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【全文公開!】ジョアン・ボロナート・サンス(チェンバロ/オルガン奏者)へのインタビュー

数年前から続けてきている『De Missione Musicorum 音楽と宣教の旅』、そしてこの度の『ぐるりよざ!海を越えた音楽』のプロジェクトにおいて、大きな役割を果たしてくれているジョアン・ボロナート・サンスへのインタビューが先日活字化されました。

ReRenaissanceの運営チームが聞き手となり、毎回初出演となる出演者に生い立ちや興味ある音楽活動、その他のことについて質問していく形をとっています。

公式サイトにはドイツ語版が載っています。
https://www.rerenaissance.ch/events/26-11-23/japan-gururiyoza/
(『Interview』のところを選択して下さい)

以前の来日時に、彼の演奏やレクチャーに接した方は既にご存じかと思いますが、ライフワークとするイベリアの鍵盤音楽と通奏低音の演奏実践については誰よりも熱く語り、また日本のアニメやゲーム音楽への造詣の深さ(偏愛?)もかなりのものです。後者については、とても私の及ぶところではありません・・

彼と私は全く同時期にスコラで学び、卒業後も公式伴奏者を同時期に努めていた縁もあって、気が付けば長い付き合いになりました。
互いの故郷で演奏会をする(アリカンテ、奈良)関係にまで発展しました。
彼の実家で年越しをしたこともあります。

さて、ジョアンのことをまだ知らない方々のために、まずはバーゼル・スコラ・カントルムの公式サイトに掲載された彼の最新のプロフィールを日本語訳しておきましょう。

アリカンテ(スペイン)出身。バルセロナのカタルーニャ高等音楽院とバーゼル・スコラ・カントルム(スイス)でで研鑽を積み、国際的な規模の音楽祭や演奏キャリアを持つジョアン・ボロナート・サンスは、好奇心旺盛でオープンな音楽家であり、アンサンブルでの通奏低音の詩的・かつ修辞的な演奏の可能性を常に試み、さらにオルガンとチェンバロのソロ演奏の可能性を探求している。師事した演奏家や影響を受けた音楽家にはイェスパー・クリステンセン(通奏低音)、ロレンツォ・ギエルミ(オルガン)、セルジョ・アッツォリーニ(アンサンブル)、ディエゴ・アレス(チェンバロ)、アンソニー・ルーリー(声楽指揮)、アヒム・シュルツ(声楽)、アンドレア・マルコン(オルガン、チェンバロ、指揮)、イェルク=アンドレアス・ベッティヒャー(オルガン、チェンバロ、指揮)などがいる。

古楽の分野における美学的な境界の探求と、これまであまり研究がされてこなかった音楽史の事実を主な動機として、彼は『ザ・チューンランダーズ The Tunelanders』や『デ・ミシオーネ・ムジコルム De Missione Musicorum』などのアンサンブルプロジェクトを立ち上げている。前者では伝統的なスコットランド音楽と、17世紀末にスコットランド、アイルランド、イギリスの領土で起こったイタリア化の影響との融合を明らかにしています。後者では、16 世紀後半の日本でのイエズス会の宣教活動の文脈における当時の音楽実践を探求している。

現在はソリスト、またはアンサンブル奏者として、ラ・チェトラ・バロックオーケストラ(指揮:アンドレア・マルコン)、プラハ・コレギウム1704(指揮:ヴァーツラフ・ルクス)、ムジカ・フィオリータ(指揮:ダニエラ・ドルチ)、チューリヒ・シンティラ(指揮:リカルド・ミナージ)、ラ・ギルランド(指揮:ルイス・マルティネス)、コンチェルト・ケルンなどの著名なアンサンブルと、国際規模でのコンサートやレコーディングを行っている。

音楽学的著作には、バロック期の管弦楽付きオルガン協奏曲のレパートリーについて論じた "Del Temple a la Sala"(『教会からホールへ』)、"Aspects of interpretation and style in the practice of accompaniment and basso continuo in the Spanish repertoire of the 16th to 18th centuries"(『16~18世紀のスペインのレパートリーにおける伴奏法と通奏低音の解釈と様式の側面について』)などがある。

