【第468回】『海よりもまだ深く』(是枝裕和/2016)

 冒頭、親子2人は団地の狭い一室で会話をしている。親子と言っても樹々希林と阿部寛ではない。母親・淑子(樹々希林)と姉・千奈津(小林聡美)の2人である。娘は台所にどっしりと場所をとったテーブルに座り、ハガキの宛名書きをしている。母親は娘と背中合わせで筑前煮を作っている。親子の距離感はことさら近い。それは団地が狭いことに起因する。やがて母親は筑前煮を作り終えると、テーブルに千奈津と横並びで座る。2人の女優のずば抜けた演技力もさることながら、カメラは団地特有の狭い空間を逆手にとるように、女優たちの表情をクローズ・アップやミディアム・ショットで近距離から据える。『歩いても 歩いても』、『ゴーイング・マイホーム』に引き続き、良多という因縁めいた名前を3度演じる息子である阿部寛は、西武池袋線の黄色い列車に揺られながら、生まれ故郷である清瀬の団地へ帰ろうとしている。駅で立ち食いそばをすすり、お土産のケーキを買って帰る親孝行ぶりが、ただの打算でしかないことに気付くのにそう時間はかからない。ケーキ屋の隣は既に閉まっており、この辺りもすっかり寂れたシャッター通りになっていることが暗喩される。男は土産の袋を小脇に抱えながら団地へと向かう道中、中学の同級生と偶然再会する。住み慣れた町に戻ったクラスメイトが話す「孤独死」というフレーズに注視せざるを得ない。良多と千奈津の父親も半年前に他界し、かつて家族5人で住んでいた5回建ての団地には母親の淑子だけしかいない。

良多は孤独な独身やもめかと思いきや、そうではない。彼には離婚した妻と長男がいる。小説家として15年前に文学賞を獲ったものの、その後は極度のスランプに陥り、鳴かず飛ばずの人生を送っている。11歳になる息子・真悟(吉澤太陽)の親権は母親の響子(真木よう子)が持っている。その上、毎月の養育費さえまともに払っていない。小説のリサーチと称し、探偵事務所に所属しているが、せこい案件で小銭を稼ぐことしか能がなく、実質後輩の町田(池松壮亮)に委ねている。小銭を稼げば一攫千金を夢見て、ギャンブルで全額使い果たすダメダメ人生。これまでの是枝作品のように、ここには大黒柱となる父性の存在があまりにも弱々しい。前作『海街diary』では、四姉妹の父親は既に他界し、自由奔放な母親は家など顧みず、北海道で自由気ままに暮らしている。今作でも舞台となる篠田家には、大黒柱となる父親は既に他界しこの世にはいない。父親そっくりのギャンブル依存でどうしようもない血を受け継いだ良多とその周囲の人間は、彼が大器晩成型だと信じて疑わない。それでも気長に待てるのはせいぜい家族くらいで、妻だった響子は実に冷淡である。子供じみた大人である良多(阿部寛)に対し、大人びた子供である真悟(吉澤太陽)が随分図式的に描かれるのも興味深い。母親のためにとフィアンセに気を遣い、ホームランよりもフォアボールを選ぶ冷めた子供は、まるで『海街diary』の浅野すず(広瀬すず)や香田幸(綾瀬はるか)のように子供時代を奪われた大人びた子供としてここに存在する。

5回建ての白い団地、かつて良多が植えた鉢植えの花も実もならないミカンの木。賃貸と分譲の明確な住み分け。40数年前、ここに引っ越してきた際には仮の住処になるはずだった狭い団地は、淑子と亡き父の生活感を仄かに残しながら、妻の新しい生活が過去を覆う。ベートーヴェン『弦楽四重奏第14番』のCD、防水性のCDプレイヤー、姉が供えた大福、線香立ての燃えかす、捨てたはずの父親のYシャツ、大柄な良多のせいで割れたガラス戸、幾つかの道具立ての細部に及ぶディテイルと役者の生理に向き合う是枝裕和のドキョメンタリー出身者としての独特の嗅覚が実に素晴らしい筆致で描かれてゆく。さびれゆく団地の過疎化、孤独死、格差社会の中で取り残されようとしているかつての家族の幸福な光景が、なりたかった自分になれない人たちと重ね合い、言いようもない淡いディテイルを作る。良多が割ったガラスを補修する義理の弟(高橋和也)の「本当はこういう仕事が向いているんですよね」という言葉は、なりたかった大人にはなれなかった人間の悲哀を仄かに醸し出す。良多だけではなく、淑子や千奈津、響子や町田に至るまで、なりたかった大人になれた人物が果たしていたのだろうか?それは響子の今のフィアンセで不動産会社のお金持ちである福住(小澤征悦)も例外ではない。彼がAmazonで買ったというかつての夫の処女作の感想を聞いた時の、思わせぶりな凡庸な感想は、自分の愛した女のかつての姿を知る男への言いようもない嫉妬にも見える。アイスの代わりに冷凍庫で凍らせた薄めたカルピス、同じく冷凍され、タッパーに小分けにされたカレーうどんのルウが、ふいに失われた家族の食卓を蘇らせるクライマックスの息を呑むような美しさ、妻と息子が居間のテーブルでご飯を食べ、良多が奥のキッチンで満足気にカレールウをすするショットの目線の高さが違う図式的な構図。主人公がかつて文学賞を受賞し、華々しいデビューを遂げた小説の題名が『無人の食卓』だったのは何かの偶然だろうか?

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