【第291回】『イングロリアス・バスターズ』(クエンティン・タランティーノ/2009)

 クエンティン・タランティーノの25年にも及ぶフィルモグラフィを俯瞰で眺めた時、一番危なっかしく思うのは間違いなく『キル・ビル』前後編であろう。デビューから順風満帆に見えた彼のキャリアが『ジャッキー・ブラウン』で思うように立ち行かなくなり、数年の停滞の後、21世紀に入って『キル・ビル』を撮る。その間彼が何をしていたかと言えば、世界のシネフィルとしての立派なプロパガンダと、盟友ロバート・ロドリゲスの補佐としてのプロデュース・ワークである。

アメリカには監督もプロデューサーもするスティーヴン・スピルバーグという物凄い偉人がいる。この人のメーターがプロデューサーか監督かどちらか一方に振り切れることはまずない。スピルバーグの凄いところは、もはや映画なんか撮らなくても大丈夫なほどの億万長者でありながら、数年に一度、映画監督として自らのフィルモグラフィの豊かさを維持し続けていることである。それとは対照的にフランスには自分の才能の限界に早々と見切りをつけ、プロデューサーとして辣腕を振るうリュック・ベッソンという男もいる。

『ジャッキー・ブラウン』以降のタランティーノも、このプロデューサと監督の狭で揺れていたに違いない。デビュー作『レザボア・ドッグス』の世界の批評家筋の絶賛があり、2作目『パルプ・フィクション』でパルムドールを採り、脚本を務めた『トゥルー・ロマンス』や『ナチュラル・ボーン・キラーズ』や『クリムゾン・タイド』は大ヒットし、90年代中盤まではまさに向かうところ敵なしの快進撃が続いていた。そこに来て自信満々で挑んだ『ジャッキー・ブラウン』が商業的にも批評家筋にもコケ、初めて大きな挫折を味わったはずである。

その挫折の後の大きく揺らいだ自信というものが、『キル・ビル』の画面からはありありと感じ取れる。観客に対して、批評家に対して、日本映画や香港映画に無邪気にオマージュを捧げているように見えるが、実はアメリカ映画に真正面から向き合っていない。どこかちぐはぐな印象を特に前編である『キル・ビル』から感じるのである。vol.2ではその精神的トラウマからのリバビリがある程度上手くいって、徐々にタランティーノらしさが見られたものの、彼の長所でも短所でもある冗長な台詞回しはすっかりなりを潜めてしまった。

だが結果的に、恐る恐る撮った『キル・ビル』前後編が、自信満々で撮った『ジャッキー・ブラウン』よりも興行的に遥かにヒットを収めたことで、タランティーノはこれでいいんだと息を吹き返すことになる。もしあの時『キル・ビル』が興行的に惨敗していたら、間違いなくタランティーノのキャリアは今とは別の方向に向かったはずである。その後の『デス・プルーフ in グラインドハウス』の肩に力の入っていない真に痛快な面白さは、明らかに『キル・ビル』大ヒットの余波に乗って製作されたものである。それから2年後、今作の登場である。

『イングロリアス・バスターズ』は監督8作目にして、エンツォ・カステラッリのイタリア映画である『地獄のバスターズ』のリメイク作品である。1941年、フランスの田舎町ナンシー。ナチスのハンス・ランダ大佐(クリストフ・ヴァルツ)が、ある農場主の家を訪れる。“ユダヤ・ハンター”の異名を持つ冷血漢ランダは、巧妙な話術で農場主を追い込み、床下にユダヤ人一家を匿っていることを白状させる。ランダの部下たちは床下に向けて一斉に射撃を開始。だが、一家の少女・ショシャナ(メラニー・ロラン)だけは銃弾を逃れ、逃げ去る。

冒頭、畑仕事をしている農場主の後ろに、2台の車がゆっくりと近づいてくる。その気配を感じた農場主は、女たちに家の中に入るよう命令する。男は不安を隠すために、一人の女に水を汲んでくれと伝える。女は水を汲んで農場主に渡すと、お前も中に入っていなさいとたしなめるようにつぶやくのである。やがて明らかに農場主の家の前の道に停まった車から、1人の男が出て来て、農場主に親しげに語りかける。農場主は屋敷に入れることなく、その場で立ち話で帰す腹づもりだったが、その希望はあっさりと大佐の巧妙な話術によって覆される。屋敷に入ると、大佐の口ぶりは一層巧妙になり、レア・セドゥらユダヤ人たちの目は明らかに怯えている。おそらくこの農場では、主人が女たちを一手に匿い、男手がない中、何とか生活してきたはずである。だがそんな大黒柱の逞しさよりも、遥かに力のある大佐の悪知恵は、やがて農場主を追い詰め、一切を白状させることになる。

