AZEL -パンツァードラグーンRPG- 開発者インタビュー集 (日本語訳)

2018年4月30日にゲームニュースサイトPolygonに掲載された、アゼル -パンツァードラグーンRPG- の開発者インタビュー記事の日本語訳です。公開にあたり、記者のJames Mielke氏から許可をいただきました。この場を借りてお礼申し上げます。

ご意見・ご指摘はコメント欄までお願いします。

元記事URL:
https://www.polygon.com/2018/4/30/17286042/panzer-dragoon-saga-sega-saturn-oral-history

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Panzer Dragoon Saga: An oral history
AZEL -パンツァードラグーン RPG-:口述記録

現在もファンに愛され続けている名作「AZEL -パンツァードラグーン RPG-」が発売20周年を迎えた本年、私たちは開発に関わった15人の方々に当時を振り返っていただいた。

By James Mielke Apr 30, 2018, 12:00pm EDT

ーーーーセガサターンの実力を初めて世に示したのは、セガ日本の社内開発チーム『チームアンドロメダ』だった。そのデビュー作はレールシューティングゲームの『パンツァードラグーン』。青いドラゴンとその乗り手を主人公にしたこの心揺さぶる3Dシューティングは、スペースハリアー、デューン・砂の惑星、風の谷のナウシカなどの要素を盛り込み、世界中のセガサターンユーザーに人気を博した。

チームアンドロメダはパンツァードラグーン(1995)、パンツァードラグーンツヴァイ(1996)、AZEL -パンツァードラグーン RPG-(1998)(訳注:以後アゼルと記載)という3つの初期作品を通じて、ドラゴンとその乗り手が謎めいた帝国と対決するという、シンプルだが魅力的な構想を掘り下げていった。2002年にリリースされたパンツァードラグーンオルタ(チームアンドロメダの元メンバーらが移籍した別のゲームスタジオ、スマイルビットが開発)によって、シリーズはさらに継続した。しかし最終的にシリーズの中で最も傑出していたのは、RPG形式のアゼルだった。

表面的に見ただけでも、パンツァードラグーンと、それから大幅に進歩した続編のツヴァイには、決して多くはない各ステージを乗り越え、攻略したいと思わせるに十分な世界観が盛り込まれていた。

しかしゲームのテンボの早さを考えれば、作品内のCGムービー以外の部分で、さらに世界設定に深く入り込むための余地はほとんどなかった。

アゼルはレールシューティングという従来のジャンルから大きく方針を変える異例の手法をとった。その飛躍的に発展した大胆なコンセプトを実現するため、チームアンドロメダの設立者である二木幸生と楠木学はスタッフ増員の必要に迫られた。

以下の記事では、この数奇なRPG――他に類を見ない、前衛的でカウンターカルチャー的体験となるはずだったもの――が、セガサターン最後の大いなる希望と化していったいきさつをお伝えする。携わった人々の話を聞けば、すべての伝説がハッピーエンドを迎えるとは限らないことが明らかになるだろう。これはそんな物語の一例だ。

(お断り:この記事の著者James Mielkeは、ゲーム開発スタジオQ EntertainmentおよびQ-Gamesに在籍していた間、記事中に登場する横田克己氏、吉田謙太郎氏と直接の関わりがあった。)

○キャラクターデザイナー横田克己による、ヒロイン・アゼルのスケッチの模様

■台頭する新星

ーーーーなぜアゼルがこれほど期待される作品となったのか理解するには、それ以前のいきさつを知ることが役に立つ。

開発スタッフは当初セガの第一コンシューマ研究開発部に所属していたが、サターン向けソフトウェア開発を強化するためにチームアンドロメダとして独立した。チームの第一作、パンツァードラグーンは既存のアーケードやコンソールのフランチャイズに属していない、際立ったタイトルだった。パンツァードラグーンの初期二作品はレールシューティング、つまりスペースハリアーとほぼ同じようなものだった。プレイヤーは決まったコースの上を画面の奥に向かって飛びながら、自分に向かってくる飛翔物や敵をできる限り多く撃ち落とすというものだ。

パンツァードラグーン、そしてパンツァードラグーンツヴァイは、作中の表現を最小限にとどめながら、非常に豊かな雰囲気を醸し出していた。ムービーは帝国軍の艦船が逃亡するドラゴンとその乗り手を追いかける短いものが数本だけ、そして劇中の言語は架空のものだった。その三作目がRPG形式を採用して世界をさらに掘り下げていくという知らせに、長きにわたって不遇に耐えてきたサターンファンたちはおおいに歓喜した。しかしアゼルがゲーム業界でわずかでも認知されるには、まずセガはパンツァードラグーンを消費者に届ける必要があった。約15名という、現代ではインディーゲーム並とみなされる規模のチームによって作られた本作は、インスピレーションと若き力が成し遂げた技術の結晶だった。


楠木学(ディレクター、チーフデザイナー)

パンツァードラグーンがセガサターンのローンチタイトルになったのは、セガがすべてのジャンルでゲームを開発しようとしていたからでした。二木さんと私はシューティングゲームの開発を任されたので、パンツァードラグーンの初期企画を作成しました。チームが結成すると、私は美術監督、キャラクターデザイン、環境モデリングとムービーの責任者になりました。シリーズ二作目のツヴァイもほぼ同じチームでの開発で、私は中心的な役割からは多少外れていました。ムービーとドラゴンのデザインを監督しましたが、一作目ほど大きな役目にはついていませんでした。


中西仁(フィールドプログラマー)

私はシリーズ当初から開発に携わっていて、チームアンドロメダに関われたことを光栄に思っています。

岩出敬(エネミーデザイン)

パンツァードラグーン1作目のときは、チームの雰囲気はとても落ち着いていました。楠木さんはとても親切で穏やかなな方だったので、意見の対立はあまりありませんでした。とても楽しい職場環境でした。パンツァードラグーンは初めて3D技術を使ったタイトルだったので、最先端のゲームを作っているという感覚は間違いなくありました。私はまだ若くて3Dの経験は全くなかったので、とても刺激的な仕事でした。フル3Dでリアルタイムレンダリングを行っていたゲームは当時まだ存在していませんでしたから、自分たちが3D技術の先駆者だという感覚がありました。

吉田謙太郎(CG、ムービー)

楠木さんは当時すでにベテランのゲームクリエイターで、二木さんは彼をとても尊敬していたし、楠木さんが生み出したコンセプトアートやビジュアルは驚くべきものでした。彼のアートはよりニッチ寄りで先進的でしたが、二木さんのストーリーはもう少しハリウッド的で、お互いにうまくバランスが取れていたと思います。

楠木学(ディレクター、チーフデザイナー)

シューティングゲームを作れという指示を受けたので、まず頭に浮かんだのは宇宙を舞台にしたゲームでした。スターウォーズ的なシューティングです。(...)しばらくそのようなことを話し合っていました。しかし日本には干支があります。私は辰年の生まれで、それにまつわる子供時代の思い出がたくさんあります。龍というのは、世界中の人々にとってとても魅力的な生き物だと思います。もしかすると、全世界でもっとも印象深い想像上の生き物かもしれません。私は長い尻尾や翼のような、ドラゴンの中心的な特徴さえ残していれば、その一般的なイメージから大胆に離れるという実験ができるのではと考えました。それで、ドラゴンの長い尻尾と翼は残す一方で鎧のような素材をまとわせ、甲殻類のような見た目にしました。この独特な外見のドラゴンを生み出すことで、この架空世界にある程度のリアリティを持たせることができました。当時はそんなことを考えていたと思います。

吉田謙太郎(CG、ムービー)

スペースハリアーは(指摘されているほどには)パンツァードラグーンにとって大きな影響を与えていません、。一番影響を受けたのは、レイフォースというアーケードのスクロール型2Dシューティングゲームです。私たちはこれの3Dバージョンを作りたいと思っていました。『レールシューティング』の要素はエクセライザー(訳注:ジャレコによるアーケードSTG。1987年発売。日本国外でのタイトルはSky Fox。)とナムコのスターブレードから着想を得ました。スペースハリアーはそれほどでもありませんでした。セガがソニックの新作をもっと早くに作らなかったのは大きな機会損失でした。ソニックはメガドライブのゲームなので、セガはサターンのために新しいIPを作りたいと考えて、かわりにクロックワークナイトという横スクロールゲームを作りました。これがすでにあったために、上層部はレールシューティングを作りたいと考えました。上からの決定です。もう一つの理由は、楠木さんがレールチェイスというアーケードゲームの開発に関わっていて、すでにレールシューティングの経験があったことです。それと、メインプログラマーの竹下(英敏)さんはアウトランのようなスプライトを使った3Dスクロールゲームに関わっていました。つまり開発のための技術的ノウハウが揃っていたわけです。

楠木学(ディレクター、チーフデザイナー)

パンツァードラグーンを開発したチームはスペースハリアーとは全く別のチームです。なのでプログラムは流用されていません。当時はチーム間の技術交流がほとんどなく、ゲームエンジンも一から開発していました。しかし着想を得るという意味では、スペースハリアーを議論の対象にした覚えがあります。例えば、自分を通り過ぎた敵や、自分の後ろにいる敵を撃つことができたら面白いだろうと考えました。スペースハリアーを下敷きにして、ジャンルをどのように変更していくか、プレイヤーのゲーム体験を広げていくことができるかを検討していきました。

■アイン、ツヴァイ、ドライ:恐怖

ーーーー第一作がそこそこの成功をおさめ、チームが活気づく中で、パンツァードラグーンツヴァイとAZEL -パンツァードラグーン RPGの開発がほぼ同時に開始された。当初はほとんどの開発リソースがツヴァイに差し向けられたが、アゼルの企画も並行して行われた。チームアンドロメダはより多様な、そして当然だがより多くのキャラクターを考案し、シリーズ初のロールプレイングゲームとなる作品の構想を形作っていった。

アゼルの開発のために、当初のどちらかといえば控えめといえる人数から、50人を超える――しかもその多くは互いに面識もない――規模へと拡大したことで、チームが直面する困難は増すばかりだった。急な増員は一部のメンバーに悪影響をもたらした一方で、楽しく自分の仕事に打ち込むものもいた。

二木幸生(プロデューサー、原案)

とても困難なプロジェクトでした。私の人生の中で一番大変なプロジェクトだったと思います。もう昔のことなので、いい思い出しか残っていませんが、振り返ってみれば、あまりにも多くの困難がありました。

向山明彦(戦闘プランナー)

私が関わったすべてのゲームの中で、一番誇りに思っているのがこのゲームです。なぜかというと、これが自分の人生の中でもっとも困難な経験だったからです。これを乗り越えられたのだから、将来乗り越えられないものなどない、と自信を持って言えるようになりました

酒井智史(ドラゴンデザイン)

リリース日は何度か延期されました。延期のたびに、応援のためのスタッフがチームに追加されていたので、プロジェクトが大変なのだなという印象はありました。しかし当時は私たちも若かったですし、管理職でもなかったので、上の人たちほどにはプレッシャーを感じていませんでした。とにかくゲームを作るのが楽しくて仕方なかった(笑い)。正直、とにかく楽しい日々を続けたかったし、ゲームを作り続けたいと思っていました。

岩出敬(エネミーデザイン)

(酒井に同意して)そうだね、すごく楽しかった。

酒井智史(ドラゴンデザイン)

