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古今東西絵画見聞 その1 _今昔エゴン・シーレ展

今を去る30年年近く前、地方の美術館で開催されていたエゴン・シーレ展は貸し切り状態で、シーレと一対一のガチの対峙となってしまった。
小さな作品が多く、どちらに視線を向けても生まれて初めて目にする陰部をしっかりと描かれた人物画。性器は誇張されていたのかもしれないが見たこともない実物とは比べようもなく‥。挑むような視線のシーレの自画像。
広い美術館でシーレと私のふたりきり。完敗でしょ。尻尾がないのに巻いて逃げ出したわ。
何しろ、その頃好きだった画家はローランサン、憧れていたのはヘプバーン(浅っ)
シーレ展にはagreeという感想以外になかった。

が、しかし、あれから30年を経て、彼の生きた年齢に追いつき、追い越して、彼がその短い人生で経験した浮世ってのをたっぷりと否応なく身をもって時間をかけて味わってしまった今、死について、不条理について、再び、一対一でじっくりと議論しましょうと思って、都美館に出かけたのだが、なんでこんなに混んでるの?
あの時見たシーレ展のものには全く及ばない内容だったのに。

展示内容は、確かな観察眼と力強い線で描かれたデッサン。再構築された油絵。描かなきゃ良かったんじゃないのって思う風景画(シーレは生きているものにしか興味ないでしょ?)

それから、シーレ周りの画家の絵(コレがかなりある)←そのおかげで、オスカー・ココシュカ「裸体の少女」のがっつり正統派絵画も見られたのだか(この会場で、いちばん気に入った絵。正統派といえる油絵に安心)。

同じ頃にBunkamuraでローランサン展があり、先立って出かけたのだが、何の感想も感動もなかったわ。
ローランサンとヘプバーンに憧れていた自分はもういないのね。
せっかくなので、無理矢理にふたりの画家の共通点を挙げるなら、平面的で影がないところ。
しかし、シーレの絵は影がないのに浮遊している不安感がない。代わりに別の不安感はある。それは、ざわざわしてしまうところ。
30年前は脅されているようなざわざわ。今回は、俺が見ている世界を理解したいならここまで堕ちてこいって挑戦されている様なざわざわ。

シーレって自信家で喧嘩売ってきてるわ。
展覧会の感想なのに喧嘩上等の勝敗結果になってしまった。
今回は両者痛み分けってことで、決戦は30年後のシーレ展にて。

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