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学習のお裾分け | 誤解の多い「資本論」| #002

カール・マルクスの『資本論』というと、多くの人が「資本主義の完全否定」という少し怖いような、難しすぎるような印象をお持ちだと思います。私自身も、勉強するまでは漠然とそんなイメージでした。

しかし、実はそれだけではないようなのです。彼は、資本主義が封建制度を打倒し、近代社会の発展に貢献したことを認めています。資本主義のもとで生産力が大きく向上し、社会全体の富が増大したという事実については一定の評価をしていたようです。

こうなると「なんだ、資本主義を強く否定したわけではないんだ」と感じた人がいらっしゃるかもしれませんが、全くそうではなく、この生産力の飛躍的な進展が生み出した新たな社会的矛盾について、マルクスはかなり激しく批判をしています。

資本主義の基本特徴である「資本の蓄積」と「労働者の搾取」は、社会的不平等と不安定を増大させる要因となると考えたマルクスは、これらの矛盾が資本主義の内部から必然的に生じると分析し、最終的にはこれらの矛盾がシステム自体の崩壊を招き、「社会主義への移行を促す」と主張しました。

では、私はマルキストと呼ばれるマルクス主義者なのか?コミュニストと呼ばれる共産主義者なのか?と問われれば、これも全くそうではありません。まして学者でもないごくごく一般的なビジネスパーソンである私が、なぜマルクスの『資本論』を学ぶのか?

その理由は

いまこの世界では、「格差の拡大」が加速度的に進んでしまっているのではないか?

と考えているからです。

このように言うと、よく「ファクトフルネスを読んでいないのか」というご指摘を受けますが、読んでいます。おそらく多くの方より読んでいます。ファクトフルネスは承知のうえで、上記のような問題意識を提示しています。

資本主義経済では、資本と生産手段を持つ者が経済活動から得るリターンが大きい一方で、資本を持たない私たちのような労働者は、その労働力で生計を立てなければなりません。

技術の進歩やグローバリゼーションが進むにつれて、資本を持つ者はより大きな利益を享受することが可能になり、一方で多くの労働者は低賃金や非正規雇用に甘んじることが多くなります。これによって、経済的な格差はどんどん拡大し続け、社会の不安定化を招いているように思います。

しかし、多くの方と同じく、私自身も資本主義の恩恵を受けている一人ですし、資本主義を全否定するつもりはありません。あくまでも私は「資本主義をよりよくできないか?」「資本主義と社会主義の良いとこ取りはできないか?」と考えている一人です。

したがって誰かのせいにするのではなく、まずは私自身がマルクスの考えた資本論の本質を学び、たとえそれが一人の人でも構わないので私の「姿勢」をお見せしようと考えました。その結果がどうなるかは私には全くわかりませんしきっとゼロなのでしょうが、少なくともこれが私にできることです。

また、「カール・マルクス」「資本論」を語ること自体が、実はリスクのあることです。なぜか?理由は単純です。まだまだ誤解が多いので、語るだけでも「ヤバイ奴認定」されかねないのです。だからこそ私は敢えて「誤解を解く側」に回りたいと考え、こうやって記事を書くという行動を見せます。

ここできっぱり断っておきますが、私は「私有財産」が好きです。放棄などしません。「お金」も好きです。「儲けること」も好きです。決してマルキストではないし、コミュニストではありません。基本的には皆さんと同じです。違うのは「未来の他者」について考え、行動する点くらいのものです。

そんな私だからこそ「良い悪い」ではなく、できるだけ中立的な立場でマルクスの『資本論』を、あくまで「私なりに」学ぶことに努めたつもりです。少しだけ長くはなりますが、noteで収められる程度の情報に絞って記します。それを今から皆さんへ共有させていただきたいと思いますので、少しでも構わないので「格差の拡大」を問題視している私と同じ立場の方、お時間の許す限りで構いませんので、お付き合いいただけますと幸いです。