もし今だったら、開発費が100万円増えるたびに冷や汗をかいていたでしょう。偉い人に怒鳴られてひどく落ち込むと思います。でも当時はそういうプレッシャーを全く感じていませんでした。気づいていなかったわけではありませんが。上の人たちがすごいプレッシャーを受けていたことは気の毒だと思いましたが、自分たちは楽しくゲーム開発をしていたんです。

岩出敬(エネミーデザイン)

私の心配事は、自分たちの作ったものが画面上できれいに見えているかということだけでした。だから私もプレッシャーは感じていませんでした。

楠木学(ディレクター、チーフデザイナー)

チームの人数が多かったために大変苦労しました。状況は必ずしも良好ではなく、メンバー同士の間でも言い争いが絶えませんでした。開発中は皆いがみあっていました。チームが一丸となって動けるようになるまで長い時間がかかりました。最初の二作ではそうしたことはありませんでした。チームアンドロメダの初期メンバーは、最初の二作に関わっていたので、パンツァードラグーンというゲームがどうあるべきかという理想を持っていました。そしてプランナーたちは皆アゼルのためにチームに加わった新顔でした。なので、パンツァードラグーンのオリジナルメンバーたちと、新作のためのアイディアを持つ新しいメンバーがぶつかりあっていました。

石渡(塚原)爾奈(市街デザイナー)

ツヴァイの開発をしていたときは、まだチームがとても少人数で、みんなが全員の名前を言えたのを覚えています。でもアゼルのチームは本当に大きくて、私たちの多くはチームの全体像とか、誰がアゼルの開発をしているのかがわかりませんでした。その人たちがセガで仕事をしているとは認識できたかもしれませんが、名前とかチーム内での役割は知りませんでした。とにかく印象的だったのは、チームの人数が多かったことと、完成までに長い時間がかかったということです。

楠木学(ディレクター、チーフデザイナー)

開発中はなにもかもが大変でした。東京ゲームショーでファンの方々からかっこいいとか、楽しみにしているという声を聞いたのを覚えています。それを聞いて本当にうれしかったのですが、ゲームの開発については楽しい思い出が全くありません。

二木幸生(プロデューサー、原案)

プロジェクトで最も困難だったのは、当時としてはですが、いくつもの目標を同時に抱えすぎてしまったということです。ゲームはフルボイス、つまりすべてのキャラクターの台詞に音声を用意しました。ゲーム全体で3Dリアルタイム処理を行うようにしました。当時でもカットシーンやアクションシーンではリアルタイム処理は一般化していましたが、ゲーム全体をリアルタイム処理で作るというのは誰もやったことがありませんでした。RPGを完全に3Dで作るというのも珍しいことで、それ自体が大変な難関でした。さらに当初シューティングゲームだったものを出来のいいRPGに作り替えないといけない。そのために、一般的なRPGには含まれていない要素をゲーム中に作り込む必要がありました。どの要素もそれだけであれば実現可能に見えましたが、私たちはそのすべてを一度にやり遂げようとしたので、本当に大変でした。

これらは全部、自分たちが遊んだゲームを見ていて、足りないと思った要素でした。『ゲームが全編フルボイスで、リアルタイム3D処理だったらすごくないか?』とか。だからそれらを全部ゲームに盛り込んだのですが、開発はものすごく大変でした。

あまりに膨大な作業になったので、完成させるために人員を増やさないといけなかった。開発チームの人数は50人くらいでした。これほど大きなチームを管理した経験がなかったので、それが理由で発生した問題もありました。

楠木学(ディレクター、チーフデザイナー)

確かにそれはありました。それとチームアンドロメダにはRPGの開発経験者がいませんでした。だからRPGの開発を助けてくれる人をチーム外から連れてきました。二つのジャンルが重なり合うことで多くの衝突があって、同じレベルでのコミュニケーションができませんでした。

今の私がアゼルに抱いている印象は、完成当初とは違っています。当時は全く満足していませんでした。売り上げがあまり振るわなかったというのは一つあります。しかし自分たちが作ったゲームのクオリティにも不満がありました。それが第一印象でした。でも振り返ってみて、自分たちが乗り越えた困難を思うと――フル3Dとか、フルボイスとか、複雑なストーリーとか――大したものだったし、私のキャリアにとって本当に大事な作品だと思います。

アゼルに対する私の不満は、当時の私が自信を失っていたことの反映でした。私は自分のマネジメント能力に満足していませんでした。一番大きな理由は、チームを一つにまとめられなかったことです。困難な状況にもかかわらず、チームは素晴らしい仕事をしたと思います。だから自分が20年前に戻れたなら、マネージャーではなく、アーティストの一人として関わりたかった。チームのマネジメントは他の人に任せて、デザインの質を直接良くしていくことに貢献していきたかったですね。

○AZEL -パンツァードラグーンRPG- におけるエッジのレンダリング

■より良い戦闘システムの開発

ーーーーチームが直面した最大の問題の一つが、ツヴァイの完成度が大幅に上がったことからもわかるとおり、レールシューティングの開発には精通していたが、RPGの開発経験者が一人もいないということだった。人気シリーズの大型新作をRPGに鞍替えしようというときに、これは致命的な問題だ。ここで向山明彦が途中参加する。彼はセガが手配できた中では、最もRPG開発に熟練していた人物だった。(後日、彼はスマイルビットでシリーズのリバイバル作であるパンツァードラグーンオルタのディレクターを務めた。)

向山明彦(戦闘プランナー)

アゼルの前は、私はサクラ大戦に関わっていました。サクラ大戦の制作が終わった頃には、アゼルの開発はすでに始まっていたので、私は途中から参加したことになります。チーム内でターン制RPGの開発経験があるメンバーは多くはなかったのですが、私はその時点で少なくとも3作は経験がありました。そのためRPG開発経験のあるスタッフとして連れてこられたというわけです。

(参加した時には)すでにプロトタイプができあがっていました。ツヴァイのプロデューサーだった近藤智宏さんが作ったものでしたが、まだ様々な問題がありました。ツヴァイは位置取りをベースにしたシューティングゲームで、今の目標はRPGを作ることでした。(チームアンドロメダは)まだシューティングゲームをRPGに作り替えるための良案を見いだせていませんでした。

酒井智史(ドラゴンデザイン)

戦闘システムは何度も作り直しました。最初はカメラが敵の周囲を360度周回していました。その次は正方形のフレームを使う方式で、プレイヤーが4つの枠に沿って動く形でした。何回作り直したかもう思い出せません。そういう作り直しの繰り返しのために、チームには非常に負担がかかっていました。

向山明彦(戦闘プランナー)

透明な3次元の箱を思い浮かべてください。その箱の中に敵がいます。敵の周りを囲んでいる4つの面が、ゲーム画面上でプレイヤーに見えています。プレイヤーがそのうちの面の1つに近づくと、画面が回転して、敵が入っている箱の隣り合う面が表示されます。プレイヤーは画面の右側または左側に動くことで、4つすべての面の上を移動できます。プロトタイプはシューティングと位置取りの組み合わせでした。近藤さんは別のゲームを開発するためにチームを離れたので、私は彼に代わってプロトタイプを引き継ぎ、戦闘システムを完成させないといけませんでした。

二川目真(メインバトルプログラマー)

私は向山さんとは今でも仲がいいですし、時々会ってもいますが、当時はよく喧嘩していました。ツヴァイを完成させた直後から、戦闘システムについてあるアイディアを持っていました。プレイヤーがドラゴンの背中に乗っていて、前を飛んでいる敵機を撃つというシューティングを作ったら面白いだろうと思っていたので、そのアイディアをベースに戦闘システムを作り始めました。このコンセプト自体が、私が面白いと思っただけの適当なアイディアが元だったので、企画の人たちは本当に苦労しただろうと思います。この最新のシステムを開発し始めてみると、私たちの誰にも予測し得ない様々な問題に直面しました。誰もそんなものを作ったことがなかったわけですから。

向山明彦(戦闘プランナー)

このプロトタイプから完成品までの間には本当に多くの変更がありました。最初にプロトタイプのことを聞いたときは「よし、これで完成だな」と思いました。コンセプトがすでにあるので、簡単な仕事に見えました。そもそもゲームプレイの戦略的要素をどう作り込むのかを考えないといけませんでした。どうしてプレイヤーは別の角度に動かないといけないのか? 敵の周りを移動する目的はなんなのか? 最大の問題は、チーム内に2つのグループが存在していたことです。コマンド形式のRPGを作りたい人と、シューティングゲームを作りたい人です。

チームアンドロメダに参加したのは初めてで、ゲームの方向性についてプログラマーとアーティストに多くの権力と発言力があることがすぐにわかりました。チームによっては非常に強力なプランナーがいて、アーティストやプログラマーはただプランナーの指示通りにゲームを作るだけです。しかしチームアンドロメダはその逆でした。プログラマーには思惑があり、アーティストにも自分の思惑がありました。彼らのゲームに対するビジョンはかみ合わず、常にお互いに言い争っていました。プログラマーたちは非常にプライドが高く、ツヴァイでハイエンドなシューティングを作り上げたこともあってモチベーションも高かった。一方でアーティストたちは3D技術を活用したRPGで、きれいなグラフィックを披露したかった。彼らのモチベーションと最終目標はプログラマーたちのそれとは全く異なるものでした。両方を満足させられる案など存在しないと思っていました。それを見つけるまでに1年かかり、たくさんの間違いを重ねる羽目になりました。

岩出敬(エネミーデザイン)

これまで誰もやったことがないものを作ろうという、意識的な決断があったと思います。JRPGの類型からどれだけ外れたものを作れるかを試そうとしていました。それがキャラクターデザインや戦闘のスタイルに反映されています。すでに当時はRPGといえばファイナルファンタジーとドラゴンクエストの代名詞でした。しかし私たちはプレイヤーが一人のキャラクターだけを操作することができて、ドラゴンの背に乗って戦えるゲームを作りたかった。キャラクターがただ3Dでできているだけではなく、3D環境をあらゆる方向に歩き回れる、没入的な3D世界を作りたかった。サターンのハード仕様の制限は承知の上で、プロジェクトの初めからそういうものを作りたいと思っていました。

向山明彦(戦闘プランナー)

開発の途中で、私は自分の思うとおりに戦闘システムをデザインできる権限を与えられました。しかし自信をもって解決策を見いだせたと思えたのは、本当に開発終盤になってからでした。大きなブレイクスルーが起きた瞬間がいくつかありました。

最初のブレイクスルーは、先ほど話した透明な箱に関わっています。私はこの箱のコンセプトを実現して、プレイヤーがリアルタイムに敵の周囲を移動できるようにしたいと考えました。最初はFPSのようなフリーローミング形式がこのゲームに適していると思っていました。しかし実際には自由移動はゲーム内のカメラや進行ペースとうまく合いませんでした。まどろっこしく感じられたし、ゲームのペースを落としてしまいました。しかし(敵を中心軸として)十字キーの左右で(位置取りをすることで)飛んでいる感覚をうまく再現できるようになりました。同時にカメラの動きも改善しました。

4つの視点は敵の大きさによって調整が可能だったので、アーティストは一番インパクトが大きくなるよう、キャラクターがかっこよく見えるように自由にカメラアングルを調整することができました。最初は私も4枠方式のプロトタイプにこだわっていたのですが、4視点モデルを使うことで、戦闘シーンでのビジュアルとペーシングの問題を解決できました。これが一つ目のブレイクスルーでした。

二つ目はゲージを3つにすると決めたときだと思います。これによって、ボタン一つですぐに撃てる通常レーザーと、より大きくて強くて見た目も派手だが、撃つためにすべてのゲージを消費する強力なレーザーの差別化ができました。

