見出し画像

見送るということ

8月はひとを見送った。
死んでしまったわけじゃないけど、もう帰ってきてもいない。

死ぬ話や生まれる話(生まれる話にもどうしても死が含まれている)を若い人に話すことがある。
生まれたり生きている間の話をするよりも、死ぬ話のほうが自分にとって厳しいので、話をつくる準備をしながら、話をしながら、自分のなかに直視できないものがあるのには気づいていた。
自分にとって厳しいこともあると同時に、若いときのほうが「死」への関心が高く、魅了されていることがあると思う。私自身もそうだったし、そういう関心が今も一定あるのがわかる。
そういう人たちの前で、当人が死ぬことについて話すのは、実はそんなに気持ちとしても大変ではない。
死ぬことを思うことは悪いことじゃないし、そんなことは誰だってある。死にたいと言うことだってある。でも同時にそれを、こんなこと思ってるのはよくないとか抑圧しようとする気持ちがあることもわかる。死にたい自分がいるということを認めてしまったほうが楽なことがある。すべてがもちろんそうではないけど。

思うこと、言うこと、行動することはまったく別の位相にある。思うことだけは、その人の絶対的な自由なところにある。

私が直視しないようにしていたのは、たぶん見送る視点だった。
見送る側が当事者に何の影響も及ぼさない、及ぼせないこともあるし、それを気にしてどうこうしろ、こう思えなどとは当然言えない。(でも言葉にしなくても伝わってしまうことはある)

喪失についての準備や後処理は物的にも精神的も苦しい。
見送る準備をしながら本当はこんなことしたくない、あのときこうしていればという後悔が何度もあった。
いなくなった場所で一人、本当はこういうことは同じような気持ちの人や自分のそばにいてくれる誰かとわかちあったほうがいいんだろうなと思った。けれどもそういうときにいてほしい人はそばにいないのだった。

喪失のあと(特に身近なひとが亡くなったとき)グリーフケアが大事だと言われる。そうだなと思うと同時に、悲嘆や嘆きを心に押し込めてしまったら、それはどういうきっかけで引っ張り出したらいいのかなと思う。無理することではないし時間が解決してくれることもある。
同時に無理に引っ張り出されることももちろんない。どちらにしても、自分の感情を無視すると、あとで大丈夫だと思った頃に自分の感情からしっぺ返しされる。だから見送りは無視できない、軽んじられない。

見送ることは色々なかたちで段階的にシステム化、セレモニー化、慣習化されていて、それにならっていくことが時間が解決することにも含まれている。
経験や実感はその当人しかわからない。それは個人のものだけど、その個人の喪失を大事にしながら、見送ることを考えようと思った。
そう思えた今年の夏と秋だった。

(三木)