また、演劇界の様々な機関や著名人と音楽・演劇のコラボレーションも行っている。独立系レトロゲームスタジオ「Cheesetea」の音楽・音響部門の責任者であり、出身校のバーゼル・スコラ・カントルムではチェンバロとオルガンの伴奏者でもある。

https://www.fhnw.ch/de/personen/joan-boronat-sanz

さて、いよいよインタビューの全文訳になります。質問が続くにつれて彼が熱く、饒舌になっていくのが分かると思います。私の拙い訳ではその口吻がうまく伝わらないのが残念ですが、せめて彼の発言はゴシック体にすることにしました。

バーゼルで出会った数々の若い音楽家たちの中でも、非常に興味深い生い立ちと、独創性をもったジョアン・ボロナートの今後の活動にも期待するとして、まずは世の中にはこんな古楽器奏者もがいるんだな、という感じで読んでいただければ幸いです。

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バーゼル・スコラ・カントルムでの公式写真

―あなたの祖国スペインでの音楽キャリアの始まりは、どのような音楽、またはどのような楽器によってでしたか?あなたのアンサンブルの演奏には、家族的な背景があったりするのでしょうか?

子供の頃、自分の周りに音楽がなかったことは一日たりともありません。家では毎日のようにレコードプレーヤーやラジオから、ロック・ポップス・フォーク・クラシック・ジャズなどの音楽が流れていて、夜は寝る前に両親が子守唄や地元の伝承歌を歌ってくれました。両親はともに熱心な音楽の愛好家です。父は本業としてカタルーニャ語の教育に関する本を多く執筆する傍ら、ピアノやギター、時にはリコーダーで演奏できるような小品を作曲していました。

家には早くから電子ピアノがありました。私の祖母は子供の頃にピアノの基礎を習得していたので、私の練習に付き添ってくれることもしばしばでした。色んな楽器が身近にありましたが、面白いことに鍵盤楽器に触れ合う時間が多かったのです。スペインの小学校では誰もがリコーダーを少しだけ学びます。私の出身地バレンシア地方では概して吹奏楽が盛んなのですが、それに反して私は常に、ピアノ・チェンバロ・オルガン・アコーディオンといった鍵盤楽器を通して音楽を理解してきました。このことが、私の音楽的な成長にどのくらい影響を及ぼしているのだろうかと、思いを巡らすことがよくあります。自分で伴奏しながら歌うことに興味を持ったことの説明がつくからです。確かに私は程なくして、自分のピアノ伴奏でビートルズの曲を歌い始めました。とにかく元気で落ち着きのない子供でしたから、鍵盤の前の椅子に座って何かするのではなく、普段はただ走ったり遊んだりしたかっただけでした。(考えてみると私は今もその性格のままですし、ある意味で自分の演奏スタイルはそうしたエネルギーに通じているのかもしれませんね!)。

―ご自身の紹介文を見ると、初期イタリアの音楽がアングロサクソンの音楽の伝統に与えた影響について、これまであまり研究がなされていないということに関心を抱いていると書かれていましたね。よろしければそれについて具体的に教えていただけますか?今話題になっているのは、キリスト教の布教活動を通してでしょうか、あるいは17世紀には交易などによる文化的な伝播もあったのでしょうか?

私にとって音楽は、日々の経験と繋がるチャンネルでもあります。パブやレコードで聴いたケルトの音楽(スコットランドやアイルランド)、それに加えて漫画やアニメ、文学、哲学、伝統音楽に代表される日本文化にも、私はいつも魅了されてきたのです。

だからこそ私は、意識してか意識しないでか分かりませんが、古楽と歴史的知識に基づいた演奏実践(HIP)の「コード」に対応させて、何らかの形でこれらの趣味に結びつけることができるプロジェクトを立ちあげてきました。例えば私の主宰するアンサンブル「チューンランダーズ Tunelanders」の活動によって、17-18 世紀のスコットランド、アイルランド、及びイングランドの魅力的なレパートリーにアクセスすることができました。

