『姉ちゃんがフラれて泣きわめくのでコーンポタージュを作ってみた。』【短編|おねショタ(姉弟)】


 うわ、失敗した。
 リビングのドアを開けた瞬間わかった。

 姉ちゃんがいる。ソファのど真ん中に腰かけて、真正面からテレビを見ているのがわかる。画面ではベッドの上のオドレイ・トトゥが眠る恋人を抱きしめている。『アメリ』だ。しかもクライマックスが今まさに終わってあとはエピローグを残すだけという、そういう具合。

 失敗した。さゆりから「今日家で飲まない?」ってメールが来たんだから、そっちに乗っとけばよかったんだ。バイト終わりで疲れたからって「ごめんやめとく、また今度」なんて即座に返した一時間前の自分を殴り飛ばしたい。……いや、遅くない。今からでもこのドアをそっと閉じて足音も立てずバックウォークで玄関まで戻ってさゆりに電話すればまだ可能性は……

「あるわけないよね」

 うん、あるわけなかった。

 振り向きもせず、幸せな人々の幸せなエピローグを見つめ続ける姉ちゃんのその言葉は、明らかに弟、つまり俺に向けられていた。ってかほんの数秒前に、ただいまーって、言ってしまってた俺であった。

 観念してリビングに入り、扉を閉める。カバンを置こうとソファまで歩み寄ると、いつも通りというべきか、姉ちゃんはスーツ姿で化粧も落とさず、マスカラの滲んだ黒い涙をぼとぼと落としていた。テーブルの上には握りつぶされたビールの缶が数本に、開け散らかされたつまみ類。ああ、疑う余地もない。

「扉を開けたからってさぁ、ニノが待っててくれるなんてあるわけないよね」

 鼻をぐずぐず言わせながら、新しいビールのプルタブを、プシッ、と開けて呷り始める。その姿が堂に入りすぎている。

「ってかさ! 待っててくれるならいくらでも開けるっつうの! むしろフルオープンだっつうの! 逆にこっちらから開けに行くけど開けた瞬間向こうが部屋の中でドン引きしてるんだっつーーーーの!」

 
 叫び終えると、手の中の缶ビールを一息に飲み干し、本能のまま缶を握りつぶす。そうしてテーブルの上に放り出した。ちら、とみると、姉ちゃんの足元にはビールのダンボールケースがひとつ。用意のいいことである。逆上していてもうさばらしに必要な準備は忘れていない辺り、いかに姉ちゃんがこうした状況に慣れきっているか、否が応にも察せられてしまって弟ながらに涙を禁じ得ない。

「姉ちゃん、また振られたの?」

 ソファの端にカバンを下しながら聞くと、やっと姉ちゃんは顔をこっちに向けた。

 朝必死になってセットしたメイクも、一日の終わりになってほとんど剥げかかっている。眉は薄くなってるしチークはくすんでる。アイラインはがっつりパンダ目を形成していて、涙でトドメを食らったマスカラは頬から顎にかけて幾重にも黒い線を引いていた。ワンレンが乱れて、なんていうかもはやクラウザーさんである。

 クラウザーさん……もとい姉ちゃんは、眉をハの字に寄せて、目尻にまた新しく涙をにじませ始めた。

「告白はぁ……してないけどぉ………」

 姉ちゃんは鼻声で、小さくそう呟く。

「はァ? じゃあ玉砕すらしてないんじゃん!」

 呆れてつい大きな声を出してしまった。すると姉ちゃんはただでさえぐしゃぐしゃな顔面をさらにぐしゃぐしゃにして続けた。

「だって! 明らかに脈ないんだもん! 遊びにいこって誘ったけど二回とも返事ないんだもん! 二回目なんかわざわざ〝みんなで〟ってつけたのに、それすら返してくれないんだもん!!」

 びええぇ、と泣き出す二十六歳。結構な声量である。うちのマンションは防音がわりとしっかりしていて、多少なら騒いでも近隣の皆様に迷惑はかからない仕様。近隣どころか真横の部屋で爆睡しているだろう両親にすら姉ちゃんの泣き声は届かないので、必然的にお守りは帰ってきてこの場に出くわした俺ということになる。大抵はこのパターンである。ちっくしょおぉ…!