『資本論』

私の勉強の大もととなったソースは、すぐ上の見出しにリンクを貼っています。ソース先の文書を読める人は、当然ながら私の説明なんかよりも実際に読んだ方がいいです。

私はこれをベースに、複数の書籍とGoogle Scholar、あとは相棒のChatGPTを頼りに勉強しました。結構長いこと勉強していたのですが、私自身のメモが取っ散らかってきたこともあり、今回それをまとめてアウトプットし皆さんへ共有しつつ、私自身にとっても「まとめ資料」にしたいと思います。

それでは参りましょう。

資本主義的生産様式が優勢な社会の富は、「商品の巨大な集合体」として現れ、「単一の商品」は富の基本形態として現れる。したがって、「我々の調査は商品の分析」から始まる。

アルバート・ドラグシュテットによる『資本論』の初版ドイツ語版第1章1節の英訳

上記が出発点なのですが、ご覧の通りめちゃくちゃ硬いので、ここからは私が噛み砕きながら解説していきます。可能な限り誤解を与えぬよう、且つわかりやすくまとめます。冒頭=前提が理解できないと真の理解に辿りつくことはないので、少し丁寧に解説します。

商品の巨大な集合体

資本主義社会では、多くの商品が生産され、これらの商品が集まって社会全体の富を形成します。「商品の巨大な集合体」というのは、様々な種類の商品が市場にあふれている状態を指します。

例えば、スーパーマーケットを想像してみてください。食品、衣類、家電、書籍など、さまざまな商品が棚に並んでいます。それだけではなく、スタッフのサービスや接客も含め、これら全てを「商品」として捉えます。

つまり「なんでも商品になり得る」ということを念頭に置いてください。こういった商品が巨大に集まって、そのスーパーマーケットの全体の富を形成しているのです。

単一の商品

単一の商品は、この大きな「商品の集合体」の中のひとつの要素ですが、資本主義の分析においては、基本的な「構成単位」として押さえる必要があります。なぜなら、各商品の生産、価格設定、消費のメカニズムを理解できなければ、より大きな経済システムの動きを理解できないからです。

例として、スマートフォンを考えてみましょう。スマートフォンは個別の商品として、多くの部品(画面、バッテリー、カメラなど)から成り立っており、これらの部品もまた、実は一つひとつ別の商品ですね?

ここではおそらく全員が持っているであろうスマートフォンの生産過程をイメージ分析することで、労働や技術、投資や市場ニーズなど、資本主義経済のさまざまな側面がどのように連動しているかを考えれるようになります。

我々の調査は商品の分析から始まる

資本主義というのは、あらゆるモノを商品に変えてしまうという性質を持っているんですね。

例えば、目の前にある石ころを商品として扱うこともできます。私たちが生きていく上で欠かすことのできない水でさえ「水道料金」あるいは「ドリンク」として、お金を支払って飲んでいます。その昔「空気税」という信じられないお金の徴収の仕方も存在したらしいですよ?いくらなんでも、ねえ。

あるいは、ブランド品というモノがあります。これは生活に必須なモノではないにも関わらず、欲しがる人は少なくありません。これは、人間の何らかの種類の欲望を充足させる一つのモノであると考えられています。その商品の「属性」によって、人間の何らかの種類の「欲望」を充足させる一つのものである、と。

『資本論』は、このように全てのモノが商品として扱われている資本主義という経済システムで形成されている社会を、抽象的且つ中立的に分析することからはじまっている、ということがわかります。

資本主義を理解するためのフレームワーク

マルクスによれば、資本主義は「生産の仕方」によって定義され、社会はその生産様式によって規定されます。商品はこの生産様式の最も基本的な要素であり、すべての商品が集まって「社会的な富」を形成しているのです。この「生産の仕方というフレームワーク」を用いて、資本主義を理解します。