現地の音楽家たち(マックギボン、オズワルド、ガウなど)だけでなく、外国からの音楽家たち(ジェミニアーニ、バルサンティなど)も、文化的および音楽的ナショナリズムの高まりと多大な民俗学的な研究の努力に後押しされ、幅広く音楽を収集しました。彼らは、チェンバロ、ヴァイオリン、フルート、ギター、ヴィオラ・ダ・ガンバなど、今日私たちにがよく知っているような大陸から「輸入された」楽器を使ってこうした音楽を演奏するために、トラッドの旋律と即興演奏、舞曲などを既に馴染みのあった形式(装飾音、数字付き通奏低音パート、強弱記号の表記などを含む)に落とし込んで編曲したのです。この一連のレパートリーが私を魅了してやまないのは、そのリズムのしびれるような喜びとメロディーの甘い哀愁はもちろん、何よりも「ハイカルチャー」と「フォーク」の間、そして「ロマンティック」と「モダン」の間の壁を打ち破る直接的な方法を提供してくれるからです。この方法によると、ミュージシャンと聴衆が(残念なことに)何十年にもわたってクラシックのコンサートで受け入れてきたものを打破することができるように思うのです。

ジョアン・ボロナートと坂本龍右(エルチェ大聖堂にて)

その一方、坂本龍右氏との友情を通して得ることのできた、日本とスペインの音楽による交流は、イエズス会が日本で宣教を行っていた時代(16世紀半ばから17世紀初頭)への扉を開きました。この歴史上の一時期のことについて私は、坂本氏と一緒にこのテーマに関する書籍や論文を読み始め、洞察力に富んだファクシミリ資料を提供してくれる大学やアーカイブにアクセスしはじめるまで、まったく知りませんでした。当時のイエズス会は、文化的および精神的な内容を伝達するために、音楽が最も強力な手段の一つとみなしていました。ラテンアメリカと日本での彼らの宣教活動と、日本での若い神学生の訓練、宗教的儀式の組織といった場面において、音楽がいかに重要な役割を持っていたか知るのは興味深いことで、それは現存する歴史的な文書が証明してくれています。イエズス会は日本人が持つ文化的・倫理的特質を重視し、自分たちからできるだけ先住者民族の伝統を尊重し、押し付けることはしないという態度をとったので、ヨーロッパの音楽が日本社会に伝わる過程で、旋律や宗教的信念などの数多くの点で、日本の文化の源と融合していったのは必然的なことでした。言語の面はもちろん、オルガン(竹製のパイプが使われたのです!)・管楽器・弦楽器、さらには宗教劇や儀式を行うために使われる装置など。

―文化の伝達と言えば、あなたの作曲活動も興味深いですね。作曲するときは古楽の枠組みでのインスピレーションと解釈に留まっているのですか?それとも現在なりの新しい方法を試されているのですか? あなたが作曲家として関わっているレトロビデオゲームスタジオ「チェーセテア Cheesetea」のことを少し紹介して下さい。

さっきお答えしたことと同じようなことですが、日常生活を送る中で音楽が、私の周りのあらゆる些細な行動と私を結びつけてくれているのが分かるのです。80年代生まれの子供だった私は、ビデオゲームの世界の発展の様子を(もちろん実際に遊びながら!)常に肌で体験できました。80年代後半から90年代前半のビデオゲーム音楽、とりわけRPGやアドベンチャー・ジャンルを手がけた作曲家の多くが、ルネサンスやバロック時代の音楽(特にJ.S.バッハ)を、当時のサウンドチップの技術での非常に限られた可能性に適合させたことは、とても興味深いと思います。彼らは、ルネサンス・バロックのレパートリーが持っている絶大な表現力と、それらが現代のドラマや物語のアクションの劇伴として使える能力を認めていたわけです。この力は、実際の楽器を使って音を出すときの効果を超えることさえあります。あえて言いますと、私は子供の頃にオルガンやピアノ、そしてチェンバロの演奏を聴くよりも、任天堂ファミコンのサウンドチップを通しての方が、バッハの旋律をより深く知ることができました。今でも、MIDIキーボードを80年代のサウンドチップに接続して、シンセサイザーの人工的にピュアな音波を通して、バッハやヘンデルのフーガを演奏したり聴いたりして楽しんでいるんですよ。本当に魅惑的な効果があります!

