【第480回】『サウスポー』(アントワーン・フークワ/2015)

 椅子にこしかけ、トレーナーにバンデージを何重にも巻いてもらう1人の男。ヘッドフォンをし、無駄な外界の音をシャットアウトし、目の前の試合に向けて集中力を高めている。その姿を見つめるコミッショナーの厳格な管理体制。後ろではジムの仲間たちが誇らし気に黒・緑・赤のベルトを肩にかけている。男の名は世界ライトヘビー級チャンピオン・ビリー・ホープ(ジェイク・ギレンホール)。この試合に残る1本のメジャー団体のベルトが懸かっている。ボクシングの聖地、マディソン・スクエア・ガーデン、扉を開けると超満員の観客の歓声が聞こえてくる中、男はいままさに戦場に向かう。その最後の一瞬、彼の頬を手繰り寄せ、しっかりと抱き合う美しい妻モーリーン(レイチェル・マクアダムス)の姿。額を合わせ、祈るように見つめる妻の視線。何も言葉を交わすことなく、男は世紀の統一戦のリングに上がる。試合はあっという間の10R、まさかの劣勢に立たされ防戦一方の男は、起死回生の一打で奇跡の逆転勝ち。見事、WBA、WBC、 WBO、IBFの主要4団体統一王者となる。その戦績は43勝無敗。輝かしい富と名誉と栄光を手にしながら、実際の彼の身体のダメージは言うまでもない。控え室ではいつまでも出血が止まらない。それは相手と打ち合うことを信条とする彼のファイト・スタイルに起因する。その過激なスタイルは、フロイド・メイウェザーJr.のようなディフェンス主体のボクシングとは真逆であり、王者は統一したものの、妻の気苦労は絶えない。豪邸で両親の帰りを待つ10歳の娘レイラ(ウーナ・ローレンス)の寝たふり。最愛の妻と娘に囲まれた何不自由のない幸せな暮らし。そんな幸せな日々が永遠に続くものだと信じている。

ボクシング映画と言えば、『ロッキー』『レイジング・ブル』『非情の罠』『ALI アリ』『ミリオンダラー・ベイビー』『シンデレラマン』『ザ・ファイター』など数え上げたらキリがないほど、映画史に燦然と輝く名作がある。直近では『ロッキー』のリブートの『クリード チャンプを継ぐ男』があったが、今作の一向に父親になれない男の物語は、フランコ・ゼフィレッリ『チャンプ』にもっとも肌触りが近い。最愛の妻の死、初めての敗戦、娘との引き裂かれた絆。ビリー・ホープが幸せの頂点にいるのは冒頭のほんの数分だけで、あとは苦々しいまでの人生の苦境に主人公は身を置く。『クリード チャンプを継ぐ男』はフィラデルフィアの片田舎で、これから世界を目指す男の順風満帆な成長物語を描いていたが、今作は王者の転落劇に端を発する。彼にとっては妻モーリーンが全てであり、喧嘩っ早い性格も家事も子育ても何から何まで任せていたからこそ、世界チャンピオンにまで昇りつめることが出来た。その絶頂の瞬間に最愛の妻を失い、夫は酒に溺れる。泡のように膨らんだ借金、10年来のプロモーターであるジョーダン(50セント)との不和、ニューヨークの夜景の綺麗な大豪邸での暮らしはすぐに暗礁に乗り上げる。主人公こそ白人だが、メンターとなる新たなトレーナーにティック・ウィルズ(フォレスト・ウィテカー)、養護施設の事務員にアンジェラ・リベラ(ナオミ・ハリス)、前記のようにジョーダン(50セント)と主要なキャストを黒人で固めたのが黒人監督アントワーン・フークワらしい。心なしか「What the fuck!」「motherfucker」「Bullshit」などのスラングもあからさまに多用されている。『チャンプ』の愛らしかった息子とは違い、今作では娘役のウーナ・ローレンスの大人顔負けの存在感が素晴らしい。特に天国で見守るモーリーンの代わりに、ビリーを鼓舞し、10歳にして勝利の女神さながらに、モニター画面で父親の戦況を見つめる姿に目頭が熱くなった。

今作で主人公が主戦場とするライトヘビー級は、全17階級中、重い方から数えて3番目の階級に当たる。一般的に見れば、ライトヘビーはヘビー級の下だと思うかもしれないが、間にクルーザー級が来てその下になる。現実にはセルゲイ・コバレフというロシア人がWBA・IBF・WBOのベルトを統一し、WBCのベルトはカナダのアドニス・スティーブンソンが防衛記録を続けている。数年前は「宇宙人」の名称で親しまれた大ベテラン・バーナード・ホプキンスが快進撃を続けたものの、コバレフに壮絶に敗れた。かつてのカナダ1強の時代は終わりを告げ、スーパー・ミドル級から1階級ウェイトを挙げたアンドレ・ウォードとコバレフとのアメリカ・ロシア頂上決戦が待たれる。彼らライトヘビー級戦線を普段からよく見ているボクシング・ファンの目線で言えば、ジェイク・ギレンホールやライバルたちのパンチはスピードもキレも今ひとつだが、何よりもギレンホールの見事なシックスパックの割れ方には見惚れる。ギレンホールと言えば、デビュー当時は線が細い若手俳優だったが、『ゾディアック』以降、役になりきる狂気と粗暴さには度々魅了されてきた。『プリズナーズ』や『ナイトクローラー』を経て、ゆっくりと破滅していくヒーローをひりつくような焦燥感でしっかりとモノにしている。183cmで極限まで体脂肪を絞ると、あの鋼のような肉体になるのだ。あとは長年ファンが気になっていたフォレスト・ウィテカーの眼瞼下垂問題。それを堂々と疲れ切った役柄のヒントに持って来たのには恐れ入る。カメラワークも無駄に接近し過ぎるハンディカムの動きの中に、しっかりと固定カメラのショットが盛り込まれ、決定的な瞬間は男と男の拳と拳のぶつかり合いを表現している。アクション・シーンに付随する大袈裟な音も現代では致し方ないところだし、2000年代に入り、毎年ボクシング大作が作られ続ける中で、新しいカメラワークを見つけるのは容易なことではない。タイトルに込められた意味にはなるほどと感心させられたが、それが世界戦レベルで有効なのかはわからない 笑。そもそも統一王者レベルの人間が、アマチュアのコーチに教えを請うたところでどうなんだという問題はボクシング・ファンとしては大いにあるが 笑、重箱の隅をつつく暇なく安心して観られるエンターテイメント大作に仕上がっている。

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