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価値は誰が決めるの。お得さに浸りきった我が身を振り返る【#心の柔軟体操】

仕事で疲弊しきってしまい(業務は面白いが、責任の重さで一日体が強張っていた)、自宅までたどり着かず、近所の中華料理屋さんに立ち寄った。

いわゆる晩酌セットを頼む。メインの黒酢豚は、なんとなく掴みどころのない味だった。野菜もどことなく新鮮ではない。タレもやけに砂糖がキツいところがあったりと、味が均一ではない。

うーん。

初めて来た頃は、何を食べても美味しかったんだけどな。厨房の方が変わったのかな。ジョッキを手にしながら、ちょっとガッカリした気分になった。

とは言え、こんな安い値段なんだから仕方ないんじゃない?期待しすぎだよ、。頭の中で呟く声が聞こえる。

モノやサービスの適正な価格って何なんだろう。もちろん、消費者がそれに見合うと感じれば、であったり、競合店との戦いの中であったりで定まるのだろう。

それでもコスパの良いものが好きなのは、生活者の性ではないかと思ったりする。高くて美味しいものは当たり前ではないかとつい思ってしまう。だって、"高い"し。

コスパとは、突き詰めれば原価率に関わる話だろう。同じ値段でより"良い"ものを手に入れようと腐心する。少し高くてもコスパが良ければ選ばれる。

お洋服を買う時、縫製や素材をじっくり吟味する。この感じ、確かすぐヘタったな。これは意外と長持ちだった。かつての自らの購入履歴を思い返しながら、試着しながら、あれこれ見て回る。

必要だったり気に入ったものがあれば、あらゆるキャンペーンや手段で割引価格で手に入れる。奨学金など諸事情でカツカツ生活が長かったので(未だにそうだけど…)、定価購入には躊躇いを感じるようになってしまった。

ただこの態度や考え方には、モノやサービスを享受するまでの道のりへの想像は欠如してるのではないか、と最近よく思う。ファストフードで"なっていない"と怒鳴り散らす人と、何が違うのだろうか。延長線に私も立っている。

プチプライスで何でも手に入る世界線に来てしまった以上、戻るところはもうないのかもしれない。ただ、私の考える価値が、消費行動が、螺旋階段を下る社会を作り上げているのだとしたら。

今日も明日も、スーパーで値札とにらめっこする。生活者としての私は1円でも安さを求める。でも、たまには、陳列された野菜たちを眺めながら、これで良いのかなと思いたい。お得な商品の前で立ち止まるのと同じくらいの気軽さと、余白を。

気になる花屋さんの前を通ると、店じまいの最中だった。一足出遅れた。また明日、ときめきで即決した一輪挿しに似合う花を買いに行こう。

日付:2019年8月22日(木)、執筆時間:約1時間(手直し40分)、場所:中華料理屋さん、音楽:Epik High『Sleepless in __________』

振り返り:疲れている時に考え事してはいけない。改めて。毎日執筆、1週間は続けたいが、果たして。経済ガンガン回せるほど、パーッと使える身になるぞ〜。

毎日、仕事の休憩時間にエッセイ?を書き続けている方をとてもリスペクトしており、毎日ではなくとも書いてみようと思い立ってみた。#心の柔軟体操 と名付けてみた。本当は心の筋トレにしたかったけど、既出だったので。出勤か退勤時に書ければいいな。


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