もう一つ、かっこいいビジュアルを作り込みたいアーティストを喜ばせるためのアイディアがありました。ファイナルファンタジーでは、キャラクターが特定のアクションを取るときに必ず再生される短い映像シーンがあります。アーティストたちはアゼルでもそうした短いアトラクトシーン的なものを盛り込みたいと考えていました。しかしプログラマーの方はゲームを極力シューティング側に寄せたいと思っていました。そこで両方の希望を満たすために、プレイヤーはボタン一つで、コマンド入力なしに従来のゲームと同じようにレーザーを撃てるようデザインしました。当初はゲージが一つしかなかったのですが、複数のゲージをもうけることで、これまでのゲームプレイに欠けていた選択の要素、戦略的な要素が生まれました。

開発中の変更点はあまりに多かったので、全部をここで話すことはできないのですが、ドラゴンはその一例でした。(ある時点では)ドラゴンは複数の異なる攻撃形態に変化することができました。プログラマーチームはそれぞれの形態を4つのボタンに割り当てたいと主張しました。水・火・氷・風といったふうにです。しかしこのプランでは、動的に様々な形態にモーフィングするドラゴンのデザインが難しくなり、デザインを行うアーティストも賛成しませんでした。そこで折衷案として、4種類のドラゴンを作り、ドラゴンのパラメータをアナログ的に設定できるようにしました。この案が最終的にゲームに採用されました。

二川目真(メインバトルプログラマー)

プランナーとアーティストはすべてをうまく動かす方法を編み出すために密に協力していました。モーフィングを実現するには、(アーティストが)ポリゴン上の頂点のうち、飛び出す、または引っ込むものを最適化する必要がありました。通常であればアーティストは成果物の美しさだけを考えていればよかったのですが、アゼルでは開発の技術的側面も考えないといけませんでした。これを実現できたのはひとえにドラゴンデザインの酒井さんと、スーパープログラマーの山尻さんの功績だと思います。私たちは彼らから戦闘システムのコードを受け取り、戦闘やマップといったこちら側の領域にはめ込んでいきました。

向山明彦(戦闘プランナー)

今思い出したのですが、二木さんがディアブロのようなアイテム収集の要素はどうかと提案してきました。でも私は戦闘システムの検討で忙しすぎて、アイテム収集にはかまっていられませんでした。

岩出敬(エネミーデザイン)

あの戦闘システムはあまりに独特だったので、今に至るまで似たようなものは見たことがありません。ユニークな戦闘体験に加えて、初代パンツァードラグーンやツヴァイのようなシューティングゲームの雰囲気に近い、非常にアーティスティックなゲームを作ることができました。移動中にゲージの増加が止まること以外にも、操作感覚はアクションシューティングに近く、RPGの戦略的要素もあります。ユニークかつ非常に楽しいゲームを作ることができました。これは向山さんと二川目さんのおかげです。

向山明彦(戦闘プランナー)

ほかにも没になったアイディアはいくつもありました。私の前の戦闘ディレクターはアクティブタイムバトル(ATB)を提案していました。ファイナルファンタジーのようなRPGではよく使われる、画面上のキャラクターをプレイヤーが選んで操作する形式です。しかしアゼルではキャラクターはドラゴンに乗っている一人だけなので、前のディレクターはキャラクターの代わりに様々な武器を切り替える案を出していました。しかしそれではほかのRPGに似すぎていたので、チームに却下されました。

■長く失われたチームアンドロメダのゲーム

ーーーーチームアンドロメダはゲームを三作しかリリースしなかったものの、ある時点では四作目の秘密のプロジェクトが進行していた。その詳細は明らかではないが、古株のチームメンバー、吉田謙太郎によると、一部のメンバーが空き時間に作り始めたものだという

「初代のパンツァードラグーン制作が終わった後、ツヴァイとアゼルの制作が相次いで始まりました。私はツヴァイに深く関わっていて、二木さんはアゼルの方に集中していました。ツヴァイが完成した頃には、アゼルはまだ開発の最中でしたが、実はもう一つ、私とツヴァイのリードプログラマー数名(須藤純一、安原祐二)が率いるサターン向けのプロジェクトがありました。」(...)

「このゲームが日の目を見ることはありませんでした。業界がプレイステーションに席巻された後のことだったので、パンツァードラグーンのシリーズとは無関係でした。もっと『かわいらしい』ゲームでした」

○本記事のためにアゼルのデザイナー酒井智史から提供いただいた、ドラゴンのモデル画像

■2D特化型ゲーム機で動かす3D RPG

ーーーー通常の3倍の人数のチームを指揮するのは十分すぎる難事だったが、2Dスプライトに特化したゲーム機上で動く3D RPGを開発するのはもはや喜劇に近かった。もちろん、チームアンドロメダは最初のレールシューティング2作品を完成させている。しかしこの2作は決まったルートを通るもので、プログラマーによる最適化も簡単だった。すべてはスクリプトで定義されていて、クリアまでにかかる時間も決まっているためだ。一方アゼルではプレイヤーが思いのままに探索を行うことができたし、新しい戦闘システムも備え、3Dの世界を作り出すためにサターンの性能を限界まで駆使する高い技術力が必要だった。プログラマーとデザイナーたちには激務が待ち受けていた。

二木幸生(プロデューサー、原案)

このチームは最初のパンツァードラグーンからサターンに関わってきた開発者の集まりだったので、経験も豊富で、サターンで効率的なプログラムを作る用意ができていました。さらにRPGに熟練した開発者も引き入れたので、その意味では十分な人員が揃っていました。3Dデモについては、プログラマーがオブジェクトをレンダリングして表示し、すぐにフィードバックを返せるツールを開発しました。おかげで作業を迅速に進めて、ゲームにボリュームを持たせることができました。

また、プログラマーとアーティストは物事を無駄なくシンプルに保つために、非常に良く協力してくれました。たとえば、プログラマーが開発初期に、4つの異なるドラゴンのモデルを全く同じ数のアンカーポイントで作れば、プログラムでドラゴンの形態変化をシームレスに表現できると提案してきました。アーティストはそのアイディアを取り入れて、これまでにない方法でドラゴンをデザインしました。このプログラマーとアーティストの共同作業のおかげで、ゲームを完成させることができました。

二川目真(メインバトルプログラマー)

私はゲーム内の戦闘シーンのリードプログラマーでした。5人のチームの責任者でした。パンツァードラグーンシリーズにはツヴァイから関わっています。当時はボス戦闘を担当していて、その後アゼルの戦闘シーケンスの責任者に配属されました。

中西仁(フィールドプログラマー)

私は3Dマップのリードプログラマーでした。プレイヤーがドラゴンに乗って、様々な場所を移動する際の画面です。役割はプログラミングだけではなく、各シーンのデザインや企画も行いました。シリーズには最初のパンツァードラグーンから関わっています。

楠木学(ディレクター、チーフデザイナー)

機能面では、スクロールの使い方はセガサターン独特のものでした。プレイステーションにはポリゴン機能がありましたが、サターンにはありませんでした。そのためサターンではスプライトを3Dオブジェクトの形に合わせて変形する必要がありました。別の言い方をすれば、テクスチャを貼り込んでいない素のポリゴンモデルを作る必要がありませんでした。それでより深みのあるイメージを作ることができました。当時はそういう考えをしていなかったのですが、私たちの意気込みとしては、サターンでできないことがあるのではなく、工夫をすればどんなことでもサターンでできる、と考えていました。デザイナーたちもサターンのこうした制約を乗り越えることにやりがいを感じていました。プレイヤーのドラゴンをデザインした酒井さんは素晴らしい才能で、サターンの能力を最大限に引き出し、誰もが不可能と思っていたことを可能にしました。いろいろな制約のおかげで、逆により良いものを生み出せたわけです。

私はプログラマーではないので、(セガの既存のライブラリを使わず、ゲームの機能を一から作った)理由は分かりません。セガには確かにグラフィックライブラリがありましたが、私たちの製作スケジュールに合わなかったか、あるいは締め切りまでに提供が間に合いませんでした。それに私たちには腕のいいプログラマーが揃っていたので、古い素材に頼るよりはいちから書く方が早かったのです。

二川目真(メインバトルプログラマー)

私たちはアーティストとも沢山議論をしました。決して険悪にはなりませんでしたが、どちらも意見を出し合い、向山さんのようなプランナーやディレクターが間に挟まって調整をしました。彼らの立場には同情していましたが、こちらも非常に気が立っていたし、プレッシャーもかかっていました。思い返すと、必要以上にきつい言葉で彼らに食ってかかったことも何度かありました。ちょっと恥ずかしいですね。

中西仁(フィールドプログラマー)

ツヴァイではプレイヤーはレールに沿って動くので、移動できる範囲に制限がありました。また、プレイヤーが見通せる距離をコントロールすることもできました。しかしアゼルは3D環境なので、プレイヤーは自由に移動できるため、プレイヤーが何をどのように見ることができるかを予測できませんでした。セガサターンの3D環境の処理にも制約があったので、そうした要素をコントロールするのに非常に苦労した記憶があります。(...)

(サターンの制約によって)プレイヤーが飛べる高さが決まります。高度が高くなるほど、プレイヤーが見通せる距離が長くなります。そのためプレイヤーが地平線を見られる角度を調節して、見通し距離を制限しました。こういった調整を一杯やった覚えがあります。

二川目真(メインバトルプログラマー)

(中西と塚原に尋ねて)戦闘に入る前の渦巻きは誰が作ったんだっけ? 担当グループがいたと思うけど。(笑い)こういうトランジションの担当チームもいました。こちら側には戦闘やマップや町並みといったパズルのピースがあって、別のグループはそのピースをまとめて1つに織り交ぜる処理をしていました。

○エッジとドラゴンのコンセプトアート(チームアンドロメダ/セガ)

■ドラゴンのように:アゼルの美術

ーーーーアゼルのビジュアルは圧倒的でなくてはならない、という点ではチームの意見は一致していた。一作目と二作目のビジュアルは、モンスター、ドラゴンに飛行船が空を飛び交う荒廃世界を違和感なく描いた、一目見ただけで引き込まれるようなスタイルで名を馳せていた。アゼルではこのクオリティを保つだけでなく、さらに高めていく必要があった。楠木は初期2作において最初のブルードラゴン、キャラクターデザインとアートディレクションを主に担当してきたが、アゼルではこれまでの作風をリミックス・拡大するために、多様なキャラクターデザイナーとイラストレータを起用した。その一人がキャラクターデザインとパッケージ及びキーアートのイラストを担当した横田克己だった。横田は後にRezのアートディレクターを務めたが、彼の大ブレイクはパンツァードラグーンツヴァイのイラストに始まり、それがアゼルの伝説的アートワークへとつながっていった。

横田克己(キャラクターデザイナー)

パンツァードラグーンのチームにはセガに入社してから2年くらい後に参加しました。参加した当時はツヴァイを作っていましたが、開発の終盤になるまで参加できませんでした。クレジットにエンディングシーンを追加するという決定があり、私は多少CGの経験があったので、上司の岩沢一之さんと一緒にエンディングシーケンスを担当することになりました。(岩沢さんは)非常によく面倒を見てくれたのですが、残念ながらゲームのリリースから少し後にバイクの事故で亡くなりました。またゲームのパッケージデザインもやらせてもらいました。まだ若くて経験もなかったのに、本当にすごいことです。パンツァードラグーンシリーズのパッケージデザインという大任を与えられて、とても興奮したのを覚えています。

