【第674回】『スター・ウォーズ エピソード6/ジェダイの帰還』(リチャード・マーカンド/1983)

 前作で冷凍人間にされたハン・ソロ(ハリソン・フォード)は、タトゥーイン星の砂漠に要塞をかまえるジャバ・ザ・ハットのところに飾られていた。C-3PO(アンソニー・ダニエルズ)とR2-D2(ケニー・ベイカー)が、ジャバ・ザ・ハットを訪ね、ハン・ソロとロボット2体を交換したいというルークの申し出を告げる。しかし、相手にされず、奴隷の身に。同じ頃、1人の賞金稼ぎが、チューバッカ(ピーター・メイヒュー)をつれてきて、ジャバ・ザ・ハットに渡す。その賞金稼ぎは実はレイア(キャリー・フィッシャー)だった。彼女はハン・ソロを救出するが、見つかってしまう。ルーク(マーク・ハミル)も現われて、ジャザ・ザ・ハットの前で旧知のメンバー全員が再会を果たす。シリーズ旧3部作の完結編にして、トリロジー9部作の6作目。前作でダース・ベイダーの息子であるという衝撃の事実を告げられたルークは、瀕死の重症を負う。マスター・ヨーダの修行を完全に習得していなかったルークにとって、ダース・ベイダーのフォースはあまりにも強過ぎたのである。最後にレイア姫と互いに愛の言葉を告げたまま、ハン・ソロも冷凍人間にされており、今作はまず彼の救出作戦で幕を開ける。監督に起用されたのはリチャード・マーカンドという英国の監督である。前作においてジョージ・ルーカスは職人監督アーヴィン・カーシュナーを起用するも、彼とは映画のビジョンを巡りことごとく対立した。リチャード・マーカンドは英国製サスペンスに定評がある監督だった。

 1作目の『新たなる希望』において最高の名シーンだった獣たちのJAZZ演奏シーンに触発され、再度登場するが、演奏シーンはSFというよりもむしろファンタジーの意味合いを強調する。当初、C-3POとR2-D2が2体で行動する様子も、『新たなる希望』の変奏のように聞こえる。だがジャザ・ザ・ハットと交渉が決裂したのち、巨大食虫植物と繰り広げるアクションも当時流行した子供向けファンタジーの意匠を導入する。1作目の『新たなる希望』の撮影時は1977年で、この手のSFジャンルでは圧倒的に先端を行っていた物語設定だったが、今作が製作された83年にはもう既にリドリー・スコットの『エイリアン』やスピルバーグ『レイダース/失われたアーク』が既に世に出ていた頃であり、仕掛けそのものもアクションの骨格もそれらと比べるとかなり弱い。修行を終えるため惑星ダゴバに戻ったルークは、死の床にあった師ヨーダと霊体として現れたオビ=ワン・ケノービから、ダース・ベイダーの正体がかつての彼の父アナキン・スカイウォーカーであること、さらにもう一人のアナキンの子供――レイアが妹であることを知らされる。その事実が後にルークのフォースを乱すことになる。1作目の『新たなる希望』から常にジェダイの騎士達を圧倒的なカリスマ性で指揮してきたマスター・ヨーダが、900歳となり遂に命が果てようとしている。

 クライマックスのルークとダース・ベイダーの父子対決は今作の最大の見せ場であるが、皇帝パルパティーンがルークを暗黒面に引きずり込もうとする演出がどうも空回りしている。父子の戦闘シーンのショットのつなぎも、クローズ・アップ主体のわかりやすい構図にしようとすればするほど、残念ながらアクションそのものの緊張感は薄れてしまう。そもそもダース・ベイダーの顔のクローズ・アップはあくまで仮面であり、素顔ではない。それにカメラがどれだけ寄ろうが、そこから表情は伝わることはない。リチャード・マーカンドという人は、ジョージ・ルーカスやアーヴィン・カーシュナーと比べて決定的にアクションが不得手であり、それが感動的なフィナーレとなるはずのクライマックスを妨げている。最後の火葬の場面もあれで良かったのかと何度観直しても思う。キャリー・フィッシャーの化粧は80年代に突入し、よりモード色の強いメイクは当時の時代が偲ばれる。一瞬だけ登場するスレイブ・レイアの萌え要素皆無のメタル・ビキニも、今となっては随分微笑ましい 笑。『スター・ウォーズ』シリーズの生みの親であるジョージ・ルーカスは旧トリロジーの結びに当たる今作の監督に、大親友であるスティーヴン・スピルバーグを指名した。しかし全米監督協会と喧嘩別れしたルーカスはスピルバーグを起用することが叶わず、代わりに英国人監督リチャード・マーカンドを起用せざるを得なくなった。「父性の不在」をモチーフとするスピルバーグならば、ダース・ベイダーの最期をどう描いたか興味は尽きない。

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