【第364回】『ナイトクローラー』(ダン・ギルロイ/2014)

 承認欲求の強い人間にとって、昨今のソーシャル・メディアの隆盛は良い部分も悪い部分も同時に暴き出す欲望のはけ口になっている。日本ではバカ発見器と呼ばれるものがその象徴であろう。各種SNSで垂れ流される情報はデマや誇張に溢れており、そう簡単には真実に出会うことがない。だがたまに奇跡のような即時性の強い情報やリアリティに遭遇するのがネットの良さである。今作の主人公となるのは、眠らない街LAで貧困にあえぎ、闇にまぎれて金屑を盗もうとしている男(ジェイク・ギレンホール)である。その堂々とした盗みっぷりは簡単に足がつくことが予想出来るが、案の定、警備員にあっさり呼び止められる「IDを見せろ」と。だが近づいてきた男が警官ではなく警備員だとわかったその男は、拳銃はなく警棒のみで接近するその男を殴り倒し、気絶させる。その状況判断の良さと落ち着き払った不法侵入は明らかにこれが初めてではないとわかる狡猾さである。しかしながら戦利品を車に載せて工場に売り捌く時のすがるような態度には少々唖然とさせられる。そこで男は「僕は勤勉で志が高い人間だ」と自信満々で自分を売り込み、「コソ泥は雇わない」と断られても笑顔で去って行く。自分をルーと呼ばせる、この不気味な男の名は、ルイス・ブルーム。友達も家族もなく、ネットとテレビと共に孤独に暮らしている。

一見して『タクシー・ドライバー』の主人公トラヴィスの深刻な不眠症を思わせるルイスの闇の中の彷徨はそのまま彼の立ち位置や方向性を図らずも暗示している。そもそも求職中であるならば、夜に活動していては受かるはずなどない。朝は早く起き、身なりを整え、明るいうちから訪問先に1件1件挨拶をしなければならないが、彼の就職活動は犯罪の現金化のついでにしか過ぎないのである。そんな心がけだから受かるはずないし、『タクシー・ドライバー』から30年が経過し、世界もアメリカ社会もあの頃とはまるで景気も社会風土も違う時代を生きている。貧困や階級間闘争は常態化し、一度下層に落ちると、人々はなかなか上の階級の人々とは接点を持つことが出来ない社会構造の中で暮らしている。今作において主人公のルイスは、果敢にも社会と接点を持とうと試みる。犯罪に手を染めれば普通は薄暗い裏稼業しか歩けないし、犯罪を犯している手前、表街道など堂々と歩く資格などないはずだが、夜の街の引力の為せる業かもしれない。彼は街をあてもなく車で走りながら、やがて大きな交通事故の現場に遭遇する。パトカーもその場に来ているが、何を思ったか彼は車を降り、悲惨な事故の現場に向かう。そこにはカメラを構えたマスコミの姿があり、彼は忙しそうなパパラッチ記者に対し再び、果敢にも人は足りているのかを尋ねることになる。

そこで労働者から雇用者へと転身を試みる主人公の判断は圧倒的に正しい。21世紀は安価な機材があれば、自分なりのソーシャル・メディアを立ち上げることが出来るインフラの整備された社会である。それはルイスのような最下層の人間であれ、朝のニュース番組のディレクターで番組編集の権限を持つローカル・テレビ局のニーナ(レネ・ルッソ)であれ、まったく同じ構造を持っていると言えよう。テレビの視聴者は与えられた情報を見て何かを感じても、それが誰によって撮られ、どのような力学でテレビ局が得た状況なのかを知る由もない。従ってテレビ局のディレクターが気にするのは視聴率のみであり、情報提供者とディレクターの関係や情報を得た経緯などは言及されない。ところが最初は偶然辿り着いた特ダネを、たまたま警備が手薄で侵入出来たテレビ局に売ったに過ぎない主人公が、次第にテレビ局同等の権力を持っていると錯覚する中盤の展開が秀逸である。最初は雇用主であるディレクターに足元を見られ値切られ、しまいには助言さえも甘んじて受けていたルイスが、自分の持つマテリアルの影響力が番組の潤滑油以上の機能を果たしていると錯覚したところから、要求はだんだんとエスカレートし、次第に狂気じみてくる。それと共に彼の取材姿勢さえも狂気じみていく中盤からクライマックスまでの高揚感こそが今作においては肝になる。

今作において一貫して描かれるのは、主人公ルイスの「稚拙な行動」に他ならない。冒頭の鉄資源盗難もその後の就職活動も、行き当たりばったりな機材選びもアルバイト募集も、全てルイスの思いつきに反応があったところに、集中して弾を撃っているに過ぎない。たまたま実現可能だったことを持続しようとしても結果は目に見えているのだが、彼自身の欲望はエスカレートし、果てることを知らない。要するにこの主人公は自制出来ないのである。一見思慮深い狡猾な策略家に見えて、ただ単に薄っぺらい成り上がり根性だけの上昇志向家であるが、そんな彼のメッキが徐々に剥がれていく瞬間が助手であるリック(リズ・アーメッド)を助手席に乗せた際の2人のやりとりに凝縮されている。数週間前までは貧困・孤独にあえいでいた1人の痛い男が、思いつきで助手を雇ったところで上手く行くはずもないだろうと観客は理解するのだが、そう考えられないところに主人公の不幸はある。後半の車内での主導権を巡る駆け引きの不毛さは、とても常人には理解不能なレベルの交渉術である。騙されたくない・足元を見られたくないという理由だけで展開される交渉術の上から目線の不毛さ・下品さは、極度の人間不信に陥ることがなかった常人には到底理解できない。現にルイスは、大して付き合いもないし、素性を知らないニーナ(レネ・ルッソ)という女を、おそらく彼には手が届かない階級にいるという理由だけで躊躇いなく抱いてしまう。それは男の優越感であり、自分が成り上がったことの矮小化した結果に過ぎない。

問題があるとすれば、自分は高みに登ったつもりでニーナ側だと思っている主人公を、実はリック側だと思わせる描写がクライマックスには必要不可欠なのだが、監督はどういうわけか痛みの実感を主人公にさせようとしない。自己啓発の末に業務拡大しようとする男の肥大化した意思が成功する可能性はほぼゼロに近いし、やはりルイスに挫折を感じさせる描写は絶対に必要だろう。そもそも視聴率主義に陥ったTVディレクターと、貧しい野心家の欲望とが交差する映画であれば、2人のまぐわいを予感させる描写は必要なのだが、監督であるダン・ギルロイにとって、今作のヒロインであるレネ・ルッソは妻であり母親であり、あらゆる意味で難しかったのかもしれない。そもそも大前提として今作のヒロインに果たしてレネ・ルッソが適任だったかの議論は必要だし、撮影時期には60歳になったルッソがTVディレクターというのはミス・キャストだろう。今作は21世紀的なインフラの整備された世界での下層民の野心的な足掻きを描写した力作には違いないが、そこに旧態依然とした公私混同を介入させた監督の判断は明らかに間違いである。ただ冒頭の夜景ショットから一連の無人ショットに漂う力量は明らかに凡百の監督を凌ぐ才気を感じた。それがダン・ギルロイによるものなのか、それともロバート・エルスウィットによるものなのかはギルロイの次作を観るまでは処分保留としたい。

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