【第630回】『手紙は憶えている』(アトム・エゴヤン/2015)

 ペンシルヴェニア州にある高齢者施設。90歳になったゼヴ・グットマン(クリストファー・プラマー)は目を覚ますと必ず亡き妻ルースの名前を呼ぶ。だが同じ空間にいるはずの妻はおらず、壁にかけられた白いブラウスはゼヴの問いかけに答えない。ベッドから起き上がり、たどたどしい足取りで歩き始めた彼がドアを開けると、受付と直で繋がっている。「ルースはどこにいる?」「奥様は亡くなられまして、私がゼヴ様のお世話を致しております」その言葉にゼヴは我に返ったようにしばし呆然と立ち尽くす。厳かな葬儀の翌朝、朝食の席で彼の前にゆっくりと詰め寄るマックス(マーティン・ランドー)の姿。真っ白になった髭を生やし、頭に小さな帽子を被った男は、鼻に入れられたチューブが欠かせない。彼は頼りない声でゼヴに手紙を託しながら、「覚えているかいあの日のことを・・・」と話す。今から70年前、彼ら2人はユダヤ人としてアウシュビッツ収容所の中にいた。家族は皆殺しにされ、唯一彼らだけが大虐殺の波を逃れ、ヨーロッパから遠く離れたアメリカの地で暮らしている。ゼヴはかつて家族を葬ったナチの残党が、今もこの地に生存していることをマックスにより知らされる。男の名前は「ルディ・コランダー」。この地に4人いるという同じ名前を持った人物を探す復讐劇が幕を開ける。

 だが何より記憶障害である老人の道筋は最初から靄の中にある。オハイオ州クリーヴランド行きの列車に乗ったところで、彼の記憶は少しでも眠っただけでリセットされてしまうことが観客に明らかにされる。左腕に書かれた「Read Letter」の文字は、認知症を患った男が理性を取り戻すための警告文に他ならない。起きている時は普通に会話の往復が出来ても、少し休んだ後には突然怒り出す。このややこしい設定そのものが今作の核であり、危なっかしい男の行くところには常に齟齬や感覚の差異としてのサスペンスが待ち構える。ペンシルヴェニア州からオハイオ州クリーヴランドへ入り、カナダの国境を越え、再びアイダホ州ブルノーへ戻る展開は明らかにロード・ムーヴィーの様相を呈するが、彼の脇には会話を楽しむ相棒も案内人となる親切な保護者もいない。高齢者施設から徘徊の通報を受けた息子チャールズ(ヘンリー・ツェニー)はしばし呆気に取られながら、ただ呆然と手をこまねいて待つより他ない。男の行く末は記憶障害により何度も阻まれるが、内側に燻る意思だけは強固で揺るがない。かつて『将軍たちの夜』に出演したクリストファー・プラマー、『Uボート』のユルゲン・プロホノフ、『ブラジルから来た少年』や『ヒトラー 〜最期の12日間〜』に出演したブルーノ・ガンツの表情に刻まれた映画史的記憶が浮かび上がるキャスティングも見事というより他ない。

 戦後70年を迎え、先の第二次世界大戦を総括するような映画が後を絶たない。直近で言えば斬新な解釈が物議を醸した『帰ってきたヒトラー』が挙げられる。あの映画がヒトラーを知らない世代が見た戦争の淡い実感だとすれば、今作は90歳にもなって、余命いくばくもない身体になり、記憶障害を患ってもユダヤ人大虐殺の瞬間が今なお心に燻る男たちの屈折したドラマに他ならない。この手の作品は回想シーンで1944年のアウシュビッツの場面が描かれるのが常だが、ベンジャミン・オーガストのあまりにも挑発的で大胆な脚本は、ゼヴ・グットマンは記憶障害なので過去を振り返る必要はないと、過去の描写を全て切り捨てる。それにより映画はホロコーストという過去の主題を扱いながら、紛れもなく現在〜未来へと観客の興味を引く。屈折したトラウマとも云うべき負の連鎖は新たな負の連鎖を生む。物語の構造そのものは、匿名の手紙を受け取ったビル・マーレイが、4人の女性を訪ね歩いたジム・ジャームッシュ『ブロークン・フラワーズ』に非常によく似ているが、まさに因果応報のクライマックスはオリジナルで、真に残酷で容赦ない。アトム・エゴヤンらしい厭なサスペンスとしての意匠を最後まで纏いながら、大量虐殺をかつて経験したアルメニア系移民であるエゴヤンの手による極めて秀逸なナチス総括でもある。

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