【第240回】『蛇の道』(黒沢清/1998)

 黒沢清監督と哀川翔主演で製作された10本の映画のうちの9本目のVシネマ。もともと『勝手にしやがれ!!』シリーズがそれぞれ2本撮りで計6本あり、それとは別のベクトルで哀川翔と何か模索出来ないかと考えたのが『復讐』シリーズである。『勝手にしやがれ!!』シリーズが純然たるプログラム・ピクチュアへの回帰だったとするならば、『復讐』シリーズは幸福なプログラム・ピクチュアの時代の終焉を意味した。それは銃を大々的に使用したドンパチへの飽くなき欲望であり、暴力の彼岸への挑戦でもあった。ちょうど93年に北野武の『ソナチネ』があり、95年に石井隆の『GONIN』があり、邦画好きの中に70年代任侠映画とはまた一味違うドンパチに羨望の眼差しを向けるシネフィルたちが数多くいた。

今作は当初、その『復讐』シリーズのパート3として制作される予定だった。しかしながら制作会社であるケイエスエスがこの企画から降り、出資元が『CURE』の制作・配給をした大映に移る。それによりタイトル変更を余儀なくされた黒沢は、哀川翔のキャラクターである安城という男を、新島の名前に書き改めている。先の2本では物語の設定も一家惨殺の復讐、嫁殺しの復讐であったが、『蛇の道』と『蜘蛛の瞳』では娘殺しへの復讐に変わっている。

冒頭、ある車に乗った男達2人が、何か大きなことをしでかそうとしている。香川照之は緊張のあまり車中にうずくまり、どこか落ち着く場所に一度程車しないかと哀川翔に申し出る。渋々ながら了承した哀川は香川照之を車に残し、宅配便を装い、下元史朗から巧妙に住所を聞き出す。この時点で彼らが刑事なのか警察なのか、やくざなのかチンピラなのかはまだわからない。下元史朗は宅配便に警戒した様子もない。正面突破し部屋に強引に押し入った哀川翔は、スタンガンで一瞬で下元を気絶させ、車の後部に詰め、意気揚々と目的地へ向かう。なぜ男たちはすぐに殺さないのか?この男はいったい何者なのか?目的地に到着した時、哀川と香川の意図も、下元の素性も同時に明らかになる。

今作でも黒沢は一貫して何かあまりにも様にならない施設内で映画を撮っている。ごく普通の商店街を抜け、住宅街に入り、幾つかの路地を曲がったところに今回の陰惨な舞台が待っている。それは監禁場所と表現する方が正しいかもしれない。ごく普通の住宅地の中にひっそりと佇むごく普通の工場の跡地が事件の現場となる。だだっ広い工場内部は防音加工され、周囲の住宅街には一切の音が漏れない。どんなに大声を出そうが、銃撃に怯えようが、その大きな音は外の世界と隔絶されているのである。

真実はほどなくして明らかになる。小学生の娘を誘拐され、性的な暴行をされた上、殺された父・宮下(香川照之)。自らの手で犯人を突き止め、復讐を誓う。調べを進めるうち、謎の男・新島(哀川翔)が宮下の復讐に手を貸すようになる。組織の幹部・大槻(下元史朗)を拉致し強引に口を割らすと、組長・檜山(柳ユーレイ)の名を挙げた。宮下はかつて檜山の下で働いていたが、はたして本当に犯人は檜山なのか? さらに新島はなぜ宮下を助けるのか? 事態はますます混沌としていく……。

香川照之は事件の被害者であり、娘の死後、廃人のような生活を送っている。そんな彼の前に突然現れた新島は、彼の荒廃した心に同情し、ボランティア精神で復讐のサポートを買って出る。しかしながらその意図や動機はいまひとつはっきりしない。香川に貸しがあるわけでもなく、小学校時代からの友人でもなければ、仕事上の知人でもない。ただ単に路上に数式を書いている時、偶然通りがかったのが香川であり、少女と数式を説いていたのが哀川である。たったそれだけの出会いで、なぜここまでしてくれるのか?香川は疑心暗鬼に駆られたまま、新島とともに復讐を遂げようとしている。