では次に、「商品とは何か?」という点に触れますが、やはりマルクスは一筋縄にはいきません。

商品とは「労働力」と「貨幣」

「いやいやスーパーにいっぱい商品あるじゃない」と思われるわけですが、マルクスはその中でも「労働力」と「貨幣」という二つの特殊な商品を知ることが重要であると考えました。

「労働力」が商品というのは割かし理解しやすいと思います。労働者は「労働力を商品」として市場に売っているんだということを言っているわけでから。この労働力は、あらゆるものが商品になっている資本主義の中で、とても特殊な商品として存在しているわけです。ということで前半では「労働力が決める価値と価格」について解説をしていきます。

もう一つの商品は「貨幣」です。私たちは「貨幣とは商品を買うモノ」と漠然と考えている、あるいは当たり前すぎて考えてすらいないのですが、マルクスに言わせれば、なんとそうではないのです。この「貨幣」については本記事の後半で解説いたします。

「使用価値」と「交換価値」

それでは「価値」について一緒に学んでいきます。マルクスは、商品の持つ価値には次の二つがあると説きます。その二つの価値とは、価値使用価値(消費者にとっての有用性)と交換価値(市場での価格)を持つということを押さえます。

使用価値

ある事物が人間の生活に有用であるからこそ、それを使用価値に変える。

これは割とシンプルです。「有用さが価値になる」。喉が渇いたら潤してくれるドリンクは有用ですね。とても面白い映画も、私を楽しませてくれるという点において有用です。「有用さ」とは人によって千差万別なわけですが、そういった商品は有用であるからこそ価値があります。

お金との交換でなくとも、例えば太陽も有用です。太陽が無ければ食物は育たないし、あるいは寒くて凍え死んでしまうこともあるわけです。このような役に立ち方もまた、お金と交換するまでもない価値の一つなのです。

交換価値

交換価値は、まず第一に量的関係として現れるが、それは、ある種類の使用価値が別の種類の使用価値と交換される割合であり、時間と場所に応じて絶えず変化する関係である。

おそらくこれが最初で最後の難関です。ここでの結論は「交換価値とは市場での交換力」です。ということで、まずはマルクスが考える「市場」について理解するとこらから参ります。

市場

資本主義社会においては市場=マーケットがありますよね?私たちは一般に、マーケットとは「商品を交換する場所」と考えます。ドリンクが欲しければお金と交換をするというような場所だと考えているはずです。

しかし、マルクスはそうは考えません。マルクスは「市場とは相互に所有者を認める場所である」と説くのです。はてさて「商品を交換する場所」と何がどう違うのか、一見するとよくわかりません。

例えば、上記のドリンクの例です。私たちがスーパーマーケットでドリンクを買います。レジでドリンクを買うとき、私たちが持っているお金と、ドリンクという商品を交換します。なら交換でいいじゃない?と思うわけです。

しかし、先述した「石ころ」の例を思い出してください。仮に私が海でコバルトブルーの凄くキレイな石を見つけたとします。このとき私は「これは私のモノだ」という態度を取りますが、これは他の人からすると「だからなに?」という状態です。「海に落ちてたのをあなたが拾っただけじゃん」「拾っただけなら所有権はないでしょう?」とも言われてしまいますね?

ここでマルクスが言うところの「市場とは相互に所有者を認める場所である」という考えが活きます。

私の目の前に美しい女性が現れて「その石を100円で譲ってください」と私に交渉をしたとします。もちろん私は美女であることをいいことに「イエス」と応じますね?この交換によって、石の所有者は美女になる。ということは「元の所有者が私であった」ということが、ここで初めて確定されることになるわけです。交換しているだけのように見えて、その実「相互に所有者を認める」ということを行っているのです。

それが広く行われているのが、マルクスの言う「市場」というわけです。

世間から認められる、皆の合意を得る、そのような視点が大切です。法的に所有が認められている場合を除けば、所有するということは「相互に所有者を認める」ことに依拠しているんだよ、市場とはそのような場所なんだよ、ということなのです。

価値≠価格

次に押さえるべきは「価値≠価格」ということです。価値と価格はイコールではない、というこですね。

どういうことか、一貫性を持たせるためにもまたドリンク関連で例えたいと思います。皆さん、以前から日本のウィスキーが世界では高い価格で取引されていることをご存知ですよね?日本で販売されるときには1本数千円であるにも関わらず、全く同じモノが世界では何十万円で取引されているのです。これはいったいどういうことなのでしょうか?

