見出し画像

入試改革のHowを考える前に考えること

 大学入試の話をFacebookに書いたら思いのほか盛り上がり、特に「入試なんていらない」というコメントがいくつかあっておもしろかった。教育学を勉強していたときと大学職員になったときとでは眺める入試の風景も少し違ってくるものだが、ここ最近の自分の考えをまとめておきたい。それなりに大きな話である。

世の中の3つの重要な変化

 企業の新卒採用活動において学歴がモノをいう状況はまだまだ普通に生き残っていると思うが、そうした学歴主義においては、大学でどんな学びをしてきたかでは当然なく、その大学の厳しい入試に耐えたというパーソナリティを評価しているのである。そのことが選抜文化を厳しいものとし、トリクルダウンのように高校教育をも中学教育をも縛ってきたのだ。だから教育学を熱心に勉強してきた若い理想主義の自分などは、選抜こそが諸悪の根源であって、それをなくさなきゃ意味がないと思っていた。この理想は、非現実的として捨て去るにはあまりに勿体なく、日本の教育の本質を見つめるためには重要な光源のひとつとなる。

 一方でここ数年で明らかに重要な変化が起きていることも確かだ。

 ひとつが企業の採用活動の自由化、通年採用の解禁である。これは理屈としては、新卒と中途が市場において等価として扱われることを示す。そうなったとき、卒業を控えた大学がどこかという学歴情報の価値は相対的に下がり、ポータブルスキルのレベルがより評価されるようになるかも知れない。

 ふたつめが、グローバル規模での学習歴の平準化の傾向である。ユネスコもOECDも現在、人の生涯にわたる学習の要素を平準化し、可視化して比較可能なものとすることを目指している。これは人の能力を行政が客観的に把握・管理することによる、社会トータルにおける知識基盤の向上を目的としている。ここに近年のAI・データサイエンスの進化が重なって、実際に可視化の試みは精緻化してきている。こうしたデータは、学校における主観的な教育評価よりもよほど信頼できるものとして社会に受け止められやすい。

 三つめが、高等教育の無償化だ。国立大と私立大の学費があまりに違うから限られた数の国立大の志願者が当然増えるわけで、従って厳しい選抜をせざるを得なくなるのだ。完全無償化になれば、国立大のアドバンテージはほとんどなくなる可能性があり、大学選択は一気に受験生側の市場となる。

大学教育が進む岐路

 今起こっているこれらの変化の中で、大学教育の行く末を探っていく必要があるのだが、その行き先の選択肢は大きく二つに分かれる。ひとつは、知の平準化に追従する方向。つまり、グローバル規模の学習歴の管理に、そのまま大学教育も乗っかるということだ。恐らく短期的にはそのほうが学生の就職に有利となるだろう。

 もうひとつの道は、知の平準化において絡め取られない知にこそ、大学が追究すべきアイデンティティを求める方向だ。

 はっきり言って、今日本の大学が進んでいるのは、このうちの前者の方向である。今の中央政府自体がそういう志向性を強くもつなか、一方で大学の予算が減っていく状況を考えれば当然の末路かも知れない。しかし、安易に想像がつくように、平準化されたレベルの知を効率的に習得できるサービスを民間企業がつくったら、恐らく大学は独自の存在意義を失うことになる。

 よって、現実的にとりうる戦略は、平準化する知についてはそれはそれで括弧でくくり、大学の教育目標の必要な部分として効率よく温存しつつ、一方でそれに絡め取られない知を追究して、さらに社会のアップデートのために積極的にブラッシュアップとコミュニケーションを進め、なおかつそちらのほうを大学のブランドアイデンティティとして認識することだ。これが今の時点での僕の大学広報におけるベースの考え方である。

さて入試は…

 さて、ここからようやく入試改革の話。
 この戦略を前提とした場合、大学入学者にある程度のポータブルスキルを求めるのだとすれば、とりわけ平準化されたものについてはその評価をどんどん外注したほうが良いだろう。その業務がなくなるだけでも大学にとっては相当のコスト減となる。そして減らした分のコストは、前述した「絡め取られない知」の追究と、それを一緒に生産するパートナーとしての入学生を見つけ、参加してもらうための個別の方法の検討に費やそう。高等教育の無償化によって、大学選択のインセンティブから学費という要素がなくなれば、大学自身が追究するそうした知のあり方やアプローチが、新たなインセンティブとなるかも知れない(あまりに理想的だが)。

 そういう想定のもとでなら、もともと議論されていたような受検時期を限定しない共通テストや、英語の民間検定の活用は、かなり明確な意義をもっていたと思うし、高等教育の無償化も相当ラディカルな効果を持ち得たはずなのだ。

 ところがさまざまな利害を調整した結果、共通テストはセンター試験とほぼ同じものとなり、英語の民間検定の活用も大学入試においてはほぼ一発勝負という従来と変わらないものになった。また、無償化も国立・私立の格差を温存する中途半端なものに落ち着いた。この顛末を見るに、一体もともとの目的は何だったのかと厳しく問わざるを得ないし、目的を見失ったなし崩しの改革は、特に現場にとっては「改悪」にしかならない。

 この点はもっと真剣に議論をしていかないと、日本の社会はますます大きな犠牲を払うことになるだろう。この不幸な状況を打破するために、大学の広報の専門職という自分の立場を活用できる余地は、まだまだあると思っている。それが今の僕の一番のライフワークだ。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?