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Adrianne Lenker 『Bright Future』(2024)

8/10
★★★★★★★★☆


またしても完璧な作品。2020年のソロ『songs』『instrumentals』、2022年のバンド作『Dragon New Warm Mountain I Believe In You』、そして本作と、完全にゾーンに入った圧巻の作品が続く。

songs』は悲しみと絶望のコレクションだったが、本作は逆に「リラックスした雰囲気の中で何も追求しないことを追求したかった」と、自然体を強調するコンセプトの下で制作が進められた。いつものように、新曲(彼女は毎日曲を書いている)に加え、書き溜めているストックの中から数曲をピックアップ(最も古いのは7年前に書かれた"Ruined")し、森の中のスタジオでテープにアナログ録音した。いくつかの曲ではファーストテイクが採用されている。「最もプレッシャーがかけられていない曲が、最も誠実な曲になる」と語っている。

複数の曲で友人が参加している。Nick Hakimは16歳の時に音楽学校で出会った親友で、彼女は彼のことを「地球上で最も美しい声の一つであり、ピアノの解釈の仕方が好き」と評している。ギタリストMat DavidsonとヴァイオリニストJosefine Runsteenも参加している。「彼らに指示を出すことも、演奏を途中で止めることも全く無かった」「ヘッドフォンを使ったり携帯電話を見たりすることは無かった。私たちはただ話し、笑い、遊び、そして演奏した」(Adrianne)。曲自体はスリーコードのシンプルなフォークが多いが、"Real House"のピアノや"Sadness As A Gift"のヴァイオリンなど、少しだけ広がった音のパレットがアルバムに奥行きを付加している。

彼女の書く曲は全てがラヴソングだが、いわゆる「異性間の恋愛」をテーマにした曲は多くない。彼女の言うところの「愛」とは、自分への愛、家族への愛、友人への愛、記憶への愛、自然への愛、環境への愛、そして喪失への愛と、自分が対象物に対して抱く慈しみの感情全てを指す。

特に興味深いのが「自分への愛」と「喪失への愛」だ。まず前者。彼女は一番望ましくない心理的状態として「何かによって自分自身の思考が妨げられ本当に自分の意思か分からない言動をしている状態(“auto-pilot”)」と指摘している。(※人は自分に耳心地の良い意見を持つカテゴリ/グループへの精神的所属を望む。そしてそのグループの掲げる思想を自分の思想とする。その方が自分で考える必要が無くて楽だから。Xを見ればそういう人で溢れているのがすぐに分かるだろう—女叩き、男叩き、ネトウヨ、ポリコレ、陰謀論—どれも"auto-pilot"状態を解除出来なくなった人間の悲しき末路だ)

Adrianneはそれが創作活動の最大の妨げであると気づき、SNSとの接触を極力避け、その余白/余裕から生まれる自分の内なる声を大切にし歌う。「神とは教会でもネット上でもなく自分の心にいるから私は自分の心に耳を傾ける、それが自分への愛」と彼女は言う。幼少期に新興宗教から逃れてきた経験や10代で薬物に依存した経験も持つ彼女は、何を信ずるべきか、自分の中に明確な軸を持っている。

「喪失への愛」について。一般的には喪失とはネガティヴで「乗り越えるべきもの」とされる。しかし彼女は喪失とは自分が対象に対して持っていた愛情の大きさを教えてくれる最大の機会だ、なぜなら喪失の悲しみの大きさは対象への愛情の大きさとイコールだからと言う。だから「悲しみ」とはある意味で「贈り物」でもあると歌ったのが2曲目”Sadness As A Gift”だ。32歳にして諸行無常を完全に理解したかのような視線にはもう脱帽するしかない。詩的で風景の浮かぶ歌詞を書くソングライターは多くいるが、土台となる思想がここまで達観しているのはこの人くらいだと思う。

曲や演奏自体も勿論素晴らしいが、私はむしろその制作過程や歌詞から滲み出る彼女自身の物の考え方に惚れ込んでいる。彼女が次の作品で何をどのように言うのか、その一挙手一投足が気になって仕方ない。こんな人と同じ時代を歩めるのは幸せだと思っている。

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