ここで勘の鋭い方は当然のように答えます。「需要と共有でしょう」、と。しかし、ここではそれをいったん忘れてください。私自身も「当たり前に需要と供給でしょう」と考えましたよ?しかし、いったん忘れます。ここで考えなければならないのは「価値と価格はイコールではない」ということ。「価値とは何か?」という整理から始めるからです。

あるいは、「原価から製造費と人件費と販管費引いて・・・」などと考えるとかとも思いますが、それもいったん忘れます。それは主に「価格」を考える場合に用いる計算だからです。そうではなく「何を作るか=価値を作るか」ということを考えるために、「価値とは何か?」一緒に学びます。

導入部分ということで皆さんにイメージしていただきやすいよう現代風にウィスキーを例に取りましたが、舞台は19世紀のドイツである、ということをお忘れずに。

そしてここからは、交換価値を規定する新たな「一説」が登場します。それが「労働価値説」です。

労働価値説

忘れてはならないのは、ここまでの話の本筋は「交換価値」であるということですね?それを価値付けるのは「労働」である、というのがここでの結論です。

この「労働価値説」は、商品やサービスの価値がその生産に必要な労働量によって決まるとする理論です。この理論はカール・マルクスによって有名になりましたが、彼が最初の提唱者ではありません。アダム・スミスやデイヴィッド・リカードといった古典派経済学者が、マルクスよりも前に労働価値説を展開していました。

スミスやリカードらの労働価値説をかなり意訳すれば「労働は苦役である。労働者が過酷な労働環境下で、つまりイヤイヤ頑張って働いて作られた商品であるならば、その苦役はそのまま価値に反映されるはずだ」という具合に、諸個人の意識のあり方として「労働には価値がある」という説明をしました。

しかし、彼らの説には重大な欠陥があります。なにか?「嬉しくて楽しくてたまらなく生み出した商品は無価値なのか?」という点です。しかし誤解のないように説明すれば、スミスやリカードが生きた時代と、マルクスが生きた時代にも大きな違いがありました。ここで少しだけ歴史を振り返ります。

宗教改革の時代

中世の封建社会というのは身分秩序の社会であり、職業にはランキングのようなものが存在しました。「尊い職業」「尊くない職業」といった具合に、最も身分の高い聖職者がおり、次いで王様や貴族ら領主が上位の立場です。なんと彼らは労働をする必要もなければ、ろくに税を支払わなくてもよかった。いわゆる「特権」というものが認められた身分でした。

そうなれば、庶民が労働をして特権階級の人たちの生活を支えていくことになります。当時の労働というのは賤しい人たちがするもの、価値など無いものだったのです。それが当たり前の世界でした。

そこに現れるのがマルティン・ルターやジャン・カルバンです。彼らが「どんな職業も尊い」「神が与えた天職ではないのか」「だから労働はすることは神に使えることである」「労働には価値がある」ということを大きな声で訴え続けたことによって、こうした考え方が浸透していきました。

その宗教改革を経てさらに労働に対する考え方は、より具体的になっていきます。その代表者がジョン・ロックという人です。ロックは「人の経済的価値の源泉は財そのものにはない。それを生み出した労働にある」といふうに、今までよりも更に具体的に労働の価値を定義しました。

したがって「生産された富は労働の産物なのだから、労働をした者にこそ富を所有する権利があるのではないか」ということを言い出しはじめます。加えて彼は「逆に労働していない王様や貴族は所有権を主張すべきではない」というようなことまで言い出したのです。かなりの強者です。

