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無自覚な構造

1968という展示に行ってきました。
https://www.rekihaku.ac.jp/exhibitions/project/index.html

ただこれはその感想や解説ではありません(そう見えるかもしれませんが)。
みたときの感想を友人と話していて思ったことを書きます。

1960年代後半は市民運動、学生運動が盛り上がり、展示の副題にもあるような、無数の問いの噴出の時代でした。
様々な人がそれぞれの立場から問い行動しました。それは何かを思って行動しなかった人、途中まで何かに参加しそこから去っていった人、隣で何かやってるなぁと思ってた人、呆れていた人、すべての人を含むのだと思います。(展示は当然ながら行動した記録についてが主ですが)
あらゆるものを含む、うねるように流れる時代だったのだと想像できます。
それは時代のせいではなく、ひとりひとりが作り上げた時代だったわけです。
いつの時ももちろん人間がそのときを作ってるのですが、それが見えやすい時期なのかもしれないなと思いました。

ここでの問いの多くは、いま思えば資本主義に対する疑義だったように思えます。理論やイデオロギー的な意味というよりもむしろ、実際的な意味でです。
私たちが生きている社会は、世界は、どんなものでしょうか。

私が義務教育を受けているときは時期的に、東西冷戦からその幕開け、南北問題が主流のテーマとして教育にありました。先進国が世界を巻き込んだ政治的対立構造と経済的構造が問題として共有されようとしていたのだと思います。
先進国はそうではない他の国を搾取して自分たちの生活を成り立たせている。搾取している側と搾取される側はお互い見えない。でも搾取ありきの生活だというわけですね。
資本主義は、ごくごく僅かの人間を豊かにするために、他の人間の身体、労働、土地、ありとあらゆるものを動力とするものです。
大きな話では、社会科のようですが、こういうことです。そしてこの構造は日本で今も続いてるわけです。
これは日本と外国という関係だけではありません。国内についても起きています。日本が経済成長してくるなかで、大きな施設が作られました。飛行場や基地などもこれにあたります。当然ながらそこには元々ひとが住んでいたわけです。そうした生活や生業の場を(場合によっては半ば強引に)取り上げ、施設が作られることが進められていきました。何かの犠牲の上に常に何かを成立してきた歴史です。しかもこれは語りようによっては、一面的にサクセスストーリーとしても見えることがあります。
これでもまだ大きな話で、ミクロな個人レベルはそこまで関係ないように見えるかもしれません。
はたして、そうでしょうか。

上では、国や経済の話をしました。
そこからちょっとずらします。

1968の展示は二つのテーマに分かれていて、前半を「平和と民主主義・経済成長への問い」と題して市民運動を中心に取り上げ、後半を「大学という「場」からの問いーー全共闘運動の展開」として大学闘争を扱っています。
この後半の最後のところに闘争の遺産というトピックがありました。
このなかに「全共闘とウーマンリブ」ということで、(ウーマンリブは女性解放運動と理解してもらえれば。)田中美津(活動家)の言葉が残されていました。田中は全共闘には参加してないですが、その落とし子である赤軍派と関わったとき女性の活動家が事務的雑務的なこと(田中は炊事洗濯、差し入れ、弁護士との連絡などを挙げます)に従事していることを皮肉ります。男の活動家はその空いたエネルギーで議論し内ゲバを繰り返すと。
これは炊事洗濯を軽んじているのではなく、ここで指摘されているのは、男女の役割や労働の非対称性です。お互いの役割尊重という話ではないのです。
生活の労力を搾取する構造があるのだという指摘です。炊事してりゃいい洗濯してりゃいいということでは当然なく、日々の雑務に見える労働には感情労働が必ず伴います。家事労働だけと思うと構造がおそらく見えにくくなるのです。

こんなことはこれまでずっと指摘されてきたことです。
私もそうだなと思ってきました。ただ、それだけに足をとられては生活していけない、生きていきにくくなるところがあります。とくに周りに男性が多い場合は。また、いまの時代は男女だけに関わるのかという視点もあります。20代前半の私にとっては、生きていきにくくなるよりも、うまく飲み込めるとこは飲み込んで心地よく生きていくほうがずっと大事でした。今でもややそういうところはあります。

ここ何年か人をケアすることに関わってきました。去年はそれが重なるときでした。
私は、前半で書いたような教育を受けてきたからなのか、搾取する側と搾取される側(これも一面的にシンプルに区切れるものではないのですが)があるとき、搾取していることはもちろんあるし、それを自覚しないといけない、知らないうちに搾取してることがあるとわかっていないといけないと思っていたように思います。しかし、それはなんと傲慢なことだったか。
というのは、そのケアが重なったときに気づいたことがあるからです。