私はアーティスト・イラストレーターのメビウスの作品の大ファンで、彼は最初のパンツァードラグーンのカバーアートを描いていました。なのでセガに入る前は、パンツァードラグーンのチームで仕事をするというのが私の夢でした。パンツァードラグーンがなければ、家庭用機ではなくアーケードゲームの仕事をしていたと思います。なのでアゼルの開発に配属されたのは大変運が良かったです。

ツヴァイのエンディングクレジットに使われたイラストも描きました。最初のパンツァードラグーンのエンディングCGは沓澤龍一郎さんという方が担当していました。彼は今ではとても有名なアーティストで、イラストレーターの間でもカルト的な人気があります。そこから私がバトンを受け取れたのは大変光栄でした。すでに尊敬する方たちが何人もかかわったプロジェクトの一員になれて、本当に幸せな気分だったのを思い出します。バッケンローダーやフロントミッションオルタナティブで、沓沢さんのキャラクターデザインをご存じの方もいるかもしれません。

二木幸生(プロデューサー、原案)

楠木さんはアートディレクターで、第一作からシリーズに関わっています。楠木さんがドラゴンをデザインして、酒井さんがディテールアップとモデル作成をしたと思います。本当に昔のことなので、詳しい役割分担までは覚えていません。ただ酒井さんの技量のおかげで、ドラゴンに生命が吹き込まれたのは間違いありません。彼はいつでも素晴らしいアーティストでした。今ではファンタシースターオンラインのディレクターを務めています。すっかり有名になりましたね。

酒井智史(ドラゴンデザイン)

横田さんは私の3Dモデルを元に2Dのイラストを描いていました。私はパッケージアートの作成には関わっていませんが、ドラゴンを一からデザインしていたので、彼のイラストは私のデザインが元になっています。ドラゴンのモデルをソフトウェアビューア上でセットアップし、好きなようにポーズをつけて、レンダリングした3Dモデルを印刷し、その印刷したレンダー結果に彩色をしていたと思います。

横田克己(キャラクターデザイナー)

うーん。正直な話をすると――こっちの方が読者には面白いよね?(笑い)――私はあまり怪獣スタイルのモンスターが好きじゃないんです。でも酒井さんはゴジラみたいな怪獣が大好きでした。熱狂的なファンでしたね。最初のパンツァードラグーンのエレガントなドラゴンと比べると、彼のデザインはもっと凶悪で怪獣に近い。酒井さんは自分が好きなタイプのドラゴンを描いたけど、もっと大衆向けに受けのいいドラゴンを描かないといけないという気持ちもあったのでしょう。最初はあまり彼のデザインは好きではありませんでした。あまり怪獣には思い入れがなかったし、一作目のドラゴンのデザインの方が好きだったので。イラストとして自分で描いた際は、もっとカッコよく、ゲーム中のセンスやキャラデザインに合わせるように描こうとしていました。

でも今になってドラゴンのデザインを見ると、実にかっこいいなと思えます。酒井さんのドラゴンデザインもとてもいいです。当時は子供向けのテレビ番組に出てくるような、幼稚なものだと思っていました。今では全くそんなことは思いません。今は酒井さんのドラゴンは大好きだとはっきり言っておきたいです。(アゼルのアトルムドラゴンは)植田隆太さんがデザインしました。彼はその後ジェットセットラジオのディレクターになりました。植田さん、岩出敬さん、それと中山さんはエネミーと戦艦のデザインをしました。この三人はとてもスタイリッシュでロックでした。デザインはいつも本当にかっこよくて、ファイナルファンタジーでは見かけないようなものでした。

楠木学(ディレクター、チーフデザイナー)

風の谷のナウシカには影響を受けたと思います。あの映画は好きで、何度も見ていました。認めたくはないですが、私のデザインに影響はあったと思います。デューンについては、実は何週間か前に初めて見ました。パンツァードラグーンとデューンが似ているという指摘が多かったので、今になってやっと見たというわけです。劇中のプロダクトデザインにはとても感心しました。しかし今になるまで見たことがなかったわけですから、パンツァードラグーンの制作中には影響は受けなかったと言って良いと思います。

酒井智史(ドラゴンデザイン)

個人的には、最初のブルードラゴンはとても好きですが、ツヴァイのドラゴンはつまらないし、初代ほどかっこよくはないと思っていました。アゼルではかっこよくて魅力的なドラゴンをデザインしたかった。プレイヤーがドラゴンの背に乗るわけですからなおさらです。しかし開発の途中で、ドラゴンがモーフィングして様々な形態に変化することが決まりました。私は基本形態のドラゴンを5、6体デザインしました。さらに立ち姿とか、翼が少し大きくなるといった、そこから少し進化したドラゴンの形態デザインを行いました。最後に4つの戦闘タイプに合わせた形状をデザインしました。スピード、防御、あと残りの2つは今は思い出せません。

楠木学(ディレクター、チーフデザイナー)

一作目とツヴァイ以来のドラゴンがあったので、ドラゴンのデザインについてパンツァー世界との一貫性を保つのはそれほど大変ではありませんでした。植田さんはとても面白いデザイナーで、彼のデザインに合わせて環境を作り込むよう頭を使いました。そちらの方が面白かったと思います。デザイナーはパンツァー世界をさらに広げる手助けをしてくれました。私の関心は既存のものに合わせることではなく、さらに拡大していくことにありました。酒井さんはブルードラゴンをとても気に入っていて、デザインがいつもブルードラゴンに戻っていくので、もっと違ったことをしてみるよう背中を押し続けないといけませんでした。

二木幸生(プロデューサー、原案)

ブルードラゴンが一番好きですね。

酒井智史(ドラゴンデザイン)

一番困難だったのは4つの形態を持ってきて、その間でモーフィングしている状態をビジュアル化することでした。それぞれの形態同士の中間モデルを全て作る必要がありました。そういうやり方です。『ライトウイング』という最後のドラゴンは単独(のクリーチャー)でしたが、残りのドラゴンはそのようにデザインしています。楠木さんはシュールレアリズムが好きな本物のアーティストなので、私はそのセンスをデザイン中に生かそうとしました。当時はエヴァンゲリオンをずっと見ていたので、『ライトウイング』のデザインはエヴァンゲリオンに強く影響されています。

横田克己(キャラクターデザイナー)

開発チームとデザイナーはとてもアバンギャルドで、反体制的でした。既に誰かがやったことや、受けがいいものをなぞるのを好みませんでした。オリジナルでユニークでなくてはいけなかった。自分たちのこと、作っているものに非常に誇りを持っていました。彼らと一緒にいて、あの環境でゲームを作れたのは楽しかったです。常識に逆らったことをする、という暗黙の合意があったと思います。みんなメビウスやスターウォーズが大好きでした。何と言えばいいか……当時はファイナルファンタジー7とバイオハザードが人気でした。人気があったのはファイナルファンタジー7に出てくるようなキャラクターデザインでした。でも私たちはその型を破りたかった。当時人気のあるものに対してカウンターになるようなものを作るんだと、全員が本気で思っていました。

岩出敬(エネミーデザイン)

パンツァードラグーンを作っていたときは、これまで誰も見たこともないものを作ることに主眼がありました。戦闘チームのアーティストはそれを非常に意識していて、いつもメンバー同士で競いあって、よりユニークで独創的なものを作ろうとしていたを覚えています。アート的な観点から言えば、誰も見たことのないスタイルを作り出そう、ということをプロジェクト当初から意識していました。シルエットにしても実体にしても、馴染みのないものを作ると。それを常に意識して学びながら、自分のデザインにも反映していました。

横田克己(キャラクターデザイナー)

確かにアゼルはユニークなRPGだと思います。ファイナルファンタジー7と比べても、独特で深いゲームでした。ただファイナルファンタジーはマスマーケット向けにデザインされて作られた一方、アゼルはもっとニッチで変わったゲームでした。開発チームの面々も大衆受けするメインストリーム向けの商品を好きなタイプではありません。みんなニッチで、オルタナティブでロックンロールでアバンギャルドでした。だから仮にアゼルがファイナルファンタジー7の前にリリースされていたとしても(売上の)結果は同じだったと思います。ゲームはとにかくユニークでないといけなかった。私は主人公のエッジのデザインを担当しました。当時は主人公はトゲトゲ頭というのが類型でした。でもトゲトゲ頭の主人公なんてデザインしたくなかったのです。主人公はこうあるべきといったステレオタイプなイメージをそのまま使いたくはない。チームメンバーのほとんどはそう考えたと思います。当初から開発のあらゆる段階で、規範への抵抗と、予想を裏切るものを作る、という意図がありました。だからこんなにユニークなゲームが作られて、20年後になっても語り継がれているのだと思います。

○保存状態のアゼルを見上げるエッジ(チームアンドロメダ/セガ)

■少女のこと

ーーーードラゴンを脇に置くと、横田が課された難題の1つは作中の象徴的ヒロイン、アゼルだった。この一人のキャラクターだけに6ヶ月を費やし、横田は自分の限界を試すことになった。しかし時には偶然が事態を打開することもある。

横田克己(キャラクターデザイナー)

セガが私の最初の仕事でした。私がプロジェクトに入る前に、すでにキャラクターデザインを含め、アートワークやプリプロダクション素材がいくつか用意されていました。そのキャラクターデザインは楠木さんが描いていたのですが、素晴らしいものでした。なので実際、私がデザインしたとはっきり言えるキャラクターは数人しかいません。ほとんどはただ楠木さんのスケッチを私がイラストにしただけです。本当に自分がデザインしたと言えるのはツァスタバ(悪役のパイロット)とアーウェン(クレイメンの副官)だけですね。他のキャラクターは楠木さんのデザインを私が整えたものです。

私の主な仕事は楠木さんのデザインのアレンジとクリーンアップではありましたが、アゼルについては苦労した覚えがあります。アゼルはいくつもバリエーションを描きました。楠木さんからの指示は、アゼルはゲームのヒロインだから、かわいくて愛嬌がある感じにしてほしいけど、人間ではないと。つまり(指示は)『あまり人間っぽく見えてはいけない』です。そういうパラメータでした。ただかわいいだけではダメです。どこかとげとげしい感じがないといけない。ではかわいいとはどういう意味か? 人間らしいとはどういう意味か? そんな問いに苦心しました。

楠木学(ディレクター、チーフデザイナー)

横田さんにはアゼルの非常にラフなスケッチを渡して、クリーンアップして仕上げるよう頼んだと思います。キャラクターデザインで最も大事なのは、モニターの向こう側に説得力のある世界を造り上げることだと思います。デザインに矛盾やうそがあったら、それがどれだけ小さなものでも、プレイヤーがゲームに入り込めなくなってしまう恐れがあります。たとえば、戦う戦士がドレスを着ていたり、衣類をほとんど身につけていないとします。作っているのがそういう世界であればそれでもいいでしょう。しかしパンツァードラグーンで私たちが作っているのはそういう世界ではありません。戦士は身を守るために鎧を着けているし、動き回る邪魔にならない服を着ています。プレイヤーが『その状況でそんな格好をするやつはいないだろう』と口走ることのないように、私はできるだけ真実味が生まれるようなキャラクターデザインを行いました。

横田克己(キャラクターデザイナー)

アゼルはかわいいのですが、古代文明によって作られた人造人間です。本当にたくさんのアゼルのバリエーションを描きました。チームはアゼルのデザインに時間をかけることを認めてくれました。アゼル一人だけで3ヶ月から6ヶ月はかけたでしょうね。楠木さんのスケッチはありましたが、それは普通の髪型で、代わりに身体が白黒の模様に覆われていました。よくできたデザインでしたが、楠木さんの求めているものには一致していませんでした。人間に近すぎたんです。私は様々なアイディアやスケッチを出しました。その中で、後頭部からロープのような何かが伸びている絵を楠木さんが見つけました。それを見て『なんだかよく分からないけど、かわいいし変わってるね』と。私もやっといい案がみつかったような気がしていて、彼がそう言ってくれたのを聞いて非常に嬉しかったです。

■アゼルはザ・フーのオマージュだった?

