【第356回】『ザ・ウォーク』(ロバート・ゼメキス/2015)

 1974年ニューヨーク、完成間際のワールド・トレード・センターの2つのビルにロープをかけ、渡ろうとする1人の男がいた。今作は『マン・オン・ワイアー』という秀逸なドキュメンタリーをあらかじめ観ていると非常にわかりやすいが、実在したフランス人フィリップ・プティの死の危険を冒した世界一危険な綱渡りを描いている。彼は綱渡りに魅せられ、世界最高の高さで綱渡りするという夢をずっと持ち続けている。これまでゼメキス作品には、時間・空間を超越しようとする様々な無謀な人物たちが幾度となく登場した。『バック・トゥ・ザ・フューチャー』シリーズでは無謀にも時空の壁を飛び越えようとし、『永遠に美しく』では2人のプライドの高い女たちが老いに抗う。『コンタクト』では亡き父の思い出に囚われた宇宙飛行士が、時空の壁を越えた先の惑星ヴェガで亡き父親と再会を果たす。『キャスト・アウェイ』では時間に追われる生活を送ってきたやり手のビジネスマンが、今日が何日何曜日なのかもわからない陸の孤島で4年間もの漂流生活をする。彼らの時に人智を越えた冒険は、ゼメキス映画にとって不可避な要素となっている。

今作はフィリップの回想形式をとる。フランスでの幼少期に始まり、彼がいったい何を見て綱渡りに魅せられたのかを丁寧につまびらかにしていく。一輪車での曲芸に始まり、パントマイムやジャグリングなどの大道芸を一つずつ覚えていったフィリップは、やがて愛を交わし合う運命の女性と出会う。出会いの場面、路上で弾き語りをするアニーが歌うのはレナード・コーエンであり、その彼女のすぐ側で曲芸を始めるフィリップは最初はアニーの商売敵となるのである。思えば『キャスト・アウェイ』では飛行機墜落事故により乗員は全員死亡し、主人公は誰も話し相手もいない生活を4年間続けることとなった。彼の唯一の話し相手はサッカーボールに血で書いた架空の人物ウィルソンだった。今作ではそれとは対照的に多くの共犯者となる仲間たちの協力が必要不可欠になるのだが、ゼメキスは1人1人との出会いを実に丁寧に描写している。後に恋人になるアニーとの出会いもそうだが、アマチュア・カメラマンであるジャン=ルイとの出会いも実にドラマチックなものとなる。アニーの通う美術学校の庭で綱渡りの練習をするフィリップの元へ、ジャン=ルイがやって来て幾つかの言葉を投げかける。そうこうしているうちに左右の大木に結んだロープの結び目が解け、あわや大ケガの事故を負う。そういうドラマチックな瞬間がフィリップと共犯者たちの出会いの中で起きていく。

中でも彼の唯一のメンターとなるパパ・ルディとの出会いが何とも心地良い。世界一の綱渡り一座の異名を持つ「白い悪魔たち」の座長である男は、深夜、サーカスの練習場に忍び込んだフィリップと地上と空中で運命の出会いを果たす。サーカスのプロとしてのプライドと、大道芸人としてのプライドから互いに歩み寄れない日々が続くが、パパ・ルディは彼の父親代わりとして、ワイヤー・ウォーカーの何たるかをゼロからフィリップに叩き込んでいく。綱渡りで最も危険なのは最後の3歩であるという彼の言葉の持つ重みにやがてフィリップも気付き、彼の教えを実践していくこととなる。渡米前の最後の言い合いで、パパ・ルディがフィリップに渡す端の切れた紙幣が何とも泣かせる。こういう物語の伏線の丁寧な描き方こそが、VFX過多に見られがちなロバート・ゼメキスの素晴らしいストーリー・テラーとしてのテクニックだろう。大味に見える監督だが、この小技の積み重ねが来るべきクライマックスへと物語を徐々に起動させていく。

前作『フライト』では、飛行機の墜落という主だったアクションが前半部分に来て、残りはシリアスで極めて濃厚な人間ドラマが続いた。『フライト』よりも今作の方がよりハリウッド映画の叙述形式のオーソドックスな流れに持って行きやすいと言えるのかもしれない。フランス編では様々な人物との出会いや、ワールド・トレーディング・センターとの偶然の出会いを経て、それをいかにロジックとして遂行可能な計画にするのか。監督の方法論同様の緻密な心理戦が幕を開ける。そしてニューヨークに渡ったからと言って、はいどうぞ決行してくださいとはならないのが今作の奥深さであろう。足の裏に大ケガを負い、決行日が近づくにつれてより一層ナーヴァスになった主人公は共犯者たちに当り散らしながら、厳重な警備を掻い潜ろうとする。そしてその厳重な警備体制は2001年9月11日まで確かに続いたはずである。今作においてワールド・トレーディング・センターの虚をつき、警備の網の目を掻い潜らんとするのはテロのためではなく、あくまで屋上と屋上に1本のワイヤーを張り、長年の夢を実現しようとしたフィリップの欲望だけである。決して誰かを傷つけようとかアメリカ社会を不安に陥れようとか、そういう大それた思想を主人公は持っていない。

