【第578回】『ミリオンダラー・ベイビー』(クリント・イーストウッド/2004)

 大勢の観客に見守られ、繰り広げられるボクシングのメイン・イベント。だが世界チャンピオン目前のビッグ・ウィリー(マイク・コルター)は劣勢に立たされている。左目の上のまぶたはパックリと裂け、トレーナーのフランキー・ダン(クリント・イーストウッド)が止血しようとするも、顔の血管との兼ね合いで血が幾重にも噴き出してくる。まるでイーストウッドのドキュメンタリー『アウト・オブ・シャドー』のようなモーガン・フリーマンの荘厳なナレーション。スロー・モーションになり、殴られた瞬間、エクストリーム・クローズ・アップになるビッグ・ウィリーの瞼の痛々しい傷跡。しかし次の瞬間、ウィリーの起死回生の一打により、逆転KO勝利を飾る。ボクサーとトレーナーの涙ぐましいまでの二人三脚を、2階席から見つめるこの日の前座ボクサーであるマギー・フィッツジェラルド(ヒラリー・スワンク)の姿。車にエンジンをかけようと控室から出て来た老いぼれたトレーナーに対し、マギーはコーチ役を依頼するも、女であるという理由で呆気なく断られる。フランクは8年間、黒人ボクサーであるビッグ・ウィリーと二人三脚で涙ぐましい努力を重ねて来たが、世界戦目前でプロモーターのミッキー・マック(ブルース・マックヴィッティ)に、ウィリーの世界挑戦を餌に引き抜かれてしまう。失意のどん底にあったフランキーは、マギーのトレーナー要請に渋々応じることとなる。

当初、女性は募集していないとマギーを突っぱねるフランキーの表情は、まるで『ダーティハリー3』で新米女性刑事ケイト・ムーア(タイン・デイリー)を当てがわれたハリー・キャラハンや、『パーフェクト・ワールド』において、知事の息のかかった犯罪心理学者サリー・ガーバー(ローラ・ダーン)を当てがわれた際のレッド・ガーネットの拒否反応を彷彿とさせる。既に熟練とも言える年齢に達したイーストウッドは、若い女のガツガツした野心が我慢ならないのだ。だが気の強い女たちの気性に、徐々に心を開いていく様子はこれまでと変わらない。フランキーはここでも『目撃』同様に、かつての妻と最愛の娘にそっぽを向かれている。手紙の束は受け取り拒否でドアの内側に戻り、その度にフランクはクローゼットの中の木箱に届かなかった手紙を溜め込む。23年間、アイルランド系教会に毎日足を運び、キリストの十字架に懺悔する男の贖罪の意識。毎晩ベッドの前に膝をつき、亡き妻アニーと愛娘ケイティの名前を連呼しながら、神に祈りを捧げる。『許されざる者』以降のイーストウッド映画に通底する過去を悔いる父親の造形は健在である。フランキーは一貫して、娘の不在を抱えている。それに対し、マギー・フィッツジェラルドは生まれながらに貧しい存在である。父親は既に他界し、父の死のダメージで母親は働くことが出来ないでいる。妹と共に生活保護を受ける家庭は悲惨な状況で、不良の弟は家には居つかない。マギーも一貫して父親の不在を抱えているのだ。ケイティを想うフランキーと、亡き父親を想うマギーとは、年長者が若者に教育を施す「イニシュエーション」の主題を内包しながら、擬似父娘としての関係性を結んでいく。

こうして擬似父娘の二人三脚はまるで『ロッキー』のようにトントン拍子でことが進んで行く。31歳の遅咲きのマギーは、母親に家が買えるほどにファイト・マネーを蓄え、あっという間に世界女子ウェルター級のベルトに手がかかるところまでやって来る。既に老齢となったフランキーのジムである「HIT PIT GYM」を支えるのは、エディ・“スクラップ・アイアン”・デュプリス(モーガン・フリーマン)である。まるで『許されざる者』を真っ先に想起させる老いぼれのスクラップは37歳の時、最高のカットマンだったフランキーの助言を無視し、試合に出たことで、片目の失明という大怪我を負うことになる。ボクサーとしての引き際を意識出来なかった男の悲しい末路も、『許されざる者』を否応なしに想起させる。前半のトントン拍子の成功物語に対し、中盤以降の展開は陰惨極まりない。マギーに降りかかる運命は、すっかり老いぼれたフランキーやスクラップよりも早く、彼女の生を壮絶に奪おうとする。マギーの腕の床擦れを拭くイーストウッドの描写は、何度観ても涙が止まらない。壊疽した片足を切断されるマギーの様子は、真っ先にドン・シーゲル『白い肌の異常な夜』のイーストウッド本人を想起させる。ここでもイーストウッドの身体の切断への異様な執着が見える。娘への罪を償うために23年間、毎日懺悔を欠かさなかった男が、神の意志に背くような行為に走るクライマックスは、イーストウッドの生涯のテーマである「法と正義の行使の不一致」を露わにする。Thelonious Monkの『Straight, No Chaser』のイーストウッドのピアノによるカヴァーで幕を降ろすフィルムで、彼は『許されざる者』以来、二度目のアカデミー賞の頂点に立った。

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