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誰のために踊らされているのか

好きなミュージカルのひとつに、1789というものがある。
フランス革命を、革命側の人間(シトワイヤンやサンキュロット)、王族側の人間(アントワネットやルイ16世など)、その間の人などの立場や視点から描いたもの。元はフレンチミュージカルで、日本で宝塚歌劇が上演し、その後帝劇で演られるようになった。
お話しの構造がよく出来てるし、何よりも曲が素晴らしい。日本語に翻訳された歌詞もよい。見るたびにどこかで泣いていた。
今回のエントリのタイトルは、1789のなかのひとつの曲から。
「誰のために踊らされているのか」のあとはこう続く。
「よく見極めろ」

年があけて10日少ししかたっていないのに、公私ともに色々なことが起きすぎである。私は直接的な当事者とはいえないが、目撃者やそれに類する者だって感情が揺さぶられたり、何らかの影響はあるし、自分が関係ない問題だとも思えない気がする。

この間おきたことのひとつとして、所謂マイノリティのなかでさらにマイノリティを排除するということが起きている。
排除する根拠は「身体」が理由となっているのだが、果たしてどこまでが身体を指しているのか、いわれている身体、つまり体が意味するものは何かっていうのをずっと考えている。
そんなのはシンプルなものでしょうと言われそうだが、いやー身体ってそんなにシンプルなものでしたっけ、見た目ひとつとっても個々によって異なるっていうことが、これまでの歴史のなかでよーーく確認されてきたんじゃなかった?そうした議論や理解を今さらナシにして話そうっていうのは、そりゃどうして?っていう個人的気分もある。
ナシにするように見えるのは、これまで乗り越えようとしてきた身体による根拠を今さら持ち出して、それを強化しているように見えるからだ。それは新しい局面を提示しているようには見えない。

ただ、身体が根拠にされているけど、議論の焦点はおそらく身体ではないんだろう。
じゃあ、論点はなんだろう。
そこが明確になっていないんじゃないかと思う。
論点を明確にするために、別の言語で表現してみるというやり方がある。たとえば英語は日本語よりも主述がクリアなので、英語で表現してみると、物事のおかしさが明確にみえるということがあるんだけど、私は今このことを英語でいえるかなぁ。

論点のひとつはおそらく場なんだと思う。
その場について詳しくは、また改めて書きたい。
やっぱり場のもっている性質や、個人によってどんな世界として捉えられているかということが重要なんだと思う。
ただ言えるのは、今回は安全な(とみなされる)場をめぐる問題であるんだろうということだ。

今回はまず安全な場という前提が位置づけられていることが議論のなかで大きいように思う。
それは排除しているとされる側は、排除するつもり・しているつもりがないからだ。むしろ自分たちの場を守るための防御としてやっている。その感情と理屈はわかる。共感は別として。
ただ、防御する動きに燃料を投下したのは誰かというと、排除されている側ではなかった(と私は理解している)。
おそらくそこで混同が起きている。混同されてしまった根拠が身体になっている。

去年亡くなったアーシュラ・K・ル=グウィンの「左利きの卒業式祝辞」という文章(演説)がある。
(『世界の果てでダンス』に収められています)
少し古い内容なのだが、私はこれが好きだった。
とくに、後半の「暗闇こそあなたの国」という言葉は幾度となく反芻した。お守りのように抱えて、何度も励まされた。
ル=グウィンは暗闇を成功がない場だとしていない。むしろ暗闇とは私たちのルーツであり、生活の場、だれかを攻撃したりまた戦争がない場、そして未来が存在する場だという。
見上げた空には旋回するスパイの目や兵器で溢れている。祝福や希望は目をくらませる明るい空ではなく、ルーツとなる暗闇にある。
ル=グウィンが行ったのは、意味の読み替え、価値の組み替えだ。明るい空には形式的な大文字の成功しかないのだ。私たちが欲しかったのはそんなものですか?そこに価値を合わせる必要があるのですか?とル=グウィンは問う。

いまは、安全な暗闇が空から攻撃されていると、少なくとも片側が思っている。
でも実際に起きているのは、暗闇内での出来事ではないだろうか。
私たちは、目を眩まされいるのではないのだろうか。明るい空に。目が眩んだまま、誰が攻撃しているのか見えなくなってしまっているのではないだろうか。
いったい、誰のために踊らされているのか、よく見極めなくてはならない。

ル=グウィンは、演説のなかで犠牲者になることもほかのだれかに権力をふるうこともないもないようにと望んでいる。
本当にこれに尽きる。

事実の把握と、自分を可哀想な無力なものにおとしめることは異なる。実際に何もできなかった事実があるとしても、だからといって自分で自分のdignityを傷つける必要はないのだ。
過去の人々の歩みとは、そういうもの、犠牲者から脱しようと言葉を用い、自分たちの言葉を作り出してきた、新たな自分の価値付けることなのではなかったか。その試みは蓄積され、私たちの道程となっている。その歩みをなかったことにしていいわけないし、私たちはそこまで愚かではなかったはずではないだろうか。

(三木)