故郷アリカンテにて、幼少期からのお気に入りの散歩道。

私の故郷であるアリカンテの友人たちは音楽家ではなく、コンピューターのエンジニアや、漫画のイラストレーター、あるいはレストランのシェフといった面々です。彼らとは80 年代のビデオ ゲームに対する共通の情熱によって団結し、協力しあってスタジオCheeseteaを設立しました。そこで私たちはゲームのストーリーに合わせて、バロック様式の音楽やポップミュージックを作曲する方法を実験しながら学ぶことができる、こじんまりとした家庭的なプロジェクトを開始しました。これは私にとって大変刺激的な挑戦です。一方で、私は作曲に際してはある意味「完璧主義者」のように振る舞います。というのも私にとって作曲とは「新しいアイデアを歓迎すること」や「古いものを手放すことができること」など、小さな「倫理的課題」に満ちたゆっくりとしたプロセスです。それはまた、最終的には変更不可能な決定を下すものです (こう言えば、非常にドラマチックに聞こえるでしょう)。と同時に、このタイプの作曲作業は、当時の音楽ハードウェアの技術的な制限(旋律と伴奏が必要な音楽の要素を合成し、優先順位を付ける能力が優先されるため)の影響を受け、特別なタイプの創造性が必要になります。

―16世紀のスペイン音楽における伴奏法・通奏低音について集中的に研究されてきたと伺いましたが、一般の方々のために、同時代のイタリア音楽における歌曲の伴奏の方法のとの主な違いを簡単に説明していただけますか?おそらく真剣な答えは、インタビューの範囲を超えてしまうと思いますが。

16世紀のスペインは、イタリアやフランドル、その他多くのヨーロッパ内で高い質の音楽が生み出された地域と活発に交流を続けていました。そのため、この時代のスペインの音楽は豊かで国際的な性格を帯びています。スペインにある音楽資料から得られる情報というのは、イタリアやフランドルから得られるのよりは量的に少なく、断片的で、解釈が難しいものがあるということがあり得ます。ですが、ひとたびそれらが収集され、しかるべき文脈において正しく関連づけられると、政治的・地域的な境界を越えて、伴奏の美学や音楽解釈全般について、豊かで明白な次元が開けてくるのです。スペイン様式の要素は、イタリア様式のパズルを補完し、解決するものです。ですから、16世紀のイタリアとスペインの様式に違いを見出すというよりは、イタリアとスペインの音楽資料を個別に分析したのでは理解できないような、複合的で豊かな演奏様式に行きつくことができる、と言った方が正確ではないでしょうか。

スペインでの即興演奏の技術は、今日の私たちが想像するよりもはるかに広く実践されていて、その伝統と理論との融合の方法も独特のものがありました。その好例は多声による即興対位法で、今回共演するイヴォ・ハウンや、ダヴィド・メスキータといった私たちの仲間たちによってこのところ集中的に研究され、また復元もされています。伴奏法の面では、ルイス・ミラン(1500年頃-1561年頃)が残した、世俗声楽作品の前奏・間奏・後奏用に、ビウエラ(スペイン固有の撥弦楽器)で即興演奏されたと思われるパッセージが参考になります。さらには、オルガンやチェンバロ奏者たちが声楽曲の伴奏に用いた編曲譜や、「スタンダードな」舞曲(フォリア、パッサカレ、ロマネスカ、ガリャルダ、パバナ)の伴奏に用いる「和音」とリズムのシークエンスもそれらに含まれるでしょう。あえて言うならば、「スペイン様式による伴奏法」は「理論は実践から生まれる」というパラダイムを体現しているのです。それを研究していくことは、伴奏者の視野を広げる素晴らしい方法だと思います。私自身の直感や、実験や模倣から生まれたアイデアを、あとになって歴史的資料に見出すこともよくあります。

ラ・チェトラ・バロックオーケストラでの公式写真

―最後になりますが、あなたを含めてルネサンスとバロック音楽の双方の分野に身を置いている古楽の偉大な愛好家たちに、現在の音楽ビジネスでの異なる受容のされ方が起こる理由についてお聞きしたいと思います。バロック音楽については、特に声楽作品はここ数十年もの間、ラジオやオペラハウスで絶大な人気を誇っている一方で、ルネサンス音楽の豊かな宝庫は、依然としてニッチな少数の聴衆のものであるという感じを受けます。この不均等に見える魅力や受容の理由は何でしょうか?