このような歴史的背景があり「労働はネガティブではない」という流れを汲んだスミスやリカードが「労働価値説」という考えを提唱するようになっていきました。

では、宗教改革から始まって生まれた労働価値説と、マルクスの考える労働価値は、具体的には何が違うというのでしょうか?それを敢えて一言で表現すれば「モノゴトの捉え方」です。

スミスや、彼の考えを発展させたリカードらは、「個人が労働をどう認識するか」という点について考えました。彼らの理論は、「自己調整する市場」という枠組みで捉えられることが多く、経済活動を個々の行動や選択の合算として分析しています。彼らは経済システムを「自然科学的な法則」に従うものとして扱い、このシステムがどのように自己調整機能を持っていると捉えました。「市場は恣意的なもの」と言い換えて考えることもできます。

では、マルクスはどのように考えたのでしょうか?

「唯物史観」と「労働価値説」の統合

マルクスは、スミスやリカードが提唱した労働価値説を基盤として採用しながらも、その理論を自身の唯物史観と結合させ、より広いな理論的な枠組みを構築しました。

スミスやリカードが「個人が労働をどう認識するか」という枠組みで考えたのに対して、マルクスの態度は異なります。マルクスは「社会が我々をどのように捉えるのか」とう視点、つまり歴史唯物主義として知られる「唯物史観」という枠組みでモノゴトを捉えて観察し続けました。

マルクスの唯物史観では、「歴史の進行は物質的な条件、特に生産手段の発展に基づいている」と規定されます。彼は社会の変化と発展を、支配的な経済システム基盤と、それに伴う社会的、政治的な上部構造との相互作用として分析しました。つまり自己認識ではなく、客観的な視点に立って考察を繰り返したということです。

この「唯物史観」と「労働価値説」の統合をもってはじめて、「嬉しくて楽しくてたまらなく生み出した商品にも価値があるのではないか?」ということに対してもまた、その答えを見出していけるようになるわけです。

マルクスの考える労働価値

マルクスは社会システムの中でどのように「価値」が算出されるのか、それがどのような「交換力」を持つに至るか、あくまでも客観的な観察を続けます。彼はこの「交換力」を形成するのは、次の二つだと考えました。

「具体的労働」と「抽象的労働」

漢字が続きますね。苦行に思えるかもしれませんが、ここがこの難関のピークです。もう少しです。ここでのポイントは「質と量」です。「具体的労働=質」と「抽象的労働=量」と思えば、少しハードルは下がるでしょうか。

具体的労働

具体的労働とは、先述の通り一言で表現すれば「労働の質」です。この労働は、特定の商品やサービスを生産するための労働であり、それによって商品はその具体的な用途や価値を持ちます。例えば、ウィスキーを作る労働、石を加工し家を建てる労働などがこれに該当します。これは「質的」な側面で考えられるということですね。それぞれの労働が特有の技術や技能を必要とするからです。平たく言えば、スキルがもたらす価値です。

抽象的労働

マルクスは市場経済において、労働が商品として取引される際には、その労働は具体的な形態を超えて「抽象化される」と考えました。これは労働が「時間」という量的な単位で測定されること、そして異なる種類の労働が等価として扱われることを意味します。つまり、「商品の交換価値はその生産に必要な社会的に必要な労働時間によって決定される」というのがマルクスの基本的な見解です。

この抽象的労働の概念は、マルクスの理論の中でも特に重要なポイントです。多くの経済学者が労働価値論を提唱していますが、マルクスが特有なのは、「労働の抽象化が資本主義の商品生産の本質を明らかにする」という点にあります。

私たちの現代社会においては、商品の価値が「需要と共有」によって決まるという考え方が一般的です。しかし、マルクスが生きた19世紀の資本主義初期においては、労働と商品の価値の関係が今日とは異なります。

マルクスは、「社会全体の労働量の総量」という概念を用いて、ある商品の生産にどれだけの労働力が投じられたかの「平均値」を重視しました。これは、個々の商品の価値が、その生産に必要とされる労働量の、社会的平均によって決定されるという考え方です。