ある男の人のある種の危機的状況でケア役割になっていました。そのなかで、私に向けられた言葉は、明らかに私を尊重なんてしていませんでした。
あんまり詳しく書きませんが、私のやることに対して激昂されたとかではありません。介護していてそのなかで怒られるというようなことではなかったのです。
しんどくて出た言葉なんだろうな、整理できていないから出た言葉なんだろうと思いながら、そしてそれは他人が聞いたら甘えてるんだねの一言で済まされるようなものでしたが、同時にこれが男性に対してだったらその人はそのような態度や言葉を出しただろうかと思うと、いやいやそんなん言わんわな、という答えがすぐに出ました。
愕然としました。
こんなかたちで、ケアする、あるいは思いやるでもいいかもしれませんが、そういう気持ちを前提とするような、それを消費されるような搾取がやっぱりあるんだと、知っていたのにも関わらず、初めて実感として気づいたからです。
私は家事も炊事も洗濯もしておらず、話を聞いていただけです。相手に悪意があったわけでもありません。でもこういうことが起きたのは、それはやっぱりそういう構造を享受しているからだと痛感しました。

厄介なことに、搾取してる側だけが悪いわけではなく、あるいは搾取される側が搾取を引き出すような、そういう悪さがあるわけでもなく、すでにそういう構造が出来上がっていて、そのなかで生きてきてしまった私たちはそのなかに取り込まれてしまっている、としか思えない感覚でした。
だから双方で非常に気づきにくい。私もそこで気づかなかったらまだその真っ只中にいるかもしれません。
しかし、最初に言ったようにひとが作り出すものが元はあるわけですから、構造のなかで生きてきた私は今度、その構造を再生産していたのですね。
おそろしいことだと思いました。

そこでもう1つ気づいたことは、私の言葉が、その搾取しているであろう相手にほとんど届かなかったことです。
どれだけあなたがしんどくても私も言われたくないことがあるよという、それだけのことが全く通じない。それだけのことにものすごく説明を要するうえに、ものすごい労力を使うことになる。
要は相手は、はいわかりました、ということを言い馴れてないのだ。それに気づくまでにずいぶん時間がかかりました。
それは説明する一方だけがずいぶんとコストを必要とするものでもあるのでした。そしてコストを払っても得られるものはない。なぜなら、そこで求めてるのは、わかちあいたいや理解してほしいではなく、嫌なことをするなというただそれだけのことだったからです。わかち合いに伴うカタルシスみたいなものは最初からないのでした。

田中美津の指摘は、そのときのことを思い出させました。

1968の感想を話しているときに気づいたことがあります。研究職の男性がまわりに多いのですが、その言い回しとして「(わかってて)えらい」みたいなことがあります。
1968の感想でも、そうした言葉が非常に多かった。そういう言葉以外の具体的な形容詞が感想のなかではほとんど見当たりませんでした。
つまり、えらいものとえらくないものを選別してるだけとも言えます。そして選別する自分自身は、選別もできるわかってる奴なのだという無自覚な自覚が透けて見えます。自分は(ひとり相撲でも)絶対に安全な場所にいて、そこから評価を繰り返してるだけ。そこには、感想を言い合ってなにかを発見するという歓びがありません。感想を語り合うのは、襞のように物事を理解することにもつながります。ですが、えらいかえらくないかだけだと仮に語り合うとしても殴り合いみたいになる。えらいかえらくないかしか持っていないのだから当然とも言えます。 ただ、もちろんそういう殴り合いみたいなのが好きな人もいます。
もしも運動に対するシンパシーがある場合、そこで共鳴しているのはなんだろうと思うのです。そして当たり前ですが、女の活動に共鳴しないのだということを話してて感じました。
本当に不思議に思うのは、複合的に搾取し搾取される構造というものを、理論上ではなくどれだけ考えているのかということです。実感に伴う苦しみや傷みを理解すること。ロマンチシズムではなくそれが可能になるのが私にとってのフェミニズムでもありました。

途中で、搾取する自分を自覚することがどれだけ傲慢なことだったかと書きました。
搾取するというのは無自覚なことが多い。無自覚であることはとても傲慢です。
そのうえ、私自身が個人レベルで搾取されているのだとわかったとき、今までは実は搾取される側のことなんて考えていなかった、みないようにしてたことに他ならないのではないかと思わざるを得ませんでした。きっとそうだったのだと思います。

1968の感想をある程度言い合ったときに、一言いわれました。(三木さんて)やっぱりわかってんね。
またしても私は無自覚な構造に絡めとられました。
けれども説明する徒労を思い、何も言わなかった私もまた、その構造に加担したのかもしれません。
(三木)