間違いなく、この刺激的な質問について広範な討論を私は展開することができるでしょうし、このテーマに関する多くの声や意見に加わることになるでしょう。ここではある特定の側面を選びたいと思います。すなわち、「ハイカルチャー」と「ポピュラーカルチャー」の対立、そして「クラシック音楽」と「ポップミュージック」の対立です。

私たちはこれまで何十年もの間、この現代特有の対立現象の中を生きてきたのですが、基本的には階級に基づくロビー活動や、特定の利害関係者のおかげで維持されている部分があると感じます。実際のところ、我々により時代に近い時代の音楽のスタイルは、私たちにとってより「理解しやすい」、あるいは親しみやすいものに見える。その意味では、バロック音楽はルネサンス音楽よりも、明らかに私たちに近い。ヒーロー化したオペラのソリストの姿は、勝利者としての個人を賛美する傾向が強い現代の西洋文化にとって、有益なシンボルであることが証明済みです。それに加えて、ルネサンス時代よりもバロック時代の方が、より多くの音楽が資料の上でも残っています。これらの世紀には、手稿や本を残すことが貴重でコストのかかる活動であったことを考えてみると、結果的にこれらの時代の「大衆音楽」よりも、書かれた形での「芸術音楽」の方が多く残ることになるのは当然のことだろうと思います。

新作カンタータの初演時におけるジョアン・ボロナート(2023年)。

ただし、ルネサンス音楽の知的で、精神的、情緒的な特質は、西洋音楽の歴史を通しても比類のないものです。ルネサンス音楽は、詩、感情、精神性、エロティシズム、数学、天文学、哲学、その他多くのものを、独特の深遠さと洗練されたレベルで内包しているのです。もっともこれらの特性は、時として聴く側にかなりの精神的、感覚的、霊的努力を要求することがあります。しかし同時に、彼らの作曲の構造には、欠けることのない自然さと完璧さで私たちの魂に共鳴する何かがあります。こうした音楽を専門とする演奏家としての私たちの主な目標の一つは、声や楽器で音を「出す」ときに、最高の美的品質とプロフェッショナルリズムを備えた解釈を提供することです。しかし、「プレゼンテーション」や 「ステージ・パフォーマンス」という次元も、私たちの努力と注意を、時には実際の音楽の作りこみ以上に必要とします。私たちは、カスティリオーネ(1478-1529)の著作をもっと読み、そこに書かれている、それまでの伝統に基づく知恵と新しい時代への適応のバランスをとろうとする彼の探求態度を理解する必要があるのです。

したがって課題は、この基本的クオリティを、ポピュラー文化に対する、より親しみやすく、想像力に富んで、即効性のあるアプローチと組み合わせることにあります。「芸術音楽」は、伝統的なコンサート形式が中心で、一方「ポップミュージック」は大量消費というマルチメディアの次元にアクセスしやすい。前者は主に年齢の面で成熟した聴衆によって消費の対象になり、後者は若い聴衆によって消費される。この点で、古楽の世界では、何が何でも「若者にアピールしよう」という過剰な気遣いや、それとは逆に、コンサートホールはどうせ満員になるだろうという盲信による、行き過ぎた軽視が見られることがあると私は思います。友人たちは、数年前であれば今ほど頻繁には私のコンサートになど足を運んでくれませんでした。人間の美的嗜好は、時間の経過とともに変化するものであって、ですからあらゆる年齢層の人々が、あらゆる音楽を偏見なく楽しむ権利があります。