更にこの概念を用いれば、技術の進歩や生産方法の改善が、労働時間=コストを短縮させるため、この「平均的に必要とされる労働時間」は変動可能であり、経済分析において非常に重要な考え方となります。

というわけでいったん「価値」について整理をすれば、マルクスの価値の捉え方には二つの側面がある。一つは商品が使用者にとって有用であるかどうかの「使用価値」、もう一つは市場でのその交換力を決める「交換価値」です。これらの価値の概念を理解することが、マルクス経済理論の理解には不可欠です。

そしてここからが、「交換価値」が持つもう一つの顔、「価格」について見ていきます。

価格

さて「いったん需要と供給は忘れてください」と申し上げたのは「価値と価格がイコールではない」という説明のためでした。

というわけで、改めて交換価値がもたらす「価格」に関して述べれば、それは抽象的労働が決める、つまり「労働量が価格を決める」ということです。この労働量によって価格が決まっているのはなぜかというと、彼が生きた時代背景が大きく関わっています。

本記事も長くなってきたので細かいことは以下の記事に譲りますが、彼が生きた時代には、生活のために自らの労働力を売るしかない「プロレタリアートという」労働者階級と、「ブルジョワジー」という労働者階級が生み出す利益のほとんどを得ていた中産階級との、明確な格差のある二つの階級がその社会を形成していました。

では、労働量によって価格が決まるというのはどういうことかと言うと、実はこれ、「抽象的労働の価値」の箇所で説明済みです。

マルクスは価格の決定について、彼の考える「労働価値説」において、ある商品を生産するのに平均的に要求される労働時間が長ければ長いほど、その商品の価値は高くなると唱えました。商品の交換価値、つまり「市場での価格」は労働量によって本質的に決まると言っているのです。

実は彼、市場の需給関係についてはその一部を認めています。しかし市場の需給関係は、「価格に短期的な影響」を与えると認めつつも、長期的な視点から価値の法則に基づいて考察をすれば、商品の価格はその生産に必要な「社会的に必要な労働時間」によって決定される述べます。これは、労働者の凡庸な技術と効率化された機械生産の下で、生産に費やした時間に基づくものです。

マルクスの革新さは、技能や技術が労働価値に与える影響を詳細に分析した点にあると思います。彼によると、高度な技能や特別な訓練を要する労働は、一般的な労働よりも高い価値を持つとされます。これは「複雑な労働」と呼ばれ、その労働が生み出す価値は単純労働の何倍にもなり得ると考えられています。この指摘には希望ある先見性を感じさせられないでしょうか。

もう一つの商品「貨幣」

さて、私たちは貨幣を「商品と交換する券あるいは硬貨である」と、生活に便利な道具として考えていると思います。大昔の物々交換の時代は、時を経て金本位制になり、しかし非常に重い金は持ち運びが困難。というわけで金と交換できる券または硬貨として生まれたのが「貨幣」です。

現代では物理的な意味での貨幣を持ち運ぶ人は減っています。基本的には全ての商品との交換がクレジットカードやスマートフォンでのオンライン決済という方法で可能になりました。例えば急な大雨によるタクシ―移動も、急な飲み会の席でさえ、オンライン決済が可能。今やリアル貨幣は絶滅危惧種となりつつあります。

しかし、形が変わろうが貨幣は貨幣です。ここで改めて、マルクスがこの貨幣というモノをどう捉えているかと言うと、「人類が最も欲しがる商品」という風に考えていたようです。「商品の王様」と表現すると、より容易にイメージができるなるのではないでしょうか。

マルクスは自身の経済理論において、貨幣はただの交換手段にとどまらず、資本主義社会の最上位に位置づけています。『諸本論』の中では、「貨幣が商品の一般的等価物として機能し、すべての商品の価値を表現する手段となる」ことが説明されています。彼は「貨幣そのものが社会的な力を持ち、人間の行動や社会構造にさえ大きな影響を与える」と指摘しました。

