9.平札と切り札

ジメジメした梅雨の空気はシンガポールを思い出させるほどの湿り気だ。

日本は亜熱帯地方になってしまったのかもしれない。

それから逃げるように僕は工学部の地下にある精密加工機のある部屋に籠っていた。そこは年中18℃に保たれているので驚くほど快適。むしろ涼しすぎるくらいなのでユニクロのカーディガンが役に立つ。

僕の大学での研究は超精密加工。ナノレベルの表面性状をどう実現するのか。

4年生の僕は大学院の先輩に手取り足取り教えてもらいながら実験を進めていた。

正直、心中穏やかではなく、早く筆記試験の勉強をしたいと思っていた。毎日同じことの繰り返し。精密加工のパラメーターはあまりにも多いため、素材も関わってくると天文学的試行回数が要求される。素材に完璧な平面など有り得ないので、ゴールが見えなかったのが研究にのめりこめなかった原因だと当時の僕は言っていたが、実際はそういう仕事を雑用と軽視し自分はもっと大きなことが出来るんだと奢っていたのではないかと思い返せば忸怩たる思いだ。飛行機の部品なんて超精密加工ばかりなのだから。今では新素材と超精密加工のエバンジェリストである。

卒論の無い法学部や理学部の人たちがいかにも楽しそうに社会人になるまでの「行き合いの時間」を過ごしているのが何とも羨ましかった。

Facebookのタイムラインに食傷気味な僕は、例の自社養成試験に落ちて悔しかった時の手書きの日記を見返す。臥薪嘗胆の思いでこれを開く度に悔しさが込み上げてくる。

精密加工のプログラムを動かしている間は1時間ほど。その間、SNSのタイムラインを見たりネットの些末な情報をインプットしている場合ではない。この時間の二毛作をしなければ。

僕はひたすら過去問を解き続ける。

大学受験の頃からの鉄則。受験は過去問が全て。赤本からやらない人は素人、本番前にとっておくなんてもっての外。高3の頃から某「X会」という塾で散々言われてた要諦だ。

解けなかった問題は回数を決めずに滞りなく解答を作れるようになるまで書きなぐる。

1週間もやっていくと英語はそんなに難しくない。物理が一番難関だということが分かった。新傾向の問題が出るのでそれに対応する必要がある。応用レベルでいうと難しくはない。文系の人も受けるのだから当然だ。ただ、力のつり合い等、基礎中の基礎が出来ていないと解けないある意味、良問が多いことが分かった。いわゆる「補助線一本引けば分かる問題」が100点を阻む。

そして怖いのが時事問題。こればっかりは時代も規則性が無くニュースを見ておくしかない。意外と古いニュースが出たりするのでテレビ離れしている自分が悔しかった。全然点が取れない年もあった。減点法ではないのだから思い切って解答していくしかない。プロスペクト理論を封印して常識を働かせる、それしかない。

◆◆

僕が研究と勉強のルーティーンに飽き始めたころ、母から「ひさし兄ちゃん来てるから港まで迎えに行って」と言われた。

従兄弟のひさし兄ちゃんはまさかの15歳上。

僕が幼い頃から既に成人でお年玉すら毎年貰っていた。

そしていま彼はキャプテンである。

キャプテンとはいっても船の方だ。遠洋航海もするくらいワールドワイドで話はいつも面白い。少なからず僕はひさしさんの影響を受けて世界中に行く仕事がしたいと思っていたと思う。

たまに航海の一環で僕の住む港町に来ることがあって、その度に家に遊びに来るのだ。夕飯を食べに。

そんなひさし兄ちゃんの趣味はギャンブル。僕が『寺銭』の概念を知ったのはこの人のおかげだ。寺銭とは親の取り分。カジノでいうならカジノ側が経費でもっていく分のことだ。

はっきり言って日本のギャンブルは全て割が合わない。特に宝くじは最悪で54%も持っていかれる。「宝くじは情報弱者のための税金」は僕の座右の銘とは言わないが心に刻んだ大事な言葉となっている。

ゆえにひさしさんは『テラセン』が少ないブラックジャックしか基本的にはしない。でも、人間味が出るから面白いという理由で、寺銭25%だが競輪はする。全国の競輪場のコースの距離を全て諳んじれる特技には奥さんはあきれても僕は尊敬の眼差しを向けたものだ。

ひさし兄ちゃんは酒豪なのでその日も饒舌だった。

「Los Angelesは6回行ってん、ほんで英語喋られへんのに納税の英語だけは喋れるようになったわ!ハッハッハ!」180cm以上の色黒でデカイ兄ちゃんなので豪快なイメージは昔から変わらない。

「情報ってどこに集まるか知ってるか?昔から港町に集まるんやで、なんでやと思う?海を越えて船乗りが情報を持ってくるからや。で、もっと細かく言えばスナックに集まる。」

「え、スナックとかおっさんじゃん。楽しいの?行ったこと無い。」

15歳上でも僕はタメ口だ。一緒に育った訳でもないのにこうして気を使わずに話せる年上の人がいるのは面白いことだ。

「スナックはおもろいでー、スナックのママ方が会社の課長とかより社内人事に詳しいなんてのはザラやからな。あと、名前覚えるプロやなあの人ら。覚えて貰えたらお店に帰りたくなるっちゅーもんやで。学生のうちにいっぱい旅行してみ!スナック無い街は無いで。」

「旅行か~、でも今年は就職せずにパイロットになるために勉強することにした。飛行機に懸ける。」

「え、すごくええやん。おめでとう!船よりも絶対ええ。俺ももっと頭良かったらなりたかったなー。」

「や、自分がなれるならひさし兄ちゃんも余裕でなれるでしょ。」

薫陶を受けていたひさし兄ちゃんにそう言われると嬉しい。俄然やる気が沸いてきた。

船では天測航法はやるのか、等角航法はやるのか、色んな質問に答えてくれる。

「お前ならなれる、なんせキャプテンの血縁やからやー」というピグマリオン効果を頂いたところでひさし兄ちゃんが聞いてきた。

「で、最終試験は面接やろ?履歴書にかくお前の切り札は何なん?英語もバイクも俺からすれば平札やで。大富豪でいうならダイヤの6。航空大ってインターハイとか出てるようなやつゴロゴロおるんやろ?海猿みたいなガタイの。」

「確かにキリっとした人ばっかり卒業生インタビューには載ってるけどどうなんだろうね。でも履歴書で目立つ必要ある?」

と、先日遠藤さんと考えた分析と策略について伝えたが、ひさし兄ちゃんとしてはきらりと光る切り札が必要と思ってるらしい。

「シップ乗るんに必要なもんあるやろ。お前あれ持ってる?」

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