【第344回】『宇宙戦争』(スティーヴン・スピルバーグ/2005)

 冒頭、労働者のレイ(トム・クルーズ)という男が、どこかに小走りに向かう様子が映し出される。次のシークエンスで彼は約束の時間に遅れ、その姿を半ば呆れつつ見つめる1人の女性がいる。どうやらレイはこの女性と別れ、2人の子供達、長男のロビー(ジャスティン・チャットウィン)と幼い娘レイチェル(ダコタ・ファニング)と束の間の再会をしているらしい。別れた妻がボストンの実家に向かう間、親子3人の束の間の時間が始まろうとしている。今作は9.11以降の父性の欠如による強いアメリカの喪失と、もともとスピルバーグ作品の根底にある父性の欠落とを巧妙にシンクロさせる。『フック』では息子の野球の試合に間に合わなかった企業戦士の父親が描かれていたが、今作では逆に、父親が息子の部屋のテレビの電源を消し、彼を庭先でのキャッチボールへと誘うのである。

アメリカ東部のある町で、その異変は突然起こる。雲ひとつない晴れ模様の日中、何の予兆もなく突然天候は崩れ、あたりはみるみる暗くなり、灰色の渦のよう筋状の雲が回転を始める。その様子を大人たちはまるで『未知との遭遇』での神々しい宇宙船との遭遇のように、静かにじっと見つめている。上空では激しい稲光が交錯し、何度も地上を叩きつける。やがて地割れのような地殻変動が起こり、禍々しくも、邪悪な裂け目がその表面に飛び出してくる。その場に居合わせた労働者のレイ(トム・クルーズ)は、自分たちに襲いかからんとする何者かの存在を敏感に感じとり、2人の子供達が待つ部屋へと戻る。砂煙で白くなった顔を鏡で見つめるのである。ここでも暗闇の中で、光る物体が窓越しにゆっくりと近付いてくる。その様子を窓越しにゆっくりと見つめる少女の目があり、レイは咄嗟の判断により車で逃げることを決断する。

車での逃亡から追い剥ぎのような状態に至るシークエンスは、『太陽の帝国』でのブルジョワジーの離散の混乱の光景にも近い。極限状態に置かれた人間の判断基準とはいったい何なのか?あまりにも醜い行為を晒す人間達の姿をスピルバーグはどこか滑稽に描写する。『キャッチ・ミー・イフ・ユー・キャン』におけるクリストファー・ウォーケンのように、かつてそこにあったものを全て奪われたレイという男は、この禍々しいモンスターからただ逃げることで事態を打開しようとする。それは初期作『ジョーズ』において、海への恐怖心を拭えない主人公がただただサメから現実逃避することで事態を収拾しようとしたこととあまりにも似通っている。『ジョーズ』では息子を失った母親のビンタで目が覚めた父親だったが、今作においてはより過酷な選択が待ち構えている。一見派手な宇宙人の殺戮シーンに目が行きがちだが、今作における人間の虐殺場面は『プライベート・ライアン』のノルマンディー上陸作戦ほどの獰猛さを備えていない。むしろレイには宇宙人の攻撃が飛んでないことがわかった上で、父親に息子か娘かの選択を強いるのである。どんなにCGやVFXをふんだんに使用しようが、クラシカルな作劇へと回帰するスピルバーグらしいシークエンスである。

彼らが地下に逃げ隠れるとそこには既に人がいるという描写は『シンドラーのリスト』でも目にした既知の光景に他ならない。むしろここでの意味合いは、散々宇宙人から逃げおうせたレイと救急車の運転手とのイデオロギーの違いであろう。まるで『インディ・ジョーンズ/魔宮の伝説』のインディの言葉のように、レイはレイチェルに対し、黒いアイマスクを絶対に外してはならないと釘を差す。これは『マイノリティ・リポート』の失明の主題とも重なる大変重要な場面である。レイは宇宙人と戦う前に、まずこの男を黙らせなければならないと判断するが、その判断が果たして倫理的に正しかったのかどうかの判断は我々観客に委ねられている。スピルバーグ映画の宇宙人と宇宙船の造形がいつも同じような構造なのはともかくとして、導入部分で鏡に映る自分を確認したレイが、咄嗟の判断で鏡を置いたことと、トライポッドのシールドが破れていることに気付く判断は素晴らしかった。だが娘を全力で守り抜いた男に待っていたあまりにも図式的な光景が、完全なる父性の回復につながっていると考えるのはあまりにも早計過ぎる。『キャッチ・ミー・イフ・ユー・キャン』や『ターミナル』のエンディングなどにも明らかだったように、21世紀のスピルバーグはあからさまなハッピーエンドに帰結するのではなく、どこか処分保留のまま、判断を観客に委ねている節がある。

#スティーヴンスピルバーグ #トムクルーズ #ダコタファニング #ジャスティンチャットウィン #宇宙戦争

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