思えば黒沢映画においては、誰か2人が車に乗り、正面からその様子を撮影する場合、2人が何かしらの運命に足を踏み入れることが暗喩的に込められていた。2人の行く先には不穏な結末が待ち構えているが、もはや引き返せない環境に足を踏み入れている。今作においてはその引き返せない状況が、実に中途半端な形で実行されるのである。哀川と香川は、香川の小学生の娘を殺した犯人を捕まえ、拉致してきたはずだった。しかしながら彼は自分は無実だと訴え、別の名前を言う。哀川と香川が知りたいのは、事件の真実に他ならない。実際に誰が娘をレイプし、誰が殺したのかが重要であり、ここで2人は犯人だろうと仮定した男の証言に見事に騙される。下元を拉致し、一件落着に見えたこの事件の真相が、下元の証言で実は真犯人が別にいるかもしれないという証言に見事に釣られる2人の姿がある。

2人目に拉致する相手は、下元のような下っ端の人間ではなく、組長である。拉致するまでの方法論は下元の時よりも数倍難しいように感じられたが、その拉致の瞬間はいとも簡単に哀川と香川の前に訪れる。だが彼のバックについている組員の厄介さにその後の彼らは足を引っ張られるのである。ここでの柳ユーレイの起用は、次作におけるダンカンの起用と同じように、明らかに北野武への挑戦状と見受けられる。組長には決して見えない柳ユーレイの起用が、その裏にいる北野武の存在を強烈に想起させる。

今作において限定された空間における動線の把握が、真に素晴らしい結果をもたらしている。工場の場面である。これまでの黒沢の映画においては、住居の中の狭い空間の中において、そこで暮らす2人ないしは3人のバラバラな動線と行動が見て取れた。具体的に言うならば、妻が奥から正面に出て来る時、きまって夫は横の構図で動いていた。小津安二郎の映画のように、フレームの中にいる登場人物があたかも同じ動きを反復することはなく、横の構図と縦の構図をバラバラに用い、あたかも反作用的な動きが一つのフレームの中で散見される。それこそが黒沢清の旨味だったはずである。今作では意図的にも工場内の鎖に繋がれた男たちと、主人公たちとの距離が無限に引き伸ばされたことで、演出と運動の可能性も無限に拡がるのである。

これは横移動がとにかく多かった『消えない傷痕』と比べるとわかりやすい。今作においても、哀川と香川はお互い別々の動きをするのだが、明らかに哀川の縦の構図の歩みには空間的広さという概念が長所にもなるし、短所にもなりうる。それは香川の動きも同様で、この工場が通常のワンルームのような狭い空間ではない以上、そこに様々な表現と制約がもたらされるのである。当然黒沢はこの空間の動線に対して人一倍自覚的だったはずであり、その後の彼の作品では空間の膨張は避けられぬ事態となっていった。今作を含むVシネマ作品というのは、黒沢清と自作の距離の問題に対して、あまりにも有意義なヒントを与えることになったのではないかと推測する。

Vシネマにおいて当たり前だった2本撮りを成就するにあたり、監督である黒沢清は1本目の脚本を信頼する高橋洋に任せた。高橋に任せたシナリオは遅れに遅れ、自身が脚本した『蜘蛛の瞳』よりも大幅に遅れ完成した。そのシナリオのラストでは、工場から出て来た哀川翔が最後、トラックに轢かれ即死する流れだったらしい 笑。あまりにも残酷過ぎる高橋の脚本に助長を促した黒沢の英断が泣ける。あまり振り返りたくない陰惨な物語ながら、ミステリーの芯を外すユニークな構造、テレビによるフレーム内フレームの過激な使用など、黒沢らしさは前面に出ている。今回シネマヴェーラで再見し、16mmが35mmにブロウ・アップされたフィルム独特の質感を大いに楽しんだ。やはりDVDでは再現出来ない味わいがある。

名優・香川照之にとっては、今作が意外にも初の黒沢映画出演となった。この後も一番の刺激を与えてくれた現場として、数々のインタビューにおいて、この『蛇の道』の演技指導の思い出を語る。香川にとって、黒沢との出会いが、演技の骨子を作ったのは間違いない。私はこの人の2000年代以降の独特のクドさが苦手なのだが、台本を読んで自分の演技を作り込む完璧な俳優として、黒沢は香川を評価している。

#黒沢清 #哀川翔 #香川照之 #蛇の道

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