ーーーー海外でパンツァードラグーンサーガと呼ばれている本作は、日本ではキャラクターの名を取ってアゼル -パンツァードラグーンRPG-と題されている。アゼルは最初は敵役として登場し、後に主人公エッジの側につく。キャラクターデザイナーの横田克己によると、アゼルの外見はイギリスのロックバンド、ザ・フーからも着想を得たという。

「あの緑のコートを着たアゼルの絵は、単に私が(イギリスのファッションスタイルの)モッズコートが好きだったからです。当時は『さらば青春の光』という映画が大好きでした。モッズコートを着たある青年の話です。スティングも出演していました。ああいうファッションが好きだったので、アゼルのデザインが行き詰まっていたとき、やけになってモッズコートを着たアゼルを描いたんです。ディレクターの二木さんがあの絵をすごく気に入って、『これだよ! こういうのが良かったんだ』と言っていました。(最終的に)モッズコートはクレイメンの持ち物だった大きな赤い革ジャンに変わりました。クレイメンはアゼルを保護していて、アゼルは彼のコートを保護のしるしとして着ています。保護者の大きすぎるジャケットを着た少女のイメージは、アゼルのアイデンティティと、クレイメンへの忠誠を伝えられると思いました。」

○アゼル -パンツァードラグーンRPG- (チームアンドロメダ/セガ)

■実在感のある世界

ーーーー重要にもかかわらずあまり注目されていない要素にアゼルの舞台設定がある。土色の色彩で覆われた崩壊世界は、従来のゲームでは例のないレベルで、細部に至るまで鑑賞に耐えうるものでなくてはならなかった。当初チームでは二人のメンバーがその役を任されたが、やがてたった一人に減らされた。アゼルの市街デザイナー、石渡(塚原)爾奈である。

石渡(塚原)爾奈(市街デザイナー)

私は町並みの背景のリードアーティストでした。ほとんどの部分では2Dビジュアルとスケッチはすでにあったので、私は追加の2Dビジュアルと3Dビジュアルを作りました。パンツァードラグーンシリーズには前作のツヴァイから関わっていましたが、その時はいちアシスタントでした。

中西仁(フィールドプログラマー)

二人でいくつかのテストを行いました。滝で水が落ちるエフェクトをポリゴンではなくスクロールでやるかどうか、といった議論をしたような気がします。あとは地面に穴を開けて、そこに水が流れ落ちる様子を見せるとか。そういった話です。

石渡(塚原)爾奈(市街デザイナー)

最初に集中したのは、今作っている町並みの裏にどんな文化があるのかを理解することでした。街は荒れ地の中にあると聞いたので、建物には窓を作らないようにしました。建物の外側の素材は粘土や岩に見えるようにしました。特に理由はないのですが、階段は建物の外に出しました。でもなんとなくかっこよくて似合っているように思います。そうやって、まずは町並みの外観や雰囲気の基本的なルールを作りました。それが固まってから、街の中に住んでいる人たちの外見や仕事、どんな道具を必要としていて、どんな使い方をしているか、食器や食事はどんな形なのかを決めていきました。そうしたディテールを固めた後、ストーリーに目を通して、それぞれのキャラクターをストーリー中の役割に合わせてワールド内に配置していきます。合わせて、特定のキャラクターが居室に置いておくであろう道具などのモノも追加します。つまり街全体の文化や生活スタイルを最初に決めて、次にストーリーに合わせるようにディテールを追加していきました。

さっき開発チームの人数が多すぎて、全員を知っているわけではなかったという話をしましたが、アーティストは全員、それぞれが何の担当かを知っていたし、互いに協力していました。

私たちはいつも楠木さんと一緒に作業をしていて、彼が街の大体の感じを伝えてくれましたが、実際にはほぼ私たちが思い通りに作ってよい状態でした。戦闘やドラゴンと違い、町並みはメインキャラクターと直接交わる部分があまりないので、横田さんとはあまり一緒に作業することはありませんでした。もちろんキャラクターは街中を歩き回るので、そこで齟齬があってはまずいですから、こちらが作ったものについてはちゃんと横田さんと確認をとりました。それと例えば、キャラクターが身につけている宝石が市場で売られているものと一致しているようにしたかったので、統一のためにアーティストの間で情報共有はしていました。

○アゼルより、背景のレンダリング(チームアンドロメダ/セガ)

■始まりと終わり

ーーーーパンツァードラグーンシリーズに共通する重要な売りの一つが、先駆的なCGムービーだった。シリーズ最初の二作では、CGカットシーンは接近する戦艦、古代遺跡、放浪する砂漠のハンターたち、そして陰鬱な夜空に浮かぶ青いドラゴンといった、謎めいたばらばらのイメージをつなぎ合わせたもので、そこにはナラティブ的な重みがあった。アゼルでは、そのCD4枚分の高品質なCGストーリーテリングに重点が置かれた。チームアンドロメダは西山宗弘と雲野雅弘をリーダーとしたムービーのスペシャリストチームを編成し、アゼルのゲームプレイの各パートをつなぐ映像の製作を行った。これは当時としては前代未聞のボリュームだった。

西山宗広(オープニングCGムービー制作)

私はアゼルのオープニングムービーを監督しました。ストーリーボードと大まかなストリーラインを作成しています。雲野さんはそれを引き継いで仕上げました。肩書きは『CGムービーマネージャー』だったと思います。

雲野雅弘(エンディングCGムービー制作)

私の肩書きは『CGムービーアーティスト』でした。楠木さんはイメージボードアーティストだったので、私は楠木さんからキャラクタースケッチをもらい、それをCGのキャラクターにコンバートします。西山さんはオープニングムービーの責任者だったので、私はエンディングのストーリーボードを担当し、二人でゲーム内のカットシーンのCGムービーを作りました。二人ともゲーム全体にわたって、様々なCG部署と関わっていました。

西山宗広(オープニングCGムービー制作)

当時のセガは完全にゲームを内製していたので、私たちの部門はアゼルで使われた全てのCGムービーを作成していました。

雲野雅弘(エンディングCGムービー制作)

(西山に)アゼルの前は何でしたか? ナイツ?

西山宗広(オープニングCGムービー制作)

そうですね、アゼルの前はナイツ(Nights Into Dreams)をやっていたと思います。事務所での席は(アゼルのチームに)とても近かったのですが、キャラクターデザインやキャラクターモデルのアセットの同期はあまり行っていませんでした。大体同じように見えるようチェックはしていましたが、チーム同士の交流はあまりありませんでした。お互い別々に作業をしていたように思います。

雲野雅弘(エンディングCGムービー制作)

アゼルの開発が始まった当初、私はナイツに関わっていました。ナイツが終わった頃、アゼル関連のスケッチがいくつか仕上がっていたので、アーティストから完成したスケッチをもとにCGモデルを作り始めました。私たちが使っていたツールはゲーム開発のチームとは違うものでした。

西山宗広(オープニングCGムービー制作)

そうですね。ツールは別だったので、アセットを共有するのは現実的ではありませんでした。モデルの外見を近づけるよう注意はしましたが、データはシェアしませんでした(...)

二木さんから文章でストーリーラインをもらいました。それを受けてストーリーボードを作ります。文章には物語の舞台について詳しい指示がなかったので、雰囲気や背景は二木さんの指示に従って作ったと思います。制作についてはかなり自由にやらせてもらいました。オープニングムービーの中での出来事と、ゲーム本編の間にはあまり関連がなかったので、一貫性を保つという点ではあまり心配はありませんでした。(...)

(実際には)一つありました。ある敵のキャラクターがいます。名前は覚えていませんが、好戦的なキャラクターでした。ムービーの中では重量感のある大男です。しかし実際のゲーム中では細いキャラクターになっていました。開発中に確認しておけば良かったと悔やんだのを覚えています。序盤にこのキャラクターがエッジを撃つシーンがあります。なのでこいつは典型的な悪役だと思っていました。ゲーム開発が進む間にキャラクターのイメージが変わったのかもしれませんが、CGムービー上のモデルは早い段階で作られたので、後でキャラクターが変化した可能性もあります。

雲野雅弘(エンディングCGムービー制作)

マトリックスのように空の箱(編者注:映画マトリックス内で、格闘技の訓練シーンに登場する武器がずらりと並んだ道場のこと)と仮のアセットを用意して、箱を埋めてから細かいところを手直ししていく、という感じでした。

西山宗広(オープニングCGムービー制作)

一部のキャラクターのような、いくつかの重要な部分は私たちが着手した時点ですでにデザインされていました。それを使って作業を進めていくことができました。そうでないものは、作業を進めながら仕上げていきました。

雲野雅弘(エンディングCGムービー制作)

当時はまだCGはとても新しいものだったので、この仕事は最先端でした。セガの中だけでも、これは他のほとんどのタイトルと比べても『アート的』でした。アーティストが多数関わっていた、という意味でです。アート的な試みでした。当時はビジュアルの質も非常に低く、現在のCG部門が持っているような設備もありませんでしたが、ゲーム内には比較的長時間のCGムービーが盛り込まれていました。振り返ってみると、チームアンドロメダはとても野心的だったと思います。

西山宗広(オープニングCGムービー制作)

アゼルは非常にオリジナリティの高いゲームだと思いました。独自の世界を構築するために、背景やストーリーはよく考えられていました。私が参加する前の作品もとても立派だと思います。オリジナルのシリーズは全部で三作ありますが、最初の二作に比べてもアゼルはユニークでした。アゼルに類するものはほかにありません。アゼル以後もドラゴンを主題にしたゲームはありましたが、パンツァードラグーンの世界ほどユニークなものはなかったと思います。

個人的に映画監督になりたいという夢があったので、(CGムービーの制作は)当時の私にとっては好都合でした。映画制作とまったく同じというわけではありませんでしたが、今までやってきたことと流れは一致していると思いました。セガを離れてからはアニメーションを手がけています。なのでセガでの仕事と似たようなキャリアを続けていますね。

雲野雅弘(エンディングCGムービー制作)

セガにはゲームアーティストとして入社しました。入社時期は二木さんや吉田謙太郎さんと同時期ですが、後でムービー制作に転属しました。CGでストーリーを伝えるという仕事はとても楽しかったです。ただアゼルのころには、私の職務はプロデューサーやディレクター寄りになっていて(編注:雲野はPS2ゲームShinobi、およびKunoichi -忍-などの制作統括を務めている)

○AZEL -パンツァードラグーンRPG- より、エッジとドラゴン(チームアンドロメダ/セガ)

■音楽

ーーーーアゼルの開発では、CGムービーやサウンドトラックなど、チームからほぼ独立して行われた部分もあった。これによりアゼルの共同作曲者、小林早織(南波真理子と共作)のようなクリエイターたちが作業に集中することができた。ゲーム版のサウンドトラックはサターンの強力なサウンドチップをフル活用するために、完全にシンセサイザーで作曲・録音された。しかしセガは最近、独立系レーベルBrave Waveに20周年アレンジアルバムの制作を許諾し、その中にオリジナルサウンドトラックの曲が新たに収録されている。アレンジに際して、小林はトライフォース・カルテットの名手たちを招き、生演奏の豊かな音を楽しませてくれる。

このアルバムを耳にした人は少ないが、ゲームの文脈に限って言えば、アゼルのストーリライター兼デザイナーである二木幸生は、今でもこのサウンドトラックをお気に入りのゲーム音楽として挙げている。
(お断り:記事筆者はこのBrave Wave版サウンドトラックのライナーノートに前書きを提供している)

小林早織(コンポーザー)

うーん。私は音楽がストーリーの反映であってほしいと思っています。音楽を聴くことで、人がゲームのストーリーに興味を持ってくれて、ゲームを遊びたいという気持ちになってほしい。アゼルの曲を書いたときは、それを目標にしていました。私のソロアルバム(Terra Magica)もそうです。あれはゲームのサントラではありませんが、音楽を通じて物語を伝えようとしたものです。私の曲がそれを聞いている人たちの想像力を広げて、旅に出たような気持ちになってくれたらいいと思います。きのうTriforce Quartetの方たちとレコーディングした"Tears"という曲(Resurrection: Panzer Dragoon Saga 20th Anniversary Arrangementに収録)を聞いていて、『なんて悲しい曲なんだろう』と思ってしまいました。(...)

