【第508回】『疑惑のチャンピオン』(スティーヴン・フリアーズ/2015)

 切り立った崖の急カーブ、そこに作られた急こう配な上り坂を走る男の神々しいまでの背中。偉大な競技ツール・ド・フランスは真夏のフランスを23日かけて一周する世界最大の自転車レースとして知られている。映し出される過去のツール・ド・フランスのハイライト映像、まるでモーター・スポーツのような多重クラッシュ。総距離3000kmを走りきった者だけがチャンピオンの称号を得る。1993年フランス、若き注目選手ランス・アームストロング(ベン・フォスター)に初めてインタビューする英国のサンデー・タイムズ紙の記者デイヴィッド・ウォルシュ(クリス・オダウド)の姿。テーブルサッカーを楽しみながら次々にランスの核心を突く言葉を導き出すウォルシュの問い。しかしランスは目の前のゲームに夢中で、ほとんど無意識に言葉がついて出る。こうしてウォルシュはランスの本音を聞き出すことに成功したが、テーブルサッカーに負けたら髭を剃るという公約を実行させられる。ランスのふてぶてしいまでの虚栄心、本能的生意気さ、勝利への野心。この頃から、勝負となると異常な執着を見せるランスの人物像が垣間見える。だがその飽くなき野心は諸刃の刃ともなり得る。その年のツール・ド・フランス、下馬評ではランス有利とされていたレースで、ゲビスバラン・チームの3名が圧倒的大差を付け、表彰台を独占する。この勝利に対し、禁止薬物エポ(エリスロポエチン)なしでは成し遂げられないはずだとして、自分もエポに手を染める。スイスの薬局の場面、チームメイトがエポの購入に躊躇する中、苛立つ男は笑みを浮かべながら、仏語で店員と話し、あっさりとエポを手にいれる。この時の悪魔のような冷徹な表情が印象深い。この瞬間、ランスはある一線を越えてしまう。

この場合のある一線とは何か?ランスが話していた言葉の中に「身体的には劣るが、大切なのはそれを上回る心、魂、根性」だと語る一節がある。この精神こそが本来あるべき健全なスポーツマン・シップであり、競技の根幹を成す言葉であることは云うまでもない。ランスは勝負に勝つために、王者になるために、この越えてはならないある一線を躊躇なく踏み越えてしまう。エリスロポエチンには主に赤血球を増やす働きがある一方で、血管内に血栓を作るリスクを同時に孕んでいる。エリスロポエチンやステロイドなど、禁止されている薬物を常日頃投与し続ければ、心血管疾患、精巣の萎縮、ホルモン・バランスの異常により、時に命を奪われる危険性もある。ランスもエポを投与し続けた副作用により、風呂場で吐き出した唾が真っ赤な血に染まっている。それでも勝つためにエポを使い続けた男は、25歳の時、精巣癌に侵される。この時ステージ3段階のうち、ランスのステージは3だった。生存率50%とも言われる精巣癌から寛解し、生き永らえただけでも奇跡のはずだった。普通はここで競技に復帰しようとは思わない。しかしランスは筋肉量が衰えた身体を必死にリハビリし、今度は巧妙なエポ摂取の助言をイタリア人医師ミケーレ・フェラーリ(ギヨーム・カネ)に求めるのだから呆れ果てる。一度は神様に救われ、もう一度歩き出したかに見えた神聖な身体を、またも悪魔に捧げようとするランス・アームストロングの狂気は、再度危険なある一線をも踏み越えてしまう。相変わらずダニー・コーエンのカメラとヴァレリオ・ボネッリの編集があまりにも素晴らしい。時に自転車に備え付けられたカメラの運動と、追跡するトラックに乗せられたクレーンによる迫力のカメラワークを完璧につないでいる。大英帝国の巨匠スティーヴン・フリアーズの演出もあえて気を衒わず、手堅さに終始する。その手堅さこそが、真実を手繰り寄せるフリアーズの老獪な魅力に他ならない。相変わらずRamones、The Lemonheads、Primal Screamらを使用した劇伴も勝負の世界を盛り上げる。

時にどんな手段を使っても、勝利に執着する常人には計り知れない狂気を持ったランス・アームストロング。彼に扮したベン・フォスターがただただ素晴らしい。極端に腰を落とし、背中を丸めたランス・アームストロング独特の乗車スタイル、その乗車ポジションやペダルストロークの癖まで、見事なまでにランスの造形を再現している。精巣癌を克服した後、慈善活動にオピニオン・リーダーとして参加した際の笑顔の奥にある一つも笑わない瞳。まるでサイコパスのような狂気そのものを宿した救い難い男の悲しい末路。7連覇の栄光の裏に隠された醜い真実。稀代の人たらしとしての詐欺師的才覚、「STAP細胞はありまぁす」の小保方晴子のように、平気で嘘をつける人間の中に潜むサイコパス性。引退後の彼は精一杯の言葉で自らのキャリアを守り、理路整然とした言い訳の言葉を並べ立てる。永久追放前に製作されるはずだったランス・アームストロングの自伝的実写映画。彼は当初マット・デイモンが演じるはずだった役柄がジェイク・ギレンホールに代わってしまったことに落胆する。ランス・アームストロングの影に呼応するかのように、中盤現れたフロイド・ランディス(ジェシー・プレモンス)の孤独と哀れが一層胸を締め付ける。厳格なメノナイトの家庭に育ち、正義とは正しい行いをすることだと教えられた男の前に現れた悪魔に魂を売った男。その巨大な悪に染め上げられ、自らも悪魔に手を染めた瞬間起こる残酷で絶対的な悪魔同士の距離。勝利を手にし、世界的名声と億単位の金銭が転がり込み、やがて取り巻きの数は雪だるま式に増えて行く。そうなると個人競技とはいえ、団体競技さながらの闇が渦巻く。ツール・ド・フランスだけではなく、このことは全てのスポーツにおいてドーピングの悪魔が潜んでいることの証となる。オリンピックでもW杯でもMMAでも、第二第三のランス・アームストロングは再び現れるかもしれない。

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