえた膜のようだった。それは自分が知っている海とはぜんぜん違う姿で、もはや"姿"と呼ぶべきものがそこにあるのかも分からないほど茫漠とした、不安や恐怖さえも飲み込んでしまうような途方のなさがあった。
 温泉旅館の客室の窓から見た夜の海も、国道を歩きながら横目に見た夜の海も、海水浴場で花火をしたときの夜の海も、タヒチのビーチで見た夜の海も、夜の海は夜の海としていつも圧倒的に横たわっていた。波の音は海が何かを騙そうとして囁く音なのだと思った。夜の海は塩水の溜まったものなんかでは決してなくて、それはたとえば、私がとっくの昔に忘れてしまった一番悲しくて辛い過去につながっている穴のようなものなのだ。

 テレビを消してベッドに体を投げ出したら天井のシーリングライトの光が眩しくて、手だけで枕元のリモコンを探って消した。六畳一間の部屋は一瞬で外の暗さに同化して、私は肺に残った空気を吐き出した。
 目を閉じてしばらくすると、昼間はあれだけ文句を垂れていた蒸し暑さが少しだけ恋しくなって、ベッドのそばの窓を開けた。開けた途端に、湿った暖気が網戸を越して冷房で冷えた部屋に流れ込んできて、顔にまとわりついてくる。その空気は夜風の匂いをはらんでいた。私は心地よくその匂いを嗅いだ。
 ブブ、とスマホが震える。手に取り、仰向けになって掲げて画面を見ると、恋人から他愛のない、甘ったるいメッセージが届いている。私はゆっくり目を閉じ、そのまま手を離した。スマホが落下して鼻に当たる。手が放った重力と、液晶の冷たい感触と、鼻の頭の痛みが不思議と心地よくて笑えた。スマホはそのまま頬を滑り落ちて枕に着地し、私のうなじによりかかってもう一度「ブブ」と震えた。
 このまま眠って、もう目が覚めなかったらどんなにいいだろう。
 生活や仕事や人間関係に大きな不満はなくて、強いて言えばそれらが存在することだけが不満だった。目を閉じて開ければまた生きなければならない明日がきてしまうことが、時折ひどく慌ただしいものに感じられた。
 まぶたの裏には夜の海が広がっている。
 星のない一面の闇夜に、実体のない虚無としての海がどこまでも広がって波の音を嘯いている。脈打つような波紋が、見えない海の表面を伝っていく。
 私はいつかここに帰るのだな、と思った。どこまでも続く夜の世界の、目に見えない海の、はかりしれない底を思いながら飛び続けて、その先にあるはずの朝を探し続けるのだろう。
 ——その先にあるはずの朝。
 なんだ、私は朝を見てみたいのか。目を閉じたまま、不機嫌な猫のように低く唸ってみた。喉の震えを感じながら、私はまた窓から漂流してくる夜風の匂いを嗅いだ。

 狭いベランダにかろうじて置いた一脚の椅子に腰掛けて、恋人と話している。
 彼の甘えた低い声がイヤホンから囁きかけてくる。
 私は見上げて月を探した。立ち並ぶマンションに切り取られた空には、暮れ切ってもなお青い、ぼんやりと明るい夜の色が見えるだけだった。
「月は見える?」
 私が訊くと、恋人は「あー」と言ってしばらく黙った。イヤホンの向こうでガラガラと音がして、幾分かはっきりとした声色で「見えないな」と彼は言った。
「今日満月なの?」
「ううん、別に」
 私はただ、ここから見えない月が彼には見えているのか確かめたかっただけなのだ。私の思い描く夜の海には、いつも月も星もない。すべてが溶けそうな暗闇なのに、真っ黒な海も空もほの明るい。
 甘ったるい夏の夜の空気に排気ガスを吐き出しながらトラックが走る。街灯がだまって自販機を照らす。私は3階のベランダで恋人と話している。
 この夜が終わらなくても別にいいと思った。
「なんか今日は海の匂いがするなぁ」
 彼は月を確かめてから窓を開け放しているらしい。
「海みたいな匂い、するね」
 私は彼の呑気な横顔を思った。日に焼けた彼の腕を引いて、今すぐ海に駆けていきたいなと思った。それは夜の海じゃなくて、たとえばパタヤビーチみたいな暑くて青い本当の海だ。

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