アレンジアルバムのために選んだ曲は、ずっと前から生で演奏したら面白いだろうと思っていたもので、ぜひ実現させたいと考えていました。

二木幸生(プロデューサー、原案)

そうですね。音楽はゲームのクオリティに大きな役割を果たしていると思います。アゼルのエンディングは自分が関わったゲームの曲で一番気に入っています。自分のゲームをひいきしているように聞こえるかもしれませんが、アゼルの音楽はゲーム音楽としてだけでなく、異世界の雰囲気を作り出すという意味でも非常に効果的だったと思います。

アゼルの曲がどれだけ好きかというと、今でも新しいゲームをクライアントにプレゼンするためにモックアップやプロトタイプを作るとき、アゼルの曲をBGMに使っています。ゲームに合う雰囲気を盛り上げるためには、今でも効果があると感じます。

ファントムダストのプロトタイプをシアトルのマイクロソフト社で重役の方々にプレゼンしたときも、アゼルの曲をBGMに使いました。重役の一人が『あなたはアゼルが好きみたいですね』と言うので『好きですって? 私が作ったんですよ!』と返しました。そうしたら『ええっ!?』と。それですぐにファントムダストの企画を採用してくれました。

小林早織(コンポーザー)

今回はアコースティックな楽器でアレンジをするというリクエストがあったので(弦楽四重奏で)書き直しましたが、オリジナルの感覚も残るように、ファンの皆さんにも原曲が認識できるようにアレンジしました。オリジナルの曲を作り直しながら、新しいテクノロジーにできることを最大限発揮するようにしています。今度のアルバムには三つの異なるスタイルがあります。一つはインスト曲。次に原曲に忠実なアレンジだけど、最新のシンセサイザーで演奏した曲。そしてオリジナルから大きく変えた、またはひねりを加えた曲です。

二木さんは音楽にもビジョンと方向性を持っていました。一作目の音楽は彼の趣味に沿っていなかったので、二作目のツヴァイではコンポーザーと密に連携して、音楽にゲーム中の世界観が反映されるようにしました。最初の二作はシューティングでしたが、アゼルはRPGなので、音楽的な要素はプレイヤーが触れる雰囲気を作り出すためにより重要になりました。アゼルの音楽について、二木さんはエスニックな音を残すことと、ツヴァイに近い曲を作るよう指示しました。でもそうした指示を除けば、作曲は自由にさせてもらえました。

二木幸生(プロデューサー、原案)

どの作品も音楽には満足していますよ。一作目ではオーケストラを使いました。ゲーム中のいろいろな要素に加えて、音楽面でも実験させてくれたことは会社に感謝しています。当時は澤田(朋伯)さんが音楽担当で、三作すべてに渡ってよい仕事をしてくれました。小林さんについては、彼女の曲は本当に気に入っています。特にアゼルのテーマ曲ですね。アゼルの曲は民族音楽風にしたかったので、当時好きだったトライバル系の音楽を渡して、それを参考にして欲しいと頼んだ気がします。

○アゼル(チームアンドロメダ/セガ)

■あちら側のロールプレイングゲーム

ーーーーチームアンドロメダの旧メンバーたちがファイナルファンタジー7に強いこだわりをもっているように見えたとしたら、そこには無理からぬ理由があった。セガ日本の上層部はアゼルに大きな期待をかけていた。つまり、スクウェアの大作よりも先に発売し、売上でも勝ちを収めなくてはならなかった。もちろん、このどちらも実現はしなかった。アゼルが発売されたころには――FF7の発売から1年後の1998年1月――サターンは急速に衰退していた。日本ではもう少し後まで生きながらえたが、北米では死に体同然だった。同年の発売タイトルは12本だけで、ドリームキャストの発売も見え始めていた。セガオブアメリカがアゼルの発売をキャンセルするという噂まで流れる始末だった。

セガオブアメリカは1998年中頃にアゼルをリリースし、発売中止を恐れる声を無言で否定した。しかし初期ロットは極端に数が少なく、すぐに完売した。結果として英語版のアゼルは、今や最も高価なコレクターズアイテムの一つに数えられていて、その値段は上がる一方だ。しかし入手困難な状況にも関わらず、それが当初の計画通りFF7よりも先にリリースされていたとしたら――結果は変わっていただろうか? サターンはルネサンスの時代を迎え、プレイステーションを売上で追い越せただろうか? チームアンドロメダを含め、それを断言できるものはいない。

楠木学(ディレクター、チーフデザイナー)

難しい質問ですね。アゼルは入り口の狭いゲームだと思うし、第一印象でプレイヤーを引きつけるのに苦労していました。今ではそう思います。『楽しいよ、こっちおいで!』と大声で叫ぶようなゲームではないんですね。ストーリー自体もあまり歓迎するという感じではないので、人の関心を引きつけるのは難しかったです。

二木幸生(プロデューサー、原案)

(アゼルの発売中止について)いいえ、日本でリリースした直後にはローカライズの話を始めていました。なので私が知る限りでは、アメリカでの発売をやめるという話は全くありませんでした。(セガオブアメリカ内で)中止しようという話があった可能性はありますが、日本ではリリース直後からローカライズ部署とアメリカリリースの準備について話をしていました。

ゲームの発売が何度か延期されました。FF7のリリースについていろいろと噂が流れていて、そのころはセガの社長からも早く大作RPGをリリースしろとプレッシャーが掛かっていました。でも私はまだ若くて、会社の都合よりも、どうすれば最高のゲームを作れるかということしか考えていなかったので、聞き流してしまいました。今振り返ってみると、自分の頭を後ろからひっぱたいてやりたいですね。

楠木学(ディレクター、チーフデザイナー)

当時はRPGが大人気だったので、セガもRPGを作ることに関心がありました。パンツァードラグーンのRPGを作るというのは理にかなっているように見えました。すでに確立された世界があり、RPGに適していたからです。いいタイミングだったのでしょう。会社からの要請もあったし、私たちもRPGを作りたいと思っていたので。

向山明彦(戦闘プランナー)

ゲーム制作が全般的に遅れていた中で、戦闘システムは間違いなく遅れていたような気がします。戦闘システムは最も計画からの遅れが大きかった要素の一つので、申し訳ないと思っています。ファイナルファンタジー風の戦闘システムにしておけば、パンツァードラグーンのような自由移動はなくて、ただのRPGになっていたでしょう。

二木幸生(プロデューサー、原案)

アゼルのリリースはセガとソニーのハードウェア戦争の結果が出た後にリリースされたので、今となってはもっと早く発売するべきだったと思っています。でも同時に、あれ以上早く開発を終わらせることはできなかったと思います。今の経験を持ったまま過去に戻れたら、もっと早く完成できるでしょう。同じゲームを作るとしても、もっと早く完成させられます。アゼルを完成させるまで3年かかりましたが、少なくとも1年は前倒しして、2年で終わらせてFF7よりも前にリリースできたと思います。(FF7より際にアゼルを発売したら、サターンの運命は変わっていたか)なんとも言えないですね。あの頃は誰もがいちかばちかのリスクを取って、新しいことに挑戦していました。本当にいい時代でした。アゼルが発売されたころには、ソニーがハードウェア戦争の勝者になったことは明らかでした。私たちはすでにサターンの負けを認識していて、絶好の機会を逃したことも分かっていました。

向山明彦(戦闘プランナー)

正直に言って、FF7がゲーム業界とマーケットに与えたインパクトを私たちが上回るのは不可能だったと思います。しかしアゼルはもっといい結果を残せたでしょう。もっと多くの波を作れたと思います。ファイナルファンタジーとの競争は意識していました。(アゼルの)戦闘システムはあれよりも良かったと思うし、他のメンバーたちもファイナルファンタジーよりいいゲームを作ろうとがんばっていました。もし先に発売できていたら、もっと大きなインパクトが合っただろうと思います。ただこちらが勝てたかというと……? それはないと思います。

あの頃、私たち全員がセガの社長室に呼び出されて、ファイナルファンタジーに勝てる、プレイステーションとのゲーム機戦争にも勝てるゲームを作るよう命じられました。なのでファイナルファンタジーよりも良いゲームを作らないといけないという緊迫感がありました。とんでもないプレッシャーでしたね。このゲームに限ったことではありません。プレイステーションとの戦争に勝てというプレッシャーは強烈で、本当に文字通り戦争をしている気分でした。でもこのゲームを作っている間は、プレッシャーはもっときつかったです。話しにくいのですが、私はゲームの開発中ずっと鬱状態に陥っていました。完成してからはそんな気分は吹き飛んで、すっかり良くなりましたが、開発中は本当に辛かったです。

吉田謙太郎(CG、ムービー)

そこは他の人たちと同意見です。アゼルはよりハードコアゲーマー寄りのゲームでした。難しい質問ですが……プレイステーションはPR戦略が非常に巧みで、セガはもっと保守的なアプローチをしていました。もしセガがファイナルファンタジーを作っていたとしたら、プレイステーション側のような効果的なマーケティングができていたかどうかは疑問です。

石渡(塚原)爾奈(市街デザイナー)

セガの立場で見れば、アゼルの開発が非常に長引いていたので、内部では当たってほしいという期待も大きかったわけです。投資に対するリターンは芳しいものではありませんでした。もっと短い期間で、少ない人数で完成させることができていたら、この成果は賞賛されていたと思います。でもプロジェクトはあまりに多くの技術的困難にぶつかっていて、当初の予定よりも大幅に開発が遅れてしまいました。しかもディレクターも何度も交代していました。

中西仁(フィールドプログラマー)

そうですね、ディレクターが変わった回数は数えきれません。

楠木学(ディレクター、チーフデザイナー)

アゼルの開発はツヴァイが完成する前から始まっていて、チームの人数も大幅に増えていました。開発工程は非常に不安定で、多くの役職で人員交代がありました。最終的には、プロジェクトの中盤ごろから私がディレクターに配属されて、プロジェクト全体の完成まで取り仕切りました。

向山明彦(戦闘プランナー)

