【第614回】『甘い罠』(クロード・シャブロル/2000)

 スイスの都市部、広大な海を臨む街では1組のカップルの結婚式が行われようとしている。永遠の愛を誓いますかという言葉に、はにかんだ表情を浮かべる40代の新婦ミカ・ミュレール(イザベル・ユペール)。その横には新郎で天才ピアニストと評されるアンドレ・ポロンスキー(ジャック・デュトロン)の姿。決して若くはない年齢に差し掛かった2人の結婚パーティ。かつて2人は青春時代に結婚し、明るい家庭を築こうとしたものの僅か数年で破綻。その後、ポロンスキーはミカの親友で、姉妹のような間柄だったリズベットと結婚し、息子ギヨーム(ロドルフ・ポリー)をもうけ、幸せな家庭を築いていた。だが幸福な時間は長くは続かない。リズベットはギヨームの10歳の誕生日、自らが運転する車で急カーブを曲がり切れずに即死。検死の結果、死体からはアルコールと僅かな睡眠薬が検出された。それから8年、ミカは亡き親友の想いを受け取ったかのようにポロンスキー家に出入りし、別れた亭主のボロンスキーとの再婚を果たす。市長(ヴェロニク・アラン)のおめでとうの言葉に、精一杯の強がりで返すミカ・ミュレールの表情はその言葉の割りに、不思議と幸福感に満ち満ちている。街の有力者との会食に流れた結婚パーティの席を、所在無さげに落ち着かない素振りを見せる息子ギヨームの姿。ミカは彼の肩に手を置き、そろそろお暇しようと声を掛ける。泣き母親が縁を取り持った3人の関係。市長は最後に広報課のカメラマンに幸福な3ショットをカメラに収めるよう要請する。フレームの中には、今日から新たな家族になる3人のどこかぎこちない笑顔が写っていた。

ルイーズ・ポレ(ブリジット・カティヨン)は親友ポリーヌ(イゾルデ・バルト)と高級レストランで昼食を食べながら、子供たちの到着を待っている。「延長戦でもやっているのかしら?」というスイス人らしい軽いジョークの後、子供たちの車がレストランに到着する。白いテニスウェアから伸びたキレイな足を披露するのは、ルイーズの一人娘ジャンヌ・ポレ(アンナ・ムグラリス)。18歳になった彼女は母の親友ポリーヌの息子アクセル(マチュー・シモネ)と付き合っていた。母親が法医学研究所の所長をしている縁で、未来のフィアンセ候補は悠々と母親の研究所にコネ入社を果たしている。アクセルがようやくやりたいことを見つけてくれて嬉しいと話すポリーヌの姿に、ルイーズも満ち足りた表情を浮かべる。午後は映画デートすると話す母親公認のカップルのために、ポリーヌは新聞の映画スケジュールを親切にも探すが、そこには市長が広報部に撮らせたアンドレ・ポロンスキーとミカ・ミュレールの再婚写真が載っている。うっかり口を滑らせたポリーヌは、ジャンヌ誕生の瞬間に起きた赤ん坊取り違い事件の顛末を面白おかしく話してしまう。若きピアニストのジャンヌは、亡父ジャンとアンドレ・ポロンスキーが赤ん坊を取り違えたという疑惑を聞き、ポロンスキーに逢いたい衝動に駆られる。ルイーズから車のキーを借りた18歳の少女は、自分の本当の父親はポロンスキーなのではという疑念に胸のときめきが抑え切れない。ポロンスキー一家がギャラリー内で歓談する様子を、ウィンドウの外から見つめるジャンヌの姿。彼女の視線は新婦ミカ・ミュレールと偶然の交差を果たす。好奇心に片足を突っ込んだ少女ジャンヌの想いはもはや止められない。シャブロル映画らしいブルジョワジー家族の静かな崩壊が幕を開ける。

ようやく幸せになれたはずのミカの女心を、図らずもジャンヌの好奇心がいとも簡単に切り崩す展開には戦慄が走る。当初「病院のジャンヌ・ポレ」と息子ギヨームに言付けしたジャンヌの想いは一旦は門前払いを食らうものの、そんな事にへこたれるジャンヌではない。18歳の直感はポロンスキーという絶対的父性を無我夢中に追い求める。ポロンスキーは初めてジャンヌに会った時、彼女から香る亡き妻リズベットの面影に打ち震える。息子ギヨームは父親の音楽的感性をまるで受け継いでいない。父親がピアノの練習をする側で、クラシックに興味が持てずにゲームボーイをやるギヨームの描写は、まるで『女鹿』のまったく芸術の才がないフレデリーク(ステファーヌ・オードラン)と生粋の芸術家であるホワイ(ジャクリーヌ・ササール)の相克関係を想起させる。突然ジャンヌが現れたことで、全ての自信を打ち砕かれる(去勢される)ギヨームの描写は、『二重の鍵』の長男リシャール(アンドレ・ジョスラン)をも想起せずにはいられない。突然現れた小娘に幸せな新婚生活を奪われたミカ・ミュレールの哀れ。ピアノ・ルームで親しげに話すポロンスキーとジャンヌの会話を、居間に置かれたソファーで毛糸を編みながら聞き耳を立てるもう若くはない妻の激しい苛立ちと嫉妬。情念の嵐は明確な殺意となり、女という生き物を狂気に走らせる。ジャンヌがオーディションで弾くフランツ・リストの『葬送曲』の烈しい調べに呼応するようなミカ・ミュレールの殺意。毒を盛るという古典的な手法が因果応報の結末に至る時、女の目には涙が光る。当時46歳だったイザベル・ユペールは『主婦マリーがしたこと』、『沈黙の女/ロウフィールド館の惨劇』以上の悪女ぶりを見せつけながら、陰惨な結末に向かってひた走る。チョコレート会社の女社長が入れるココアは、甘さと同時に苦味さえも含む。あえて魔法瓶という道具立てを施すシャブロルのアイデアが残酷で容赦ない。

#クロードシャブロル #イザベルユペール #ジャックデュトロン #ロドルフポリー #アンナムグラリス #ブリジットカティヨン #イゾルデバルト #甘い罠

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?