【第408回】『映画 暗殺教室』(羽住英一郎/2015)

 画面奥に我らが青い星・地球を臨む中、灰色がかった球体の上をカメラが勢い良く退行すると、目の前にキレイに欠けた三日月が見える。再びカメラは三日月の欠けた先に臨む目の前の青い星・地球に衝突せん勢いで急接近し、大気圏を突入すると、場面は唐突に大雨の中の日本軍の兵士が乗り込む緊迫した空軍の飛行艇内に移る。オーケストラのゴージャスな演奏の下、軍曹らしき人間が声高らかに兵士たちに告げる。「与えられた時間は1時間、それを越えれば否応なしにミサイルによる総攻撃が開始されるのだ」と。一瞬のアラーム音の後、開いたハッチから兵士たちは一斉に落下し、靄がかった豪雨の中で一瞬にして見えなくなる。総司令本部の大画面モニターでは、真ん中にとぐろを巻いた化け物が窺い知れる。位置情報とともに、地上の兵士のヘルメットに装着されたカメラからの分割された現場映像が更なる緊迫感を醸成する。一方兵士たちの落下した地上では、青みがかった真っ暗でゴツゴツした岩山の中、目標生物に5mまで接近した距離で何者かの攻撃を受ける。総司令本部では兵士たちと次々に交信が途絶え、たった一人残された最後の兵士の背後に丸みを帯びたシルエットが映る。そこにまるでスピルバーグの『JAWS』のジョン・ウィリアムズ によるあまりにも有名なスコアによく似た楽曲が展開される。この映画はいったい何なのか?

ゴツゴツした岩山での全員皆殺しという惨劇の過去から、現在へと自制が移り、今度は水槽の中でゆらゆらとクラゲが泳いでいる。何者かが話す講釈によれば、グローバル化の影響で、世界は富む者と貧しい者の貧富の差がより一層拡大し、日本も例外ではない。一握りの富者を生かすために、彼ら貧者がいるのだと自説を述べる男の話を神妙な面持ちで聞くしかない烏間惟臣(椎名桔平)。そのピラミッドの最下層に位置する「3年E組」はその他の学生たちに優越感を持たせるために存在するのだと男が言ったところで、始業のチャイムが鳴り、私はここでようやく今作が学園もののドラマだと理解する。『3年B組金八先生』を筆頭とする幾多の学園ドラマのように、最低の落ちこぼれのクラスメイトたちが優れた教師と出会い、様々な問題や出会いや別れを繰り返しながら、成長する物語なのかとタカをくくって見ていると、黒板の前に立つ男の造形に再びひっくり返るような衝撃を受けた。典型的なハリウッドのロー・ティーンものの卒業式で目にするような紺色のアカデミック・ドレス、しっかりと首元まで閉められたYシャツのボタン、締められた黒のネクタイ、その正装とも云うべき改まった服装からは想像も出来ないイエローの球体、ボタン状の小さな黒い目、スマイルくんのように口角の上がった表情、袖からだらしなく伸びた触手、信じられないことに、このクラスの生徒はたった今から人間ではないクリーチャーの教えを乞おうとしているのだ。そこで起立・気をつけ・礼の代わりに彼ら生徒が先生に返すのは手荒な銃乱射に他ならない。彼らは暗殺者となり、1年後に地球を滅ぼすと宣言しているクリーチャー名付けて「殺せんせー」を賞金100億円の賞金首に見立て、命を付け狙う殺し屋なのである。

この決定的に倒錯した脚本の世界観を丸ごと許容するのは、これまで幾多の映画を観てきたものでも相当厳しい 笑。だがほんの少しの勇気だけあれば、最後まで見通すのは決して難しいことではない。潮田渚(山田涼介)、赤羽業(菅田将暉)、茅野カエデ(山本舞香)、中村莉桜(竹富聖花)、神崎有希子(優希美青)、奥田愛美(上原実矩)、自律思考固定砲台(橋本環奈)らそれぞれのキャラクターの圧倒的な可笑しさとステレオタイプな区分け、堀部糸成(加藤清史郎)ら刺客たちの登場や弱体化した主人公である潮田渚(山田涼介)が意味するものがいわゆる『新世紀エヴァンゲリオン』以降のセカイ系の影響過多であることは想像に難くない。ここにセカイ系のカウンターとして登場したいわゆる空気系作品の『ちはやふる』との様々な差異や相違点が浮かび上がる。『ちはやふる』が学校という日常的な空間への物語の極端な矮小化をあえて積極的に推し進めた作品だとしたら、今作は主人公(ぼく)とヒロイン(きみ)を中心とした小さな関係性の物語を突飛に飛躍させ、強引に「殺せんせー」の地球滅亡宣言と結びつけた「世界の危機」あるいは「この世の終わり」の最果てを綴った物語なのである。この宇宙規模の最終戦争や、異星人による地球侵攻の大袈裟なイメージの数々は、21世紀的なハリウッド映画の脚本構造におけるスティーヴン・スピルバーグの『宇宙戦争』やマット・リーヴス『クローバーフィールド/HAKAISHA』、ニール・プロムカンプ『第9地区』と比べてもあながち間違いではない。お世辞抜きに今作の脚本や方法論は、それらの映画と比肩しても何ら遜色ない新鮮な驚きに満ちている。

「殺せんせー」のバカバカしいまでのCG丸出しのビジュアルに驚くことなかれ。CGキャラと張り合うために80年代のマッチョイズムをまんま踏襲した感のある鷹岡明(高嶋政伸)の唐突な登場は、平成生まれの子供たちの冷笑という明らかな時代性をもって明示される。高嶋政伸を含め、椎名桔平も中原丈雄も知英(元KARA)もこの映画に出て来る年配連中の過剰にデフォルメされた身体性や演技にはただただ恐れ入る。彼らが大袈裟な演技で物語を踏み外せば踏み外すほど、現代を生きる山田涼介や菅田将暉、山本舞香らのさりげない演技が活きるのである。彼らは高嶋政伸や椎名桔平に対し、うっかり枕を高くして寝ることは許されないだろう。若者世代でただ一人箱の中で生きる女性を受け入れた自律思考固定砲台(橋本環奈)通称・律の物哀しいまでの哀愁も忘れられない。クライマックスの鉄塔の場面の主人公たちと堀部糸成との死闘は、メンターとしての「殺せんせー」と世界の終わりとしての「殺せんせー」というアンビバレントな矛盾を主人公たちに否応なしに突きつける。メランコリックに言えば決してハッピー・エンドではないクライマックスの不完全性に至るまで、『新世紀エヴァンゲリオン』や『バトル・ロワイヤル』以降をある意味象徴しているのである。その映画史の趨勢を完全に無視した大胆な佇まいにただただ驚く。

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