ディレクターは頻繁に入れ替わりましたが、楠木さんが最後にディレクターになって、完成まで見届けました。もともと楠木さんはアートディレクターでした。彼も大きなプレッシャーを抱えながら、プロジェクトを前に進めるのに苦労していました。ある時期、楠木さんはひどく陰気で悲しそうな顔をしていました。その時言っていた言葉が今でも頭に残っています。前も言いましたが、何もうまく行かない状態だったので私は非常に落ち込んでいました。楠木さんも苦しんでいました。でもある日、楠木さんが機嫌よさそうな顔で私を自分の部屋に呼んで、こう言いました。『わかった。やっとわかったぞ』と。何かうまい解決策を思いついたのかと思ったんです。ところがそうではなくて『このプロジェクトが失敗したって、セガがつぶれるだけだ。大したことじゃないんだ。気が楽になったよ』と言う。それを聞いて、この人はおかしくなってしまったのかと思いました。でも楠木さんによると、その認識に至ったことで、困難を乗り越えられたのだそうです。最悪の場合会社がつぶれるかもしれないけれど、彼が抱える重圧に比べれば安いものだったということでしょう。

二川目真(メインバトルプログラマー)

当時はプレイステーション側の動向にはあまり関心がありませんでした。現実逃避だったのかもしれませんが、ファイナルファンタジーは触ってもいません。とにかく自分たちのプロジェクトと、そこでの仕事以外には関心がありませんでした。ゲームが完成したときは、間違いなく達成感がありました。開発はいくつかの塊に分かれていたので、プロジェクトの全体像を見ることができたのは最終盤になってからでした。ようやく他の人たちの成果を目にして、完成品としてゲームを体験できたときは本当に衝撃を受けました。感動したし、すごく楽しんで遊んだのを覚えています。なのでアゼルは当時発売されていたどのゲームよりもよくできていたと自信を持っていますが、私たちが期待していたほどには売れませんでした。非常に残念でしたが、私にとっては大きな達成感がありました。

楠木学(ディレクター、チーフデザイナー)

あの頃はみんな非常に若かったので、私たちは万人受けを目指すことではなく、ゲーム業界とゲーミングコミュニティにどうやって貢献していくか、ということに集中していました。他のどのゲームとも違う、上質なゲームを作りかたかったのです。もちろん売れる商品を作るのは大事ですが、自分の内心では、深遠で思い出に残るゲームを作る方が大事でした。大ヒットを狙ったようなものを作ることには興味がありませんでした。二木さんも同じだったと思います。それを目指していたら、アゼルの売れ行きはもっと悪かったのではないでしょうか。

二川目真(メインバトルプログラマー)

(アゼルとファイナルファンタジー7は)どちらも同じジャンルですが、アゼルが万人受けを狙っていないというのは確かにそう思います。もっと狭いターゲットに訴えるものがありますね。元になっているパンツァードラグーンの過去作はシューティングゲームで、シューティングゲームはジャンルとしては客層が大きくありませんでした。ほとんどのシューティングゲームはSFでした。つまりアゼルはすでにニッチだったジャンルの中でもユニークなゲームだったというわけです。

石渡(塚原)爾奈(市街デザイナー)

ゲームを作っている間も、アゼルはあまりにも『セガらしい』ゲームだと思っていました。セガのゲーム機はいつもハードコア寄りのゲーマーに人気でした。サターンのファンはみんなハードコアでした。サターンは明らかに任天堂やソニーの製品とは違っていたし、アゼルは任天堂やソニーが出すような種類のゲームではありませんでした。開発チームの全員がそう感じていたと思います。ある意味では、アゼルはセガサターン以外では実現できなかったゲームなので、ファイナルファンタジーとは比較できないと思います。

○アゼル -パンツァードラグーンRPG- よりエッジ、クレイメン、アーウェン(チームアンドロメダ/セガ)

■エンドゲーム

ーーーーゲームの最後で一体なにが起きたのか。これは今に至るまで尾を引く、アゼルにまつわる問いの一つだ。もしあなたがゲームをプレイしていない――流通数の少なさを考えれば無理もないことだが――またはネタバレを気にする場合はご注意を。

エンディングクレジットの後で流れるカットシーンで、アゼルが旅人と会話を交わす場面がある。村人が『命を捨てに行くようなもんだ。そこまでするほどの奴なのか? あんたの探してる人って』と問う。アゼルは頭を振るが、村人に軽く会釈をし、どこへともなく去って行く。長く垂れ下がった髪は頭巾に隠されて見ることができない。村人の問いにははっきりとは答えなかったが、ここではエッジが――ゲームの結末で死を迎えたように見えるが――まだ生きていること、そしてもしそうならばアゼルは彼を見つけ出そうとしていることが示唆されている。

蓋を開けてみると、この『ハッピーエンド』は明確に意図されたものではなく、開発チームがあえて盛り込んだ曖昧さに対して、ローカライズチームが働きかけた結果だった。

二木幸生(プロデューサー、原案)

マーケティングチームから、アメリカ市場向けにエッジとアゼルの恋愛関係をもっとはっきり描くべきだとアドバイスがあったと記憶しています。米国向けのローカライズをどう進めるかは開発の初期段階で検討しました。日本市場向けには婉曲な表現の方が適切でしたが、英語では感情表現がより直接的になります。もっと二人のセリフを明確にしなければ、二人の間に恋愛感情があることが伝わらないと考えました。

例えば日本語では、男性から女性に『月がきれいですね』などとロマンチックなことを言うと、女性は男性が自分に気があると理解します。しかし西側のオーディエンス相手では、そうしたニュアンスは失われるでしょう。ローカライズ部門とは脚本をもっと直接的にすることについて話し合ったと思います。もしアゼルをリメイクするとしたら、アゼル本人の視点で作るといった検討をするでしょうね。

小林早織(コンポーザー)

エッジは、まあ、最初から死んでいるわけです。エッジがゲームのオープニングシーンで死んでいることに気付きましたか? つまりゲームが始まる前からエッジは既に死んでいるんです。でも魔法のような形で、ドラゴンの力によって生き返ります。ゲームのエンディングではアゼルがエッジを探す旅に出ますが、そのこと自体が暗くて悲しいですよね。だからチームの中にはオルタがエッジとアゼルの子供だと考察した人がいました。

クリエイティブチームの一人としては、それについてはっきり言うことはできません。でも二木さんからは、ゲームの終わりを曖昧にぼかすようにという具体的な指示がありました。オルタの音楽ははっきりとした終わりがありますが、アゼルの音楽はきちんと終わらずにフェードアウトします。すべてが語られることはなく、プレイヤーには謎が残されるわけです。

楠木学(ディレクター、チーフデザイナー)

私たちは意図的に終わり方を曖昧にして、プレイヤーに想像の余地を残しました。なので確たる結末は用意しませんでした。しかしゲームを作っている間は、エッジは物語の始めに撃ち殺されたという前提がありました。プレイヤーがゲームに関わることで、プレイヤーの魂がエッジを蘇らせます。非常にメタ的ですが、このパンツァー世界が本当に存在するかもしれないとプレイヤーに感じてほしかったのです。プレイヤーをよりゲーム世界に近づけて、このゲームを遊ぶことでパンツァー世界の一部になったような感覚を味わってほしかった。画面の向こう側に本当に別世界が存在すると信じてほしかった。その説明に従えば、ゲームのエンディングでエッジは死にます。

タイムスリップして別の現実世界に転生するSFストーリーが今では人気です。過去を改変して未来を変えるのではなく、別の現実世界が枝分かれするという。だからパンツァードラグーンに異なるストーリーがあったとしても構わないと思います。エッジが生き延びてオルタが生まれた世界があってもいいし、エッジが死んでいて別の冒険が展開する物語があってもいいでしょう。私はそう解釈しています。

向山明彦(戦闘プランナー)

(編注:向山はパンツァードラグーンシリーズの第四作、パンツァードラグーンオルタのディレクターを務めた。)私は(海外版が)オルタがエッジとアゼルの娘だとはっきり描写したとは思いません。そこは意図的にぼかしています。エンディングも米国版と日本版で微妙に違います。ナレーション(が誰か)の解釈は日米の各バージョンで異なっています。米国向けのローカライズディレクターは、パンツァードラグーン世界について独自の解釈を加えました。

オルタの開発に関わることについては、複雑な気持ちでした。アゼルのエンディングは曖昧なまま終わっていたからです。しかしオルタというタイトルはオルタナティブの『オルター(alter)』とも響きが近い、というのが私の解釈です。言葉遊びですが、『オルタ』はオルタナティブな物語という暗示にもなっています。オルタはアゼルの前日譚、そして並行世界の話かもしれません。これはチーム内でも議論していませんし、全くオフィシャルではありません。私個人の解釈です。

色んな解釈があると思います。(アゼルの冒頭で)エッジが壁の中に埋め込まれたアゼルを見つけたとき、日本語版では『ひ、人?』と口走ります。しかし英語版では『beautiful(きれいだ)』と訳されている。英語版は翻訳者の解釈を経ているわけです。誰もが少しずつ異なった解釈をしているようです。当然、ローカライズチームも彼ら独自の解釈をしていて、翻訳結果は彼らの視点というフィルターを通過したものです。アゼルには様々な解釈の余地があり、オルタではさらにそれが広がっています。色々な人が異なる解釈を持つのは問題ないと思います。それが開発チームのメンバーであっても。率直に言って、そうあり続けてほしいと思っています。

○フローター(ホバークラフト)に乗るエッジとアゼル(チームアンドロメダ/セガ)

■チームアンドロメダの終焉

ーーーーアゼルの売り上げは不振に終わり、セガはチームアンドロメダを解散した。一部のスタッフはスマイルビット(パンツァードラグーンオルタ、ジェットセットラジオ)やユナイテッド・ゲーム・アーティスツ(Rez、スペースチャンネル5)などセガ社内の他の開発チームに異動となったが、他のメンバーはセガを去った。

中西仁(フィールドプログラマー)

多分こういうことは言うべきでないのですが、ゲームのリリース後、私たちは全員社長室に呼び出されて、売り上げが良くないと伝えられました。振り返りの会議では雰囲気は明るくありませんでした。

二川目真(メインバトルプログラマー)

プロジェクトが終わってすぐに会社を辞めました。アゼルが日本国内で出荷された後、残ったチームは海外リリースのためのローカライズをしていました。もうセガにはいなかったので、その後のことはわかりません。

中西仁(フィールドプログラマー)

ゲームが完成した後、スタッフは解散して様々なプロジェクトに異動になりました。

石渡(塚原)爾奈(市街デザイナー)

二川目さんと同じように、私もアゼルの完成後にセガをやめたので、その後チームがどうなったかはわかりません。ただチームアンドロメダの人たちとはその後も会っています。とても仲がいいですし、あの頃のことは昨日のことのように思い出しています。あれだけ大きなプロジェクトに関われたことは、みんなにとって類まれな経験だったと思います。私のゲーム業界での経験の中でも大きな出来事でした。

楠木学(ディレクター、チーフデザイナー)

私はCGムービーの専門部署に異動になりました。二木さんがどこに移ったのかは覚えていませんが、彼と吉田さんはしばらくして辞めたと思います。ゲームを完成させることができて安心していたと思いますが、もっとゲームが売れていたら状況はましだったでしょうね。

横田克己(キャラクターデザイナー)