市場での商品の交換というのは、必ずその前に「値付け」がなされます。販売前には必ずいくらで売るのか価格を決めます。価格というのは交換物としての商品が持つ価値によって決まります。その価値は「有用か否かという使用価値」と「交換力として運動量がその価格を決める交換価値」がありましたね。そしてこの価格を決めるのは、抽象的労働で言う労働量でした。

さあ、皆さんが一番欲しい商品はなんでしょうか?豪勢な住宅?注目を浴びる車?煌びやかなブランド品?そうではなく、これら全てと交換可能な「貨幣」という商品だと思います。これは現代を生きる私たちだからこそ「当たり前でしょう」と思えるわけで、『資本論』が書かれた時代は19世期です。マルクスはひたすら当時を観察し、併せて熱心に経済学を学び続けたからこそ、貨幣という商品がもたらす危険性について指摘できたのだと思います。

物々交換について触れましたが、その後の金本位制に至るまでの間に「法定通貨」の概念が生まれはじめます。その一般投下物であるところの法定通貨が「貝殻」であったり「米」であったりした時代、エリアも存在しました。その中で現代に至るまでの人々は「貨幣」という法定通貨を選択し、今日に至っているわけです。

繰り返しになりますが、この商品の王であるところの貨幣は、全ての商品と交換ができるために、全ての人間がこの商品を欲しがる。全ての人がこの商品を欲しがるということによって、商品の中の王様のような扱われ方をしていく。これがマルクスが訴えている言葉です。

この貨幣という商品は、自らを含む商品の価値を測定する尺度として機能しますし、商品交換を仲介する手段として機能し経済の流動性を保ちます。価値をそのまま保存することもできるので、資本の蓄積だけでなく投資の機会=儲ける機会を得ることにも繋がります。今日の私たちが持つ貨幣の概念を、マルクスは19世紀の世界で既に見抜いていたのですね。

人間よりも価値のある「貨幣」

貨幣が商品の王なのでれば、貨幣が社会に与える影響はもはや途轍もなく大きなものになります。それは貨幣を使う私たち人間よりも、です。

これは感覚的にとても嫌悪感を持たれることだと思います。「人間<貨幣」というのは、実に賤しい指摘のように感じられることでしょう。しかし、冒頭で指摘をしたことを思い出してほしいのです。

私たちが生きていく上で欠かすことのできない水でさえ「水道料金」あるいは「ドリンク」として、お金を支払って飲んでいます。

飲めなければ、死んでしまいます。この意味において命さえ「貨幣」で繋ぎ留めていると考えることができるのではないでしょうか。おそらくこれをお読みの全ての人が「生きるのには、お金がかかる」と、一度ならず感じたことがあるでしょう。

剰余価値

マルクスは、資本主義において資本家が労働者から搾取する価値の形態を、「剰余価値」として厳しく批判しました。彼によれば、労働者はその労働力を資本家に販売し、その対価として賃金を受け取ります。しかし、労働者が一日の労働で生み出す価値は、彼らが受け取る賃金よりも大きい。この受け取る賃金と、労働者が生産した価値の差が「剰余価値」であり、これが資本家の利益、つまり利潤となっていると、マルクスは糾弾しました。

マルクスは、資本主義が固有の矛盾を持っており、それが最終的にはシステムの崩壊につながると考えていました。彼は、資本主義を不公平で不安定なシステムと見なし、労働者階級の解放と、共産主義社会の構築を目指していました。しかし、現代を生きる私たちの目には、崩壊しているように見えるか?そうは見えないか?私は少し考えてもいいのではないかと思います。

剰余価値の概念は、労働価値説に深く根ざしており、資本主義経済の利潤追求の原理を明らかにし、経済的不平等や社会的不正の原因を説明するためにも用いられています。マルクスの理論は、経済面だけではなく政治面においても、今日でも広く参照され、議論され続けています。

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