【第583回】『グラン・トリノ』(クリント・イーストウッド/2008)

 ミシガン州デトロイト、荘厳なパイプオルガンが鳴り響くカトリック教会で、年老いた女性の葬儀が執り行われている。彼女が眠る棺の横に立つ白髪の偉丈夫ウォルト・コワルスキー(クリント・イーストウッド)は、ポーランド系米国人として、かつては朝鮮戦争に従軍し、勲章までもらった退役軍人である。式に遅れてやって来た孫たち、葬式には相応しくないアメフトのジャージ、ヘソにピアスを開けた孫娘の姿を見て、コワルスキーは思わず「Shit」と口走り、怪訝そうな表情を浮かべる。父親の侮蔑に満ちた表情を見ながら、2人の息子たちミッチ(ブライアン・ヘイリー)とスティーヴ(ブライアン・ホウ)は、未だに50年代のつもりなのかと小声で悪口を言い合う。やがて登場した27歳の新米神父ヤノヴィッチ(クリストファー・カーリー)の人生を知ったような説法にも怒りを隠さない。その後行われたホーム・パーティの席で、居心地の悪いコワルスキーは1人不機嫌な表情を浮かべている。同じ頃、隣の家では引っ越してきたばかりのモン族の家族に、赤ん坊が生まれたことを祝うパーティが催されている。生と死、強い同族意識と相互扶助のコミュニティと孤独な老人、72年型フォードの愛車グラントリノとトヨタ製ランドクルーザーの対比。フォードの自動車工を50年勤めあげたコワルスキーに対し、息子は日本車トヨタのセールスマンとして口八丁で稼いでいる。ここでは『許されざる者』以降のイーストウッド映画を象徴するように、2人の息子との関係はギクシャクしている。愛した妻には先立たれ、傍には犬しかいない。追い打ちをかけるかのように、孤独な老人には死期が迫る。

ピカピカに磨き上げた72年式グラントリノ、ガレージに綺麗に並べられた工具の数々、地下室に置かれた冷蔵庫、大好きな瓶製の飲みもの等の緻密な道具立ては、コワルスキーが既に「時代遅れ」な人物であることを強調する。バディ・バン・ホーンの『ピンク・キャデラック』に登場したピンク色のキャデラックが、父親を追い求める人妻ルー・アン・マッギン(バーナデット・ピーターズ)のメタファーだったのに対し、今作のグラントリノも燃費が悪く、若者はトヨタ車やホンダ車を選ぶ。コワルスキーの造形は、徹底して官僚機構に楯突いた『ダーティ・ハリー』シリーズのハリー・キャラハンの老いぼれた姿にも見えるし、『ハートブレイク・リッジ 勝利の戦場』で兵士たちを鍛え上げたトム・ハイウェイ一等軍曹のその後にも見える。老いぼれた元タフガイのイーストウッドは、朝鮮戦争で貰った勲章を部屋に飾らず、地下室に置かれた埃まみれのトランクの中に締まい込む。50年代、自動車都市として栄えたデトロイトの豊かさはもはや見る影もない。住み慣れたかつての同僚たちがこの地を離れ、黒人、ヒスパニック系、モン族、同じ白人でもポーランド系、イタリア系、アイルランド系と区分けされるルーツの違いが、彼を孤立させる。ここでは彼自身が、時代遅れのマイノリティを演じている。

ウォルトにとって、実の息子たちよりも大事なグラントリノの盗難未遂により、およそ60歳も年の離れた隣に住むタオ・ロー(ビー・ヴァン)との交流が始まる。ベトナム戦争後、ラオスから亡命してきた人々を祖先に持つモン族の人たちは、ウォルトがかつて殺めてしまった朝鮮戦争の市井の人々ともシンクロする。ウォルトの尊大な態度は、決して排外主義ではなく、過去を悔いることの恐怖に満ちている。実際、亡くなった妻はウォルトに懺悔をさせたがり、新米神父ヤノヴィッチに自分の死後の行く末をお願いする。一向に過去を懺悔し総括しないウォルトに対し、タオに盗難未遂を懺悔させる老人の理屈の通らない姿。タバコをくゆらせながら、時に落ち着きなく視線を横にやる尊大なウォルトの視線は、大雨の降る中、確かにタオの背中を見ている。イーストウッドは、あまりにも印象的なウォルトの姿を3度のクローズ・アップ・ショットを交えながら描写する。死期を悟った男の最後の抵抗の主題は真っ先に『センチメンタル・アドベンチャー』を想起させるが、『センチメンタル・アドベンチャー』がどこまでも南下するロード・ムーヴィーだったのにに対し、今作では生まれ育ったデトロイトの街を一歩も出ることはない。彼は自分がこれまで培って来た生きるための知恵を、タオや彼の気の強い姉のスー(アーニー・ハー)に懸命に教えようとする。それは一つの時代の終わりを実感した主人公の最後のイニシエーションの伝承に他ならない。

イーストウッド自身は、今作を自らの50年強に及ぶ俳優人生の結びと決意していた。その決意は後に愛弟子ロバート・ロレンツの『人生の特等席』により覆されるが、セルジオ・レオーネの「名無しの3部作」、『ダーティ・ハリー』シリーズを筆頭とした俳優クリント・イーストウッドの総決算として、意図的に様々な映画的記憶を散りばめる。西部劇の時代、裁判にかけられない重罪人を裁くために、私刑の論理が半ば公然とまかり通っていた。だが「目には目を、歯には歯を」の論理は「法と正義の行使の不一致」を掲げるイーストウッドの論理とは矛盾してしまう。今作でイーストウッドは私刑の論理=報復ではないことを身をもって主張するのである。思えば今作で何度も銃を掲げるウォルトが、実際に発砲したのは、ガレージで足を滑らせたことによる誤射の1回きりである。多数の人間に向けた威嚇のために銃を向けたことはあっても、朝鮮戦争のトラウマを乗り越えた退役軍人のウォルトは、これ以上無駄な血が流れることを良しとしない。90年代後半以降、イーストウッド映画には様々な十字架や贖罪のイメージがフィルムを覆い尽くすようになるが、ここでも物語は、最愛の妻の葬式の十字架に始まり、十字架に終わる。80歳目前の体に鞭打ち、重力や老いに逆らうように真っ直ぐに立ったウォルトの姿が無惨にも横たわる時、カメラは突如上からの俯瞰映像に代わり、彼が倒れる様子を映し出す。その姿はまるで十字架のように見える。

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