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「義務感」はコミュニティ衰退のはじまりはじまり

こんにちは。コミュニティ情報のおっかけnagata(@SsfRn)です。

先日書いた「サイボウズ式と灯台もと暮らしから学ぶ、コミュニティにおいて大切なこと」が、登壇者の皆様にも拡散していただき、自身が書いた記事の中で一番のシェア数となっています(といってもそもそもの分母が少ないのは置いといて)。本当にありがとうございます。。

この記事の中で、株式会社Wasei 代表の鳥井弘文さんからいただいた言葉で得た気付きで”義務感はコミュニティの衰退のはじまり”ということを書かせていただきました。これは、私の価値観そのものでもあったりするので、本日はここを少し掘ってみようと思います。


義務感からは何が生まれるのか?

私は”強制”や”義務感”という言葉が苦手です。「〇〇はこれやるの当たり前でしょ?」と言われたり「〇〇をやらなきゃ」といった状況です。

実際にそれを感じるのも苦手ですし、場合によっては嫌悪感すら感じます。

それは過去のとある体験があったからではないかなと。

小学生の時、私は”テニス”に一目惚れをし、テニスラケットを手に取りました。それからテニススクールに通わせてもらい、ラケットを毎日のように握り、雨の日も台風の日も素振りをするほど打ち込んでいました。ラケットを握らない日があると気持ち悪いと思うほど。これは「勝ちたい!上手くなりたい!」というモチベーションでなくて、ただ純粋に「テニスをやりたい。テニスが好き。テニスに触れていたい。」という内側の感情からきていました。

その後、中学生となり高校生となり、大会の戦績も上がっていき、気付けば全国大会という舞台にも立たせていただいていたんです。通っていた高校も、インターハイで優勝するようなチームで、言わば常勝校。予選で負けることは許されませんでした。「勝って当たり前」のプレッシャー、、、いや、もはや義務感のようなものに、私は縛りつけられるような窮屈感を覚え、根底にあった自分の思いは姿を隠していました。勝たなきゃいけない。やらきゃいけない。勝ったとしても”まあ当たり前”そんな空気。本来感じていたはずの「テニスが楽しい!好きだ!」という私の世界を鮮やかに彩っていたはずのものを見失い、モノクロの世界をただひたすらに走る日々。

ふと立ち止まれるタイミングで後ろを振り返ってみると、ゴールまでの過程を全く楽しんでいないことに気がつき(いやそもそもゴールすら見えていなかったかもしれない)「俺は今まで何をしていたんだろう、、?」と思ったことを今でもはっきりと覚えています。それからは、勝負の世界から身を引き、別のスポーツに移りました。

全ての要因を”義務感”のせいにするつもりは全くありませんが、”義務感がマイナスな方向へと誘った感覚”が私の中にはあったのです。

この義務感は何を生むのでしょうか?

本来あった価値を見失わせ、その人の世界から色を奪っていくこの存在。やはり私は好きになれないのです。


義務感はコミュニティ衰退のはじまり

コミュニティがスタートする時、必ず誰かしらの「やりたい」がそこにあると思います。人が多く集まるコミュニティって、その「やりたい」という気持ちが大きかったり、キラキラしていたり、共感を得やすかったり、何かしらの魅力がありますよね。その魅力に魅了された人が、コミュニティに集まっています。彼ら彼女らの中には、雲ひとつない純粋なニーズがあるはず。「おもしろそう!」「コミュニティに入りたい!」「この人がいるコミュニティが気になる!」。

そこには、義務感など一切ありません。なぜなら、皆”このコミュニティに入らなければいけない”という強制・拘束するものは一切ないからです。コミュニティ1つに入らなくても生きていけるし、充実した生活も送ることも可能でしょう。そのぐらい世の中には、素晴らしいコンテンツで溢れています。もちろん中には、それしか見えず、入らないといけない!って感じてしまう人もいます。でもそういう方って長続きしませんよね?それは入る時から義務感を感じているからだと思います。

コミュニティメンバー、リーダー、マネージャー。コミュニティに関わる全ての人に共通して義務感を感じることにメリットは一切ないと思います。中心にいる人(マネージャーやリーダー)が感じれば感じるほど、それはコミュニティの衰退どころではなく、崩壊に繋がっていきます。中心メンバーの思いがコミュニティを輝かせるし、その周りのメンバーも輝いていく。それなのに、それが曇ったり、靄がかかってしまっては、そのコミュニティに何の価値があるのでしょうか?もちろん、それまで積み上げたものもあるでしょうし、誇るべきコンテンツもあるかもしれません。しかし、”義務感”を感じてしまったのであれば、それはコミュニティ衰退のファーストステップなのです。


義務感と使命感の違いとは

義務感に近い言葉で使命感という言葉があります。

行動を制限させるという意味では、ほとんど同じ意味合いかもしれませんが、この両者には決定的な違いがあります。

鳥井さんは自身のブログにて、その答えが。

「一方で、使命感に似て非なるもの、それが義務感だと思います。義務感も同じように、”〜しなければならない”っていう拘束力を持ちますが、それは外的要因からくるもの。法や社会通念に従って、やらなければいけないと感じることです。でも、使命感というのはそうじゃない。文字通り、自分が”命を使いたいと感じるもの”なのかなと。」

隠居系男子:義務感と使命感の話。から引用)

つまり、義務感とは外的要因から、使命感は内的要因からくるものだということです。そのアクションのモチベーションはどこからきているのか?使命感じゃなくても、やりたい!という欲求も内的要因。やらなきゃ!という義務感は外的要因です。

何かを達成した時や、継続的に取り組んでいることがあれば、「これは内的要因でやっているのか?これからも内的要因でやっていけるか?」と自問自答することが大切です。気がつかないうちに、内的要因が外的要因に変わってしまうかもしれません。

コミュニティの中心にいる人が持つべきは、義務感ではなく使命感ではないでしょうか。


最後に

コミュニティのように、継続的に取り組まなくてはいけないことほど、内的要因→外的要因になるリスクは、多々存在すると思います。

「使命感だと思っていたものも、そこに執着しすぎてしまうあまりに、突如として義務感に変わってしまうことだってある。」

隠居系男子:義務感と使命感の話。から引用)

鳥井さんは義務感と使命感は表裏一体なのではないか?とおっしゃっています。そのぐらい、このリスクが側にいるということなんでしょう。

コミュニティマネージャーの方は、義務感ではなく使命感を持ち、メンバーの人には、義務感を感じさせないように気をつけていく必要があると思います。「やらなきゃ」ってなりそうな人がいたら、休ませて自分自身と向き合う時間を与えてあげて、内的要因へ引っ張ってあげることも、コミュニティマネージャーの役割ではないでしょうか。

それでは!


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