【第585回】『ヒア アフター』(クリント・イーストウッド/2010)

 インドネシアの避暑地、海が見渡せる高級リゾートホテルのスウィートルームでは、パリで活躍するジャーナリストのマリー(セシル・ドゥ・フランス)とその恋人であるTVプロデューサーのディディエ(ティエリー・ヌーヴィック)がキングサイズのベッドに横たわっていた。開け放たれた窓から入る涼しげな海風、真下のビーチの喧騒、マリーはディディエに子供へのお土産はどうするのと尋ねる。2人はフランスを離れ、この地で人目も気にせず不倫旅行をしている。起きようとしないディディエに痺れを切らし、マリーは1人お土産を探しにビーチの側にある土産物店を回っている。アクセサリー売り場に立つ若い少女と会話を楽しむ彼女の元に、突如地割れのようなもの凄い衝撃がやって来る。次の瞬間、海側からもの凄い津波がゆっくりと、だが確実に地面を呑み込んで行く。マリーは少女と手を繋ぎ、逃げてと言いながら全速力で走り出すが、彼女たちの身体はいとも簡単に波に攫われてしまう。流木にしがみ付き、必死で生きようとするマリーだったが、濁流に呑み込まれた障害物が彼女のこめかみに当たり、気絶してしまう。気を失うまでのほんの一瞬、彼女は幻のような不思議な光景を目にする。岸まで流された彼女は、地元の人の人口呼吸により、奇跡的に命をとりとめる。ディディエに導かれ、パリへ戻った2人は、あの日自分たちが見た悲惨な光景を隠し、いつも通り仕事をこなすことに決めていた。1週間の休暇延長の後、新番組のアンカーウーマンとして登場した彼女の姿にディディエは期待するが、マリーはあの事故以来、仕事に一切身が入らなくなっていた。

一方その頃、サンフランシスコではジョージ(マット・デイモン)が兄ビリー(ジェイ・モーア)の説得を受け、心底毛嫌いしていた霊能者の仕事を一度きり再開しようとしていた。彼は依頼者の手を握った時、その人の人生が瞬時に見え、死者と交信出来るという特殊能力を持て余していた。若い頃、脊髄脳炎という重傷を負ったジョージは、偏頭痛がするたびに死者と交信出来るようになる。彼の具体的な過去は明かされないが、ジョージがこの能力のせいで深く傷ついたことは推測出来る。死者との対話に疲れ、サンフランシスコの工場で働くジョージは、英国の役者デレク・ジャコビが朗読したチャールズ・ディケンズのCDを寝る前に聴くことだけが唯一の楽しみになっている。ある日彼は意を決してイタリア料理教室に通い、愛する人を見つけようと最初の一歩を踏み出す。同じ頃ロンドンでは、母親と3人で暮らす双子の兄弟マーカス&ジェイソンが2人仲良く、写真店で笑顔の写真を撮っていた。彼らの母親はヘロイン中毒に苦しみ、父親は既にいない。ここでも『許されざる者』以降のイーストウッド映画に通底する両親の揃わない家族が登場する。マーカスとジェイソンも、兄のビリーにいつも言いくるめられるジョージも一貫して父親の不在を抱えている。子供がいるディディエと不倫関係に陥るマリーも、妻や子供たちから、父性を奪おうとしているようにも見える。またジョージが料理教室で出会う運命の人メラニー(ブライス・ダラス・ハワード)の霊視をした時、彼女の実父が登場し、「許してくれ」と懺悔する。図らずもここでは、血の繋がった者たちに縛られた登場人物たちがパリ、サンフランシスコ、ロンドンでもがき続ける。

双子の兄弟の一蓮托生の想いは、『荒野のストレンジャー』のイーストウッドと、彼のボディダブルとなったバディ・ヴァン・ホーンの鏡像関係を思い起こさせる。『ダーティ・ハリー』シリーズでも、サンフランシスコ市警1番の人気者だったハリー・キャラハンには、ベトナム戦争帰りのサイコ・キラーたちがストーカー的に張り付く。キャラハンの造形は、警察官と犯罪者とを紙一重の関係に結び、その後の作品でもしばしば感情を同化させていく。『真夜中のサバナ』においても、死者と交信する不思議な霊能者ミネルヴァ(イルマ・P・ホール)を登場させたイーストウッドに、製作総指揮を務めたスピルバーグは迷わず白羽の矢を立てた。死者を語る人生なんて意味ないと兄に吐き捨てるように語るジョージにとって、サンフランシスコに居続ける理由などどこにもない。イーストウッド映画に印象的な雷鳴轟く大雨の夜、「新・死者との対話」とされた新しいオフィスの開業を翌日に控えたジョージはあっさりと米国を離れる。同じく、アンカーウーマンとしての華麗なキャリアを絶ったマリーも、アルプス山脈の麓にあるハリー博士(マルト・ケラー)の病院で、死後の世界を見てしまった人々の記録をかき集め、1冊の本を書き上げる。

極めてスピリチュアルな物語ながら、今作にはハッタリのごとき超常現象の類や、具体的な霊界の描写が一切ない。ここにあるのはあくまでこの世から、誰も見たことのないあの世を見つめるマリー、ジョージ、マーカスの姿である。ジョージがマーカスの手に触れた時、「ボッ」と言う音を立てながら、一瞬だけモノクロに暗転したショットが出て来るが、イーストウッドはその深遠なる世界に意地でも踏み込もうとしない。図らずも今作はイーストウッドにとって、『愛のそよ風』『マディソン郡の橋』以来の純然たる恋愛映画となった。

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