【第484回】『グランド・ブダペスト・ホテル』(ウェス・アンダーソン/2014)

 ベレー帽を被り、トレンチコートを着た少女が1冊の本を抱えながらオールドルッツ墓地に立っている。そこから左に横移動した先には、無数の鍵に彩られたauthor(著者)の文字と在りし日の著者の銅像が見える。少女がピンク色の装丁をした本をしげしげと眺める俯瞰ショットに、『ザ・ロイヤル・テネンバウムズ』の冒頭を思い出さずにはいられない。今作は少女が『グランド・ブダペスト・ホテル』をおもむろに読み始めるところから1985年に遡り、在りし日の著者がゆっくりと創作について語り始める。彼曰く、優れた物語は無から生み出すのではなく、自然と耳に入ってくるのだという。カメラ目線で語りかける彼に突然、水鉄砲をかける孫らしき少年の姿。その後ゆっくりと部屋に入って来て「ごめん」と謝る少年の態度に「いいんだ」と答えながら、話は1968年に遡る。野村訓市も出て来るゆったりとした牧歌的なロビー、若き日のズブロフカ(ジュード・ロウ)はアルプス麓の町、ネベルスバートにあるグランド・ブダペスト・ホテルを訪れる。戦前活気を帯びたであろうゴージャスな内装、シャンデリアに彩られたあまりにも高い天井、在りし日のヨーロッパの気品が香るこのホテルで男はバスタブに浸かる。そこに思いがけなく声をかけてきたミスター・ムスタファ(F・マーリー・エイブラハム)との微妙な距離、それでも繰り返される折り目正しいリバース・ショット。ここを出たら大広間で一緒にご飯でも食べようと約束したムスタファはズブロフカに向けて静かに語り始める。時はこのホテルが栄華を極めた1932年に遡る。その流れるような回想形式はジョセフ・L・マンキーウィッツを連想させる。

ムッシュ・グスタヴ・H(レイフ・ファインズ)と若き日のムスタファ少年の出会いの場面、いつものように階上の窓から顔を出した人間との高低差のある視線のやりとりに始まり、エレベーター内での真っ赤な密室があまりにも印象に残る。「LOBBY BOY」と書かれたムスタファ少年の帽子、黒の蝶ネクタイ、白いYシャツ、そこに羽織った紫のスーツの色味とムスタファ少年の帽子の色味とがばっちりとシンクロし、お揃いのコスチュームのような雰囲気が漂う。忙しなく歩きながら彼の素性を面接していく様子はさながらエルンスト・ルビッチの『極楽特急』のようにも見える。グスタヴ・Hの下に集う富裕層たち、客の希望や意図を先回りして行動せよというコンシェルジュ哲学、帽子にドレス、手袋と全身赤で決めた曰くありげな老婆マダムD(ティルダ・スウィントン)も彼を数十年来懇意にしている1人。彼女の突然の死から、一転容疑者の疑いをかけられた男の「イノセント・オン・ザ・ラン」はヒッチコックの18番だが、今作では常にグスタヴ・Hの傍らにはムスタファ少年がいる。さり気なく彼にグランド・ブダペスト・ホテルを訪れた理由を聞くと、彼の家族は内戦で殺され、天涯孤独な彼はこのホテルに身を置きたいと願う。ムスタファ少年の最愛の人となるアガサ(シアーシャ・ローナン)も、ムッシュ・グスタヴ・Hも、ムスタファ少年と同じく天涯孤独の身であり、またしてもこれまでのウェス・アンダーソンの主題を踏襲するかのように、天涯孤独な3人は疑似家族の様相を呈するのである。

更に特筆すべきはアスペクト比のめくるめく変化だろう。近年の『ファンタスティック Mr.FOX』、『ムーンライズ・キングダム』と処女作『アンソニーのハッピー・モーテル』がビスタサイズ、『天才マックスの世界』、『ザ・ロイヤル・テネンバウムズ』、『ライフ・アクアティック』、『ダージリン急行』がシネスコ・サイズであったのに対し、今作では初めてスタンダード・サイズを部分的に選定している。1985年がビスタサイズで始まり、1968年がシネスコサイズ、1932年がスタンダード・サイズと年代ごとにアスペクト比が縦横無尽に変化するのも見逃せない。若き日のジュード・ロウがグランド・ブダペスト・ホテルを訪れる際の、朴訥としたショットのリズムに対し、1932年に退行した際のスタンダード・サイズの画面では、次の場面が予測出来ないジェットコースターのごとき苛烈なショットの繋ぎに生まれ変わる。ここではワイド画面で繰り返し試みられた横移動は抑えられ、ひたすら奥行きを生かした縦移動を基調としている。中盤、弁護士のコヴァックス(ジェフ・ゴールドブラム)が追っ手となる私設探偵ジョプリング(ウィレム・デフォー)の恐怖に怯え、閉館15分前の美術館の奥へ奥へと逃げ惑う様子は、さながらヒッチコックの『引き裂かれたカーテン』のオマージュのようにも見える。同じく中盤、グスタヴ・Hの脱獄計画を助けるのはまさかのルートヴィヒ(ハーヴェイ・カイテル)であり、ウェス組常連のシーモア・カッセル同様に、頭を剃り上げた容姿があまりにも印象深い。まるで『ダージリン急行』のような狭い列車内の個室。亡命者を連れ歩くことで訪れる危機、それを助けるエドワード・ノートンらの嘘のようなラスト・ミニッツ・レスキューに支えられながら、来たるべきクライマックスへと性急に向かう。ジョプリングのバイクを追走するムスタファ少年のソリ、急な雪山の中を曲がれないと言いつつキレイに曲がる俯瞰ショット。アメリカ大陸を飛び越えたウェス・アンダーソンの世界観は、遂に戦前ヨーロッパへと拡張されていく。

#ウェスアンダーソン #レイフファインズ #ジュードロウ #Fマーリーエイブラハム #ティルダスウィントン #シアーシャローナン #ジェフゴールドブラム #ウィレムデフォー #ハーヴェイカイテル #エドワードノートン #グランドブダペストホテル

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?