 心の中でこういう星回りに俺を生誕させあそばされた神様やら宇宙意志やらもうそういう全てのものに対して悪態をつきながら、俺はひとつ溜め息を吐く。

 こうなったら、肚ァくくるしかないのである。中学で初恋の先輩に振られて以来、泣きわめき続ける姉ちゃんのお守りをするのは、俺しかいないんだから。

 こちとらバイトで疲れてんだぞ、との言葉を飲み込んで、俺はキッチンに向かう。いわゆるオープンキッチンというやつで、調理しながらでもリビングの家族と会話できるタイプだ。

「でもあれじゃん、今回なんかいい感じかもって言ってたじゃん」

 掛けられているエプロンを手に取りながらいうと、涙声の姉ちゃんはぼそぼそと返してきた。

「……メールでは結構、いい感じだなって、思ってたんだけど……友達として、だったのかも……」
「あー……」
「でも実際にバレンタインにチョコ渡したり、風邪ひいたときごはん作りに行こうかって言ったりぃ……」
「え」
「誕生日にケーキ買って持っていったりしたときかぁ……確かに反応薄くて……」
「ちょ」
「ホラー映画見よってDVD持って家に行ったときとかも、結局先に寝ちゃったりするし…」
「待て、おま……っ、そんなことしたのか」
「うん」
「彼女でもないのに?」
「……うう、わかってるよぉ!」

 少なくとも今は、という言葉はさすがに言えなかったみたいで、姉ちゃんはまたぴいぴい泣きながら酒を呷る。

 …弟の俺が言うのもなんだが、姉ちゃんは見た目は決して悪くない。別に太りすぎてるわけでもやせすぎているわけでもないし、清潔感がないから異性が寄りつかない、というのでもない。笑った顔なんかは愛嬌があって、十人中、まぁ半数前後は可愛いって思うんじゃなかろうか。よくいうなら親しみやすいっていうの?

 それでも彼氏いない歴=年齢、世間様で言うところの喪女歴を絶賛更新中なのは、ありていに言って〝重すぎる〟からだ。

 さっき自白していたのがいい例である。ともかく重たい。生まれながらの長女気質に加えて恋愛を真面目に考えすぎて、片思い中のアプローチが途方もなく重圧なものになってしまうのだ。本人もそれは、どうやら薄々理解しつつあるらしい。休日にリビングで熟読している雑誌の特集が『ふんわり軽くてモテる! イマドキ女子の作り方』だったの見ちゃったときにはもう心底同情したもんね、マジで。

 が、今回もどうやら〝軽くてかわいい女子〟になり損ねたらしい。っていうか、ないわ。さっきの一連のアプローチ、弟のひいき目からみてもないわ。

「姉ちゃん、いい加減当たって砕けるの精神捨てたほうがいいよ? やらない後悔よりやる後悔って言葉もあるけど、やる後悔ばっかの場合はちょっと考えてから行動しないとただのバカだよ?」
「うるさい! わかってるよ! バカって言った方がバカ!」
「わかってないからこんなことになってんでしょうが」

 言い返せず、姉ちゃんはまた新しい缶を開ける。俺はエプロンの腰紐を結んで、戸棚の中を探し始めた。えっと、どこにやったかな……あ、あったあった。

 缶詰のコーンさえ見つけてしまえば、あとは早い。失恋して傷心中の姉を弟に丸投げする外道な母親ではあるが、専業主婦としてのスキルは感嘆モノで、整理整頓の行き届いたキッチンはたまに使うと大層快適だ。

 冷蔵庫からバターと牛乳、玉ねぎを取り出して、缶詰コーンの隣に並べる。バターと牛乳は使う分だけ容器に分けて、早々に冷蔵庫へとお引き取り願う。

「あんたはさぁーいいよねー」

 まな板と包丁の準備が整ったところで、自暴自棄が丸わかりな姉ちゃんの呼びかけ。おっと、〝私超可哀そう私リアル悲劇のヒロイン〟モードから、〝隣のアイツの芝生が青すぎるのはなぜだろうそれに比べて私は〟モードに突入だ。

「大学二年だもんねー就活もまだだもんねー。さゆちゃんとどーせやりたい放題遊んでんでしょー」

 まな板の上に玉ねぎをオンしてから、ふと見上げると、ソファの背にもたれ掛ってクラウザーさんが下卑た顔してこっちを見ていた。

「俺とさゆりは清い仲ですから」

 温情でスルーしてやろうと言うのに、クラウザーさんはきひひと下品に笑って酒をぐびぐび。

「うそつけ! 大学生の性事情なんて乱れまくりに決まってんじゃん! どこまで進んだのよーほれほれ。AとBは済ましてんでしょ? Cまで行った? Zまで行っちゃった?」
「まず平成も終わるこの時世に男女の関係をABCで図ろうという昭和丸出しの感性を恥じろ」

 イラっとして思わず本音が出てしまう。クラウザーさんは面白くなさそうに唇を尖らせている。言っとくけどまったくもって可愛くないからな。第一、俺の部屋で偶然エロ本見つけただけで顔真っ赤にして飛び出すくせに。