デジタルプラットフォームの登場で、モノとしての録音物の販売による収益の価値は低下した(あるいは、物理的な録音の価値が大きく変わった)一方で、インターネットに接続できる人なら誰でも、古楽にアクセス可能になりました。これは昔に比べて民主化したわけです。ルネサンス音楽を聴いて、それをとりあげる演奏会に興味を持ち、その後アマチュアやプロとしてルネサンス音楽を追求するようになった若い世代が、以前よりも増えていることは間違いないです。今起きていることを偏見なしで理解すれば、これから楽観と創造の余地はあると思いますよ。

私たちは、プロのオーケストラが映画音楽やビデオゲーム音楽を丸ごと演奏するようなコンサートが増えてきているのを目の当たりにしています。これは「エリートの音楽」と、若く、より多くて、まだ洗練されていない人々の消費者嗜好との間を、魅力的に繋ぐものでしょう。また2016年にマーティン・スコセッシは、17世紀初頭の日本におけるイエズス会とキリシタンの迫害をテーマにした映画『沈黙』を公開しました。この映画での音楽の使用は、オリジナルに絶妙に忠実であり、私と坂本氏が今回行う公演に使用するのと同じように、歴史的な音楽的資料や、先達の研究業績(皆川達夫氏他ほかによる)を用いています。

天草コレジヨ館のオルガン(平山照秋氏製作)の演奏時に。

「グリーンスリーブス 」を口ずさんだり、踊ったりすることはできても、その曲の背景や由来を知らない人は多いと思います。アドベンチャーゲーム『ゼルダの伝説 時のオカリナ』を進めるには、短い旋律を覚えて演奏することが不可欠になります。TVシリーズやビデオゲームの『ウィッチャー』では、共同の主人公が「擬似中世ファンタジー」の美学を持つリュート奏者で、いつもアクションには彼のメロディーの伴奏がつきます。スティングは、ジョン・ダウランド(1563頃-1626)の歌曲を、時代錯誤のベルカント奏法ではなく、マイクを使っての「ポップ 」な声色で表現し、大きなコンサートホールを埋め尽くしました。モレラ(バレンシア地方)の伝統的なドルサイーナ奏者たちは、毎年開催される中世・ルネサンス音楽講座に数年間参加した後で、『モンラートの赤い本』(Llibre Vermell de Montserrat)のメロディーをレパートリーに加えました。つい先週のことですが、チェンバロ教師である友人が、初年度のある学生がチェンバロの最初の曲として『ハリー・ポッター』の主旋律を習ったところ、J.S. バッハのヴィオラ・ダ・ガンバとチェンバロのためのソナタニ長調BWV1028の第3楽章の主旋律との比較に役立ったと話していました。

質の高い善意によるコラボレーションは、良い成果と豊かな人間性を生み出します。文化的な境界を越え、なおかつ学術的なアプローチもとることで、革新的でユニークな成果が生まれ、社会的インパクトも大きくなります。私たちは、自分たちとは違って人気のある芸術家と、その周りの環境とのコラボレーションの方法を学び続けるべきです。対立するのは建設的な方法ではありません。もし私たちが、古楽の遺産はすべての人のもので、それを保存して生き生きと最新の状態に保ち、伝え、またそれを体験するすべての人の生活の質を高めるためには、あらゆる人々人の努力が必要であると本当に信じているのであれば、私たちの公演には聴衆からの支持と参加が必要です。エリート主義の博物館に閉じこもっていては、元も子もないのです。

私たち演奏家、教育者、そして公的・私的・宗教的・世俗的機関の文化事業者に向けての言葉として・・特にルネサンス音楽、そしてより一般的に古楽を日常的に質の高い財産とするために、高い創造性と勇気をもって協力し合わなくてはいけません!

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さて、いかがだったでしょうか?
最後まで読んで下さった方はよほど古楽に関心のある方か、単純に彼のことが気になる方かだと思います・・

特にインタビューの最後の部分のトピックは、私も日々それに対するスタンスについて考えさせられています。
こうして明瞭に、発言できるのはうらやましいですね!

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