第1章と題されたこのシークエンスのシリアスさには、文字通り目を見張る。時に軽妙なやりとりに逃げていたタランティーノの映画が、ここに来て明らかにシリアスな雰囲気を讃えていることに誰もが驚くはずである。農場主の靴から、やがて屋敷の地面の底には二重に敷かれた空間があることを観客に開示する。そこには先ほどの女たちが、農場主の弁論の勝利を信じて、祈るような気持ちで隠れている。ここでも『キル・ビルvol.2』同様に、横になる女性のイメージが浮かび上がるのである。だがその願いも空しく、彼女たちは無残にも殺されてしまう。そこで1人残ったショシャナ(メラニー・ロラン)という少女を、ランダ大佐(クリストフ・ヴァルツ)は無理に殺そうとしない。そのことが後に決定的な災いをもたらす羽目になるのである。

今作はジャンル映画としては「戦争映画」に違いない。ナチス占領下のフランスを舞台に、バスターズと呼ばれる連合軍側の秘密部隊と、“ユダヤ・ハンター”の異名を持つ冷血漢ランダ、そしてランダ大佐に幼少時代、家族を皆殺しにされたことで、ナチスへの復讐に燃える若いユダヤ人シャシャナの三つ巴の攻防を描いている。しかしながらここで描かれているのは、ナチスvsフランス軍の戦争そのものではないし、史実としての第二次世界大戦でもない。これまでのクエンティン・タランティーノのフィルモグラフィと同様に、実は何てことない「裏切りと復讐」の主題が繰り返されているのである。

若いユダヤ人であるショシャナ(メラニー・ロラン)は、フランス人ミミューに改名し、映画館主としてユダヤ人であることを隠しながら生活する。彼女はドイツ軍の迫害のトラウマを常に抱えて生きているが、あろうことか250人もの連合軍兵士を殺したドイツ軍の若い兵士で英雄であるフレデリック(ダニエル・ブリュール)という兵士に惚れられたことで、若き日の傷が再び疼くのである。このシャシャナとフレデリックの出会いの場面が何とも言えず素晴らしい。彼女はレニー・リーフェンシュタールの山岳映画を上映し、ドイツ映画特集の看板を付け替えているところに、フレデリックに声をかけられる。意図しない出会い、残念な出会いと言えばいいのだろうか?しかしその出会いがやがて彼女に復讐の機会を与えることになる。

タイトルでもある“イングロリアス・バスターズ”はシャシャナの復讐とは別に、ナチス総統ヒトラー(マルティン・ヴトケ)を苛立たせる。ユダヤ系アメリカ人を中心にしたこの組織を率いるのはアルド・レイン中尉(ブラッド・ピット)。カリスマ的な指導力を持つ彼はナチスの皆殺しを指示、ドニー(イーライ・ロス)やヒューゴ(ティル・シュヴァイガー)といった血気さかんな部下たちと共にドイツ軍に恐れられていた。彼らは時に「拷問」も厭わない残忍さで、ナチスの青年将校たちを次々に殺していた。ここでのブラッド・ピットと仲間たちの振る舞いは明らかに狂気じみている。ここでも『レザボア・ドッグス』のマイケル・マドセンの警官への拷問の場面からタランティーノが繰り返し描いてきた直視出来ない拷問のモチーフが登場する。

今作を最も特徴づけているのは、何気ない無駄話の質的変化であろう。流石に第1章の荘厳なショットの並びと役者たちの緊迫したやりとりほどではないが、今作では卓を囲む人間たちのやりとりが、そのまま生死に関わる重要な問題に直結する。例えば、英国の二重スパイでドイツの人気女優ブリジット(ダイアン・クルーガー)にバーで接触する場面、ここでは卓を囲む男女がゲームに興じるが、一人のドイツ人の疑惑によって、一触即発の雰囲気を醸し出しているのである。彼が気付いたのは、独特のイントネーション(訛り)であり、それはその土地に生活する者にとっては、本物と偽物を分かつリトマス試験紙にもなり得る。彼女たちは一見、馬鹿話をしているように見えるが、実際にはその質はある意味、銃撃戦以上の緊迫感を生んでいるのである。

それは終盤、映画館のロビーでの、イタリア人を偽装したブラッド・ピットたちと、クリストフ・ヴァルツのやりとりも例外ではない。彼らは一見、中身のない無駄話をしているように見えて、必死に相手のボロを探り出そうとしているのである。いや、クリストフ・ヴァルツは明らかにこの男たちが嘘をついていると見抜いている。彼は第1章の農場主との対話と同じように、この場の駆け引きに勝っているのである。しかし敵は彼ら一組ではなく、三つ巴の攻防に含まれていることを、残念ながらクリストフ・ヴァルツは知る由もない。

クライマックスのナチスのプロパガンダ映画を観て大笑いするヒトラーとゲッペルスのやりとりは、だいぶ誇張されたエンターテイメントに帰する。この手癖は、ヨーロッパ映画の作家やアメリカ系ユダヤ人の作家には絶対に真似出来ない芸当である。ラストの爽快さは、チャールズ・チャップリンの『独裁者』やフリッツ・ラングの『死刑執行人もまた死す』と並ぶような高揚感を我々観客にもたらすことになる。ラスト・シーンの爽快さをもたらすのは、何も数発の銃声でも後の粛清でもなく、焼け焦げたフィルムなのである。この映画的奇跡は真に見逃せない。

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