私は3Dで別会場で3回、4DMXで1回観たが、ゼメキスのVFXの革新性がこれ程体感として実感出来た映画はかつてない。『ポーラー・エクスプレス』、『ベオウルフ/呪われし勇者』、『Disney's クリスマス・キャロル』の3本のVFXの日進月歩の成長にも眼を見張るものがあったが、ゼメキスの高低差を活かした映像世界がこれ程視覚的に素晴らしいとは夢にも思わなかった。時間や空間を超えるのがゼメキス映画の登場人物たちの妙味だとしたら、かつてこれ程までに重力に抗おうとした主人公がかつていただろうか?『キャスト・アウェイ』や『フライト』ではあえなく地面に不時着し、『ポーラー・エクスプレス』や『Disney's クリスマス・キャロル』ではしばしば主人公たちは雪の中を真っ逆さまに滑り落ちた。だが今作におけるフィリップの落下することへの抵抗は実にスリリングな仕掛けとなる。綱渡りデビューではあえなく湖に落ち、その姿を恥じた主人公は精一杯おどけた表情と仕草で失望に応えてみせる。パパ・ルディの厳しい眼が背中に注がれているとは夢にも思わずに、ラスト3歩のところで失敗したフィリップは、ワイヤー・ウォーカーとして最も肝に銘じておかなければならないことを師匠に叩き込まれる。命綱なしでのあまりにも無謀な挑戦に師匠であるパパ・ルディは激昂し、自室のドアを閉める。落下することがすなわち死に繋がるのだということが、どれだけ観客に周知・徹底出来ているかがクライマックスの綱渡りの重要な生命線となる。特に3Dで素晴らしかったのは、ポールが落ちてくる瞬間が恐ろしかったことである。思えばこれまで観てきた3D映画において、奥行きを意識させることがあっても、実際に物が自分に向かってくるという感覚を感じたことはほとんどない。その光景はゼメキスがプリミティヴな『列車の到着』へと立ち返らせたかのようである。

真っ暗なビルの屋上での作業は明らかにスパイ映画じみているが、クライマックスの綱渡りシーンの崇高さは類を見ない。思えば決行1時間前の謎の訪問者も、不吉な鳥も、『コンタクト』以降のゼメキス映画の人智を超えたスピリチュアルな方向性を如実に示唆している。エイリアンやロボットが襲ってくるような幼稚な活劇がスクリーンを跋扈する中、クライマックスのアクションはもはやアクションとも違う己の心との戦いとなる。どんなに揶揄されようが、空の上では平穏を保つという教えを頑なに守りながら、警察さえも煙に巻く主人公。その1本のワイアーに足を踏み入れることが出来るのはフィリップただ一人である。最初は1本のワイアーの上をゆっくりと往復するフィリップだったが、やがて1本線上に寝そべり、摩天楼の靄の中で空にいる感覚を楽しむ。その瞬間、仲間も警察も、恋人でさえも下から地上411mを双眼鏡で眺めるしかない。この驚くべきクライマックスの孤高性は近年のハリウッド映画では明らかに抜きん出ている。

『永遠に美しく』ではアインシュタインやマリリン・モンローが全知全能の空間で老後を謳歌し、『フォレスト・ガンプ』ではあたかもガンプがケネディ大統領とのつかの間の2ショットをやり過ごした。『コンタクト』ではクリントン元大統領とジョディ・フォスターとがあたかも双方間コンタクトを楽しむかのようにVFXがトリックとして使用された。当然のことながら、今作においてトリックとして使われるVFX映像で、ワイアーをキツく結ぶこととなった地上411mにあった2本のタワーはどちらとももうない。かつてそこに確かにあったはずの象徴的事物が消え去り、再び映画の中で息を吹き返すというゼメキスの自己矛盾や倒錯性は、師匠であるスピルバーグの『ミュンヘン』のクライマックス以上に、アメリカ国民に象徴的に語り始める。ラストの2本揃って立つ夫婦(めおと)のようなビルの堂々たる佇まいは、かつてアメリカ合衆国がフィリップの綱渡りによって、初めて手にした民衆の郷愁や誇りさえも奪ってしまった。綱渡りの成功から27年、そこには亡くなった人の墓石とクレーターだけが残ったわけだが、ゼメキスはあえて世界に名だたるワールド・トレーディング・センターの在りし日のビジュアルを見せるのみで終幕するのである。その心意気に胸が熱くなった。

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