【第411回】『不安は魂を食いつくす』(ライナー・ヴェルナー・ファスビンダー/1974)

 強い雨が降りしきる夜、雨宿りのために老婆はある酒場に立ち寄る。ドアを開けた瞬間、奥のカウンターから老婆に向けられた好奇の目。ここはミュンヘンの大通りに位置しながらも、モロッコ移民たちが夜な夜な屯ろする酒場であり、BGMにはモロッコの流行歌が流れている。老婆はその様子にぎょっとしながらあえて奥のカウンターには座らず、入り口のドアのすぐそばにある丸テーブルに陣取る。奥から注文を取りに来た愛想のない女店主にコーラかビールかと聞かれ、コーラを選択した女は、この空間を一刻も早く立ち去りたい気持ちに駆られている。奥のカウンターでは女が黒人の男をベッドに誘うが、男は立たないからダメだと一蹴する。自らの勃起不全を臆面もなく堂々と話す男はジュークボックスの曲を変えて、ゆっくりと老婆の後ろへと周り込みながら、彼女の左側に立ったところで「一緒に踊りませんか?」と優しく声をかけるのである。こうして年老いた女と勃起不全の移民男性とは偶然出会ってしまう。

モロッコ人男性はダンスにエスコートするような優しさをもって、老婆を大雨の降る中、家まで送ることになる。おそらく60歳を超えているだろう年老いた女はさっきまでは今にも酒場から飛び出したい衝動に駆られていたが、男のエスコートに満更でもない素振りを見せる。部屋に上がってコーヒーでも飲んだらという大胆な誘い方が出来るのも、夫と死別し、3人の子供を育て上げたことから来るある種の達観に違いない。彼女はそこでポーランドから右も左もわからないドイツへ来た際の苦労話を同じくモロッコから来た男に話しかけるのだが、男の表情は今ひとつ冴えない。理由を聞けば明日は早朝から仕事があり、今すぐに帰らなければ終電に間に合わないんだと話す男に対し、老婆は「泊まっていけば」と声をかけるのである。2人は酒場で踊ったチーク・ダンスでお互いの気持ちを感じ取り、男は何と出会ったその日に老婆の部屋に宿泊する。男は眠れないと言いながら彼女の寝室のドアを勢いよく開けることになる。ファスビンダーはあまりにも通俗的で昼ドラのような物語の中に、2人のありえないような運命の出会いを滑らかな絹糸のように丁寧に描写するのである。難民問題やドイツ人の強烈な人種差別の主題は初期の『出稼ぎ野郎』の頃からその萌芽は見られたものの、その表現形式の平易なメロドラマ化にはかつての面影は見るべくもない。

降って湧いたような男女の恋。それは身分も人種も階級もライフスタイルも年齢すらも違う男女の恋であり、その差異がたちまち2人の間に障壁となって立ち現れる。老婆の暮らすアパートメントの住民たちの好奇の目、管理人の息子の忠告、常連だった向かいの商店の店主の嫌がらせ、彼女の働く掃除婦の職場での迫害。冒頭、明らかに階級の違う寂れた酒場で向けられた好奇の目が、日常に溶け込もうと努力する老婆と黒人男性をなかなか溶け込ませてくれない。肌の色の違い、年老いた女が若い男と付き合うことへの軽蔑・嫉妬、あらゆる感情が入り乱れた他人様の衆人環視の目は、老婆が手塩にかけて育てた息子たち、娘をとっても例外ではない。ここでふいに登場した娘クリスタ(イルム・ヘルマン)とその夫オイゲン(ライナー・ヴェルナー・ファスビンダー)により、徐々に変調をきたしていくファスビンダー劇場が幕を開ける。まだ30代40代の若さで再婚ならば、ある程度納得出来たかもしれない子供たちは、母親に緊急会議の名目で招かれた部屋で、彼女が大病を患ったのだと邪推している。そこにドアを開けて入ってきた背の高い黒人の男性を見た時、子供たちは呆気に取られた表情でその事態をただ見守るしかない。ここでの息子の極端な逆上ぶりが鮮烈な印象を残す。彼は母親の態度に激昂し、脚でブラウン管テレビを破壊する。そのヒステリックな行動にはファスビンダーの分裂気味な心情が顔を覗かせている。