 と、これ以上考え出すと心の中とはいえ下劣な罵倒が飛び交って不毛になりそうだったので、俺は手元の作業に集中する。玉ねぎは、細かくみじん切りに。火が通りやすくなるように、口当たりがよくなるように。

 テレビから、ぷつっと音が消える。エンドロールも流れ終わったのか、姉ちゃんが電源を切ったようだ。リビングには姉ちゃんが酒をすする音と、鼻を鳴らす音、玉ねぎが細かく刻まれていく音だけが響いてる。

「俺はさゆりのことすきだから」

 気づけば、ぽつりと言葉が漏れていた。まな板の上では玉ねぎが、きれいで小さなかけらの山になっている。

 ほうろうの片手鍋をシンク下から取り出して、コンロの火にかける。バターを落として、中火でゆっくり溶かしていく。

「大事だから。無理強いはしたくないの。ホントはもっとエロいこといろいろしたいけど。さゆりが嫌がることはしたくないの」

 バターが溶けきって、優しい黄色をした溜りが出来る。その中に、玉ねぎをそっと流し落とす。それを木べらでじっくり炒めていく。少しずつ、少しずつ、玉ねぎが透明になっていく。甘く美味しくなっていく。

「……そっかぁ」

 帰ってきてから俺の聞いた声の中で、姉ちゃんは一番落ち着いたトーンで呟いた。空の缶を握りつぶさず、大事なものの代わりのように、胸の前で抱きしめている。

 ほどよく、玉ねぎに火が通った。木べらを鍋の中に置いたままにして、俺はコーンの缶詰を開ける。そのまま、鍋の中に流し込んで、少しだけ火を強める。でもあくまで少しだけ。焦げ付かないように、ゆっくりとコーンと玉ねぎを炒めていく。

「ね、私にも見つかるかな」
「……」
「私のこと大事に思ってくれる相手、見つかるかなぁ……」

 茫洋とした声。上手くいかない現状を泣き喚いて当り散らすのにも、輝かしい未来が待っていると切実に奮闘するのにも、疲れ果ててしまった、その言葉。

 俺は何も言わない。鍋の中で、コーンと玉ねぎがいい具合にまるくまとまってきた。小麦粉をひと匙加えて丁寧になじませてから、水を加える。そこでひと煮立ちするまで待つ。リビングには、野菜がバターで炒められたときに特有の、甘く、香ばしい匂いが満ちている。

 気づけば、姉ちゃんがのそのそとした足取りでやってきて、カウンター越しに鍋の中身を見ている。

 ふつふつと、煮立ってきた。ほんの少しだけ塩と、コンソメの素を入れて、最後に牛乳を流し込む。そこからまた少し時間をおけば、コーンポタージュが出来上がる。

 姉ちゃんは鍋の中身をじっと見ている。俺は何も言わない。

〝すぐにいい相手が見つかるよ〟。
〝姉ちゃんならきっとすぐ見つかるよ〟。
〝大丈夫、絶対うまくいくよ〟。

 最初の頃は、よくそう言っていた。中学生とか、高校生とか、そんなガキの頃。何も考えないで、泣ている姉ちゃんにただただ笑ってほしくて、そんなことばかり言っていた。姉ちゃんも、笑って、うん、がんばる、って、そう言った。

 そんな無責任な言葉の一つ一つに、姉ちゃんが傷ついているのに気づけたのは、やっと最近だ。姉ちゃんは頑張ってる。化粧だのパーマだのウィットに富んだトークだの、自分に似合わないことをあれこれ頑張って、必死に変わったりしようとして、それでもうまくいかない。

 それはきっと、誰も悪くない。姉ちゃんも悪くないし、姉ちゃんがすきになった相手も悪くない。ただただ、合わなかっただけ。縁がなかっただけ。そんな神様か宇宙意志でもないとどうにもできないものを、俺の言葉でどうにかできるわけがない。俺にできるのはせいぜい、コーンポタージュを飲ませてやることくらい。

 鍋の中身を、木べらでゆっくりかき混ぜた。ちょうどいいとろみがついてきた。火を落として、お玉でひとすくいし、小皿に落とす。白い湯気が立ち上るそれにふたつ息を吹きかけてから、向かいにいる姉ちゃんに渡した。

「……うん、おいしい」

 そこで姉ちゃんは、やっと笑った。
 姉ちゃんが恋をして、フラれて、普段はだいすきな『アメリ』をこき下ろして、酒飲んで、泣き叫ぶ度に、俺はコーンポタージュを作る。
 

 俺がコーンポタージュを作らなくていい日が、一日も早く来てくれますように。



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初出:2013年(同人誌)
note再掲にあたり若干修正を加えました。

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