【第366回】『エデンより彼方に』(トッド・ヘインズ/2002)

 庭付きの大豪邸、黒人の家政婦と庭師、国産車に赤がまばゆいドレス、かしましい長男と長女、この50年代の典型的なブルジョワジーの家庭を仕切るのは、妻であるキャシー・ウィテカー(ジュリアン・ムーア)である。彼女は一流企業の重役の夫フランク(デニス・クエイド)を持ち、何不自由のない豪勢な生活を慎ましくも謳歌している。普段は近所のミドルクラス以上の奥様方と社交性のある会話で盛り上がり、時にリベラルな婦人誌の取材さえ受けるこのご婦人の何者にも代えがたい気品は、ご近所の好奇な目さえも一手に集めてしまう。まさに人も羨むような家庭像がそこにある。これは50年代のアメリカの上流階級としては理想的と言ってもいい。

キャシーは自宅に婦人誌の記者を招き入れ、嫌みのない話し方でインタビューを受けているが、ふと窓の外を見ると黒い人影がゆっくりと庭を横切っている。監督であるトッド・ヘインズはブルジョワジーの家庭に入る一筋の亀裂を、こうして丁寧に組み立てていく。その黒い影の正体は、かつてこの家の庭師だった男の長男レイモンド(デニス・ヘイスバード)であり、不穏な侵入者だと思った人影は、ウィテカー家に危害を加えるものではないとわかったキャシーは一転して安堵の表情を浮かべる。一方同じ頃、一流企業の重役の激務にストレスを患うフランクは、突如夜の路地裏へとゆっくりと黒い影を追うように消えていく。妻が見た庭への黒い影の侵入と、夫が見た路地裏での黒い影とはゆっくりと交差し、ノワール・サスペンスにおける崩壊の起点としてそこに立ち現れるのである。夫は仕事の精神的ストレスから、ずっと隠していたある病気を再発してしまう。そして妻のキャシーも首に巻いていた紫のスカーフが強風に流され、風にたなびいた後、庭に生えた豪勢な木の枝の上に落ちる。それを拾うのは黒人庭師のレイモンドである。

トッド・ヘインズの作品ではしばしば同性愛がクローズ・アップされる。それどころか彼の映画では同性愛でなくても、ブラザー・コンプレックスや化学物質過敏症などを突如発病し、精神のバランスを徐々に崩していく登場人物たちの姿を目の当たりにする。今作におけるこの平和に見える家庭にも転落のきっかけが転がっている。夫の同性愛の告白と時を同じくして、ブルジョワジーの家庭に嫁いだ女が、虚飾にまみれた自分のイメージと実際の自分とのギャップに苦しみ始める。前作『ベルベット・ゴールドマイン』同様に、自らの置かれた環境で当たり前になった自由を謳歌している最中、登場人物たちは突如湧き上がる自我に目覚め、置かれた環境からの逃避を試みる。そのきっかけが美術館での黒人庭師との親しげな耳打ちだったとは少しも気付くはずはない。男性の描写の中に、女性特有の美意識が滲む印象的な場面がある。仮初めのホーム・パーティの後で、夫フランクのパーティ中の心無い言葉への不快感を露わにしたキャシーに対し、夫フランクは後ろからきつく抱擁し、ソファーへと押し倒す。ここで夫ならば愛のないSEXをすれば夫婦の亀裂は少しは収まるにもかかわらず、別のパートナーが出来た夫は妻を拒絶する。この無理となって突き放す一連の女性的な描写には、同性愛者を公言するトッド・ヘインズならではのパートナーとの関係性が滲んでいる。

今更言うまでもないことだが、今作はダグラス・サークの『天はすべて許し給う』にオマージュを捧げている。あちらは50年代のある地方都市を舞台にした未亡人が主人公の悲しいメロドラマだったが、庭師は黒人ではないし、夫は同性愛者でもない(それどころか既に死んでいる)。今作における設定の書き換えがどのような意図によるものかはわからないのだが、当時はゲイは病気とされ、街中で白人が黒人と親しげに話しただけで好奇の目で見られた。この設定変更が当時のマッカーシズム溢れる社会の重苦しい空気を表すためのゲイや黒人だとしたら十分合点が行く。町中の好奇の目、検閲のような監視体制、根も葉もない噂の浸透、学校における陰湿なイジメなどがつまるところ、共産党員やその支持者への密告や自主規制への肥大化した暗喩だとしたら、ヘインズの描いた時代の空気感は十分に納得しうる。リベラルを謳った婦人誌の記者こそが心の中では黒人を差別し、50年代の典型的なブルジョワジーの妻を破綻させた張本人であり、彼女の親友を語っていた燐家の妻も同じような立場から、キャシーの転落の後押しを迫る。前々作『SAFE』では80年代の中流階級、前作『ベルベット・ゴールドマイン』では70年代のグラム・ロックの栄光と挫折を描いていたが、今作ではそこから更に時代を遡り、1950年代の赤狩りに揺れるアメリカの空気感を実に見事に的確に描写している。その細部に至る緻密さ、長回しを基調としたカメラワーク、背景へのこだわり、どれを取っても頭一つ抜けている傑作中の傑作である。

#トッドヘインズ #ジュリアンムーア #デニスヘイスバード #デニスクエイド #ダグラスサーク #天はすべて許し給う #エデンより彼方に

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?