言うまでもなく今作はトッド・ヘインズが『エデンより彼方に』でリメイクしたダグラス・サークの『天はすべて許し給う』を下敷きにしている。ファスビンダーのダグラス・サーク愛はアンチテアター解体後の71年に始まり、1本の論文を書き上げ、当時ルガーノの別荘で悠々自適の生活を送っていた伝説の名監督に直接会いに行き、何時間にも渡ってインタビューをするほどサークの映画に惚れ込んでいた。『四季を売る男』以降、何度も繰り返された愛と搾取の二重構造はここでも健在である。周囲の差別には屈しない姿勢で一緒になったはずの、身分も人種も階級もライフスタイルも年齢すらも違う男女が、彼らを取り巻く差別的な視線に神経をすり減らし、最後には2人の関係性までをもボロボロにしていく。その中でも異彩を放つのは、彼女たちが中盤訪れたかつてヒトラーも愛した高級レストランでの光景だろう。一番高い料理を注文した2人は、注文が通ったことの安堵感からしばしその場にフリーズし、それぞれに虚空を見つめている。その光景を隣の部屋からドアフレームを通してロング・ショットで据えた画面の何とも言えない冷徹な眼差しを今でも忘れることが出来ないでいる。差別を助長しているのは、自らの自尊心に過ぎないとようやく気付いた2人の永遠の愛の先には、更なる困難が待ち構えているのである。

ケフケフなのかクスクスなのかはともかく、徐々に無気力になり、憂鬱な表情で窓の外を見つめるようになる黒人男性の描写はまるで『四季を売る男』の主人公を反復したかのようだ。その後繰り広げられる裏切りの情事、家に帰ろうとしない夫の描写はファスビンダーの専売特許であろう。だが唯一『四季を売る男』と違うのは、黒人男性は老婆を暴力で支配しようとしないのである。彼は自分がしんどくなったら、元カノで酒場の女店主の元に寄りかかる他ないのである。ケフケフと叫びながら、大好物であるクスクスを頬張る男にとって、酒場の女主人が提供してくれる空間だけが唯一の憩いの場になるのである。彼を職場まで追いかけて、ただ家に帰ることを求めたヒロインはクライマックスでもう一度、冒頭の雨宿りのために立ち寄った酒場のドアを開ける。ここで初めてメロドラマにおける「反復」と「差異」とが繰り広げられるのである。愛の誕生と破壊を下敷きとしたメロドラマはここに来て再生の主題を迎えることになるが、皮肉なことに『四季を売る男』のように、夫の身体を病魔が襲うことになる。ファスビンダーと言えば救いのないラスト・シーンが待ち構えているが、今作のラスト・シーンはそれらとは少し趣を異にする。

余談になるが、今作でモロッコ人移民を演じたアリ(エル・ヘディ・ベン・サレム)は当時のファスビンダーの同性愛パートナーであり、かけがえのない存在だった。モロッコ出身の彼をパリのゲイ向けサウナで見つけたファスビンダーはすぐに一目惚れし、求愛しミュンヘンへと連れ帰る。俳優でもなく、ドイツ語も話せない黒人男性を初めて自らの映画の主役級の役柄で出演させたのが今作であった。だがサレムには酒乱の傾向があり、今作完成後に呑み屋で酔って暴れた男は3人の男性を次々に刺し、指名手配された男は逮捕を恐れてすぐさまドイツを離れた。ファスビンダーに許可も取らず、フランスへと逃げるように去っていく。結局フランス当局に逮捕されたサレムは独房で自殺する。後に彼の独房での最期を知ったファスビンダーは強い衝撃を受け、遺作「ケレル」を亡き最愛の男だったエル・ヘディ・ベン・サレムに捧げている。かけがえのない友人でありパートナーを突然失ったショックから、ファスビンダーは徐々に麻薬へと手を染めていく。このことが後に悲劇を迎えることになるとは当時はまだ誰も知らない。

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