あまりに昔のことなのであまりよく覚えていません。ただアゼルの完成後、私はキャラクターデザイナーとしての挫折感に苦しんでいました。当時は、ですが。ゲームの売れ行きが思わしくなかったので、責任を感じていました。パンツァードラグーンで私に期待されていたデザインはユニークで独創的なものでしたが、それ以後のプロジェクトはどれもマスマーケットを狙ったものでした。万人向けでシンプルという方針に合わせる必要がありました。既存のものをなぞった絵を描くことが求められていました。そのことが辛く、自分には合わないと感じていました。Rezの仕事をしていたころは、基本に立ち返って、シンプルだけど力強いものを描こうと思いました。

吉田謙太郎(CG、ムービー)

(アゼルの開発中は)お金のことについては、セガはほとんど開発チームに口を出しませんでした。会社の関心は常に良いゲームを作るということにありました。しかしアゼルがリリースされ、ドリームキャストの開発が始まってからは、お金の話や損益の話が多くなりました。それと上層部にも変化がありました。社長は同じでしたが、新しい人が上層部に沢山入ってきて、力関係が変わってきました。私はドリームキャストの発売直前までセガにいましたが、プレイステーションの方が有利だとみて、ソニーに移りました。

二木幸生(プロデューサー、原案)

(西側向けリリースの)ローカライズが始まったか、終わったころに――はっきり覚えていませんが――会社を辞めました。アメリカでリリースされたときは既に退社してました。なので(チームアンドロメダに)何が起きたかはわかりません。

○(チームアンドロメダ/セガ)Team Andromeda/Sega

■20年前の今日

ーーーーアゼルの開発は苦難に満ち、スタッフ間に軋轢を生み、その一部は深いストレスに苛まれた。膨大な労力を要したとはいえ、チームアンドロメダのかつてのメンバーの多くにとって、このゲームは良い思い出となっている。

横田克己(キャラクターデザイナー)

パンツァードラグーンは私の出発点でした。2年前に社会人になったばかりで、このプロジェクトでは重責を与えられて、とてもやりがいがありました。そのことは非常に感謝しています。私を信頼して、この機会を与えてくれた楠木さんには感謝の気持ちしかありません。当時の私は特に実力があるわけでもなく、新人同然でした。しかし楠木さんはチャンスをくれました。おかしな絵を描き続けていて、ちゃんとしたものはなかなか描けませんでしたが、それでも続けさせてくれました。それ以来さまざまなゲームのアートディレクターをやりましたが、楠木さんのマネジメント手法、チームに責任を持たせて作業を割り振るやり方をそのまま実践していました。いろいろな意味でパンツァードラグーンは特別なプロジェクトでした。考えてみれば、今時は新人に数億円規模のゲームのキャラデザインを任せたりはしません。今の業界ではありえないことです。会社は開発チームの外から有名なキャラクターデザイナーを雇うとか、そういったことをします。しかしパンツァードラグーンでは、ゲーム全体を内製することに強いこだわりがありました。私はただ(偶然)いいタイミングでいい場所に居合わせた、とでも言えるでしょうか。ただの偶然だったと思いますし、そこにいられたことは非常に幸運でした。それにチームの皆さんも最後まで私を支えてくれました。

楠木学(ディレクター、チーフデザイナー)

ゲーム開発を始めてから30年くらいになりますが、振り返ってみるとアゼルは私のキャリアの中でも特筆すべきもので、非常に思い出深いゲームです。多くの困難がありましたが、たくさんの人々と関わることができたし、20年経ってもまだアゼルのことを覚えてくれている人がいます。アゼルについてメールをもらうことがありますし、掲示板などで話題になっているのも見ます。今でも人気があるというのを見るととても嬉しいです。

アゼルを開発していたときは、これほど長く人々の記憶に残るゲームになるとは思いもしませんでした。まだ覚えてくれている人たちがいるのは大変嬉しいです。今から初めてアゼルをプレイするとしたら、ちょっとガッカリするかもしれませんが、でも当時としては様々なことに挑んだ結果なので、ゲームの中で見られるものには今でも驚くような部分があると思います。まだプレイしたことがなくて、興味がある人がいたら、ぜひ遊んでみてほしいです。

小林早織(コンポーザー)

すごいですね、20年って。長いですよね。個人的には、最初にリリースしたときはなんだか興奮しました。でも今になってまた興奮の波が来ているので、20年も経ったという感じはあまりないですね。

二川目真(メインバトルプログラマー)

20年前に関わったゲームのインタビューを受けることになるとは全く思っていませんでした。光栄です。ゲームを買ってくれて、それを楽しんでくれたファンがいたからこそ、実現できたわけで、ありがたいと思います。これからの仕事の励みになります。振り返ると、私たちを支えてくれて、満足がゆくまで開発をさせてくれたセガには感謝しています。もう会社は辞めてしまいましたが、今でも感謝してます。かつてのチームアンドロメダの仲間たちとは会社も別になって、今は競争相手ですが、二木さんや向山さんのように今でも親しくしている人たちも沢山います。私たちはお互いに友好的な競争意識を抱いているし、まだゲーム業界で頑張ってゲームを作っています。またみんなでいいゲームを作りたいと思っています。ありがとうございます。

中西仁(フィールドプログラマー)

ゲームのリリース後に業界外の人たちと飲みに行ったら、何をしているのかと聞かれたので『ゲーム作ってる』と答えました。『どんなゲーム作った?』『アゼル作った』そう答えると『それ遊んだよ、面白かった』と。アゼルを楽しんでくれた人に会うことができました。そして年を取ると、『そのゲーム知ってる。兄が遊んでた』その次は『父親が遊んでた』と反応が変わるんです。これだけ時間が経ったあとでもアゼルを覚えている人がいるんですね。こんなに長い間人々の記憶に残るゲームに関われたことは幸運だと思います。ゲームの完成まで一緒に働いた人たちには感謝しています。

石渡(塚原)爾奈(市街デザイナー)

私も、20年経った今でも人々の記憶に残るゲームに関われたことはとても感謝しています。アゼルでの一番強烈な思い出は、市街の開発スタッフが私を含め二人しかいなかったことです。ある朝会社に出てみると、もう一人のスタッフは別部署に異動になっていて、残りの開発を全て一人でやる羽目になりました。この絶望を楠木さんにも伝えたと思います。恨みはありませんが、こんな仕打ちをするセガはひどい会社だと思ったし、非常に腹が立ったのを今でも覚えています。どうにかして一人きりで完成させることはできたので、今にしてみれば、自分を強くしてくれた経験だったと思います。

■米国向けリリースのプロモーション

ーーーーほぼ死に体のゲーム機向けに、発売中止の瀬戸際を乗り越えたものの、結局極小の出荷本数でリリースされたタイトル。そのためにゲーム会社のマーケティング部門を鼓舞することほど難しいことはない。ビデオゲームのPR担当として与えられた初めての仕事がそんなものだったら、と想像してみてほしい。元セガのPR担当者(セガの代理店、Access PR経由)ヘザー・ホーキンズは当時を鮮明に記憶している。

『まだ業界に入って間もなく、Accessでの新しい仕事、それにPR業務そのものにも慣れていませんでした。事務所にはサターンが3台くらいしかなく、コアなゲーマーを除けば、どこのメディアもサターンを持っていませんでした。だから大手メディアに取り上げてもらうには、サターンを送りつけて、その後で小売店に電話して、(メディアから)取り返してもらわないといけませんでした。そうしないと台数が足りないからです』

『(アゼルのプロモーションに際して)代理店向けのサンプルは10部くらいもらったと思います。全てゲーム関連のプレスに直接渡りました。コンシューマー向けの施策は何もありませんでした。当時のRPGやメインストリームのゲームのような評判は立ちませんでしたが、このゲームには何かがあると直感していました。サンプルはコア寄りのメディアにだけ送って、彼らがなんとかしてくれるだろう、しかし(一般論で言えば)それ以外は誰も気にしないだろうと(考えました)』

○敵に狙いをつけるエッジ(アゼル - パンツァードラグーンRPG/セガ)

■リメイクの可能性

ーーーー二木とのディスカッションの話題は、アゼルを現代のプラットフォームに移植できるか、あるいはリメイクに興味はあるか、のどちらかだった。『あなたの中にまだドラゴンは残っているのか』と迫ってみると、二木は『はい、そう思います』と答えた。しかしその取りうる形は様々だ。

二木幸生(プロデューサー、原案)

もし(アトラスによるサターン向け横スクロール型RPG)プリンセスクラウンを(PSP)に移植できたなら、アゼルをリバースエンジニアリングすることは可能かもしれません。プリンセスクラウンも非常に複雑なゲームです。しかしどこかの誰かからプレッシャーが掛からない限り、私たちがリメイクをすることはないでしょう。セガがやることはまずないと思います。

自分が続編を作るとしたら、もっとオープンな形で、ドラゴンの背に乗って冒険するゲームを作るでしょう。それがアゼルのもともとのプランでした。物語をただ辿るのではなく、巨大なオープンワールドの冒険になります。あるいはドラゴンにだって乗らなくても良いかもしれません。現実世界の、地に足付いた人物を主人公にする、というアイディアを楠木さんと話をしたことがあります(...)

開発当初は、(thatgamecompanyの)『風ノ旅ビト』のようなゲームを思い描いていました。しかしその方向には向かいませんでした。あまりにオープンで、オリジナルのパンツァードラグーンからかけ離れたゲームでは誰も遊びたいと思わないでしょうから。しかし今だったらそんなゲームも受け入れられるような気がします。もちろんドラゴンはゲームに残したいですが、ドラゴンに乗って世界を旅することをメインにして、プレイヤーは過去のゲームの痕跡を世界の中に見つけたりするでしょう。シリーズ全体のリメイクと、過去作品のフラッシュバック。そういうものが思い浮かびます。オルタの開発チームの中心メンバーは(二木の会社である)グランディングで現在働いています。しかしみんなパンツァードラグーンを見直してみたいと思っているのではないでしょうか。私も死ぬまでに広げた風呂敷を畳んで、このサーガを完結させたいです。

向山明彦(戦闘プランナー)

ゲームシステム自体にはまだ様々な改善の余地がありました。そういった点は直したいと思いますが、今時のゲームの風潮に合わせてオンライン化したり、スマホに移植したり、あるいはソーシャルとか課金要素を追加したり、というのは見たくないですね。現代のゲームはオープンワールドで、ソーシャルや課金要素がありますが、パンツァードラグーンにはそういうゲーミング体験は合わないと思います。シリーズのエッセンスが変わってしまいます。戦闘システムだけに限って言えば、私自身が担当したものですから、ずっと良くなった、より楽しくて柔軟なものを作れると思います。

楠木学(ディレクター、チーフデザイナー)

個人的にはAAAタイトルやオープンワールドのゲームが好きです。どこにでも歩いて行けるという点が(好きです)。オープンワールド方式はパンツァードラグーンに非常に適していると思います。

横田克己(キャラクターデザイナー)

二木さんはXbox One向けにクリムゾンドラゴンを作りましたが、あれはある意味でパンツァードラグーンの続編でした。世代が変わるたびにゲームプレイに新しい生命がもたらされて、シリーズが再検討されます。ドラゴンの背に乗って戦うというのがパンツァードラグーンの根底にある基本コンセプトです。それさえ残っていれば、パンツァードラグーンシリーズの精神は受け継がれていると言えます。

ーーーーAZEL -パンツァードラグーン RPG-は1998年4月30日に北米でリリースされた。

ーーーー追記(2018年5月2日):『始まりと終わり』のセクションを追加した。

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