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ちょうど30年前(1994年)の古楽コンクール

若い音楽家たちにとって、とりわけソリストを志す者たちにとって避けて通れないもの・・それがコンクールです。

私もご多分にもれず、ソロ・アンサンブルともに国内外のコンクールには何度か挑戦しましたが、最後にエントリーしてから随分と年月が経ちました。
年齢的に考えて、この先コンクールに挑戦することはまずないと思います。

したがって今では、コンクールの話題になると完全に傍観者の立場です。
この4月上旬に英国で、リュートのソロを対象とした初のコンクールが開催されました。

結果は、最高位が2人出たということです。

さらに国内ではつい先日、古楽コンクールが開催されました。

https://eterna.lolipop.jp/competition/

こちらは1987年から毎年同じ時期に開催されてきた由緒あるもので、今では海外からのエントリーも増えて「国際古楽コンクール山梨」を名乗るようになりました。
第35回となる今年は、鍵盤楽器とアンサンブルが審査対象。

第1回からの実行委員長である荒川恒子氏が、4年前に例のコロナ渦でコンクールが1年延期を余儀なくされた時期を利用して、コンクールの歴史を振り返る著作を執筆され、部数限定で刊行の運びとなりました。

当コンクールの受賞者でもない私に、委員長直々にお手紙を添えてこれが送られてきたこと自体驚きを隠せなかったのですが、恐る恐る読んでみて「なるほど」と納得するものがありました。

自分が初出場したときからちょうど30年を迎え、もう時効だな・・と思うこともありますので、一つの区切りとして書くことにします。

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自分が山梨の古楽コンクールに出場したのは10歳のとき
当時の私はこんな感じです。以前も別の記事で掲載したものですが・・

まあ、今はこの片鱗もありませんけどね(笑)。
リュートを弾くようになって4年目。まだまだ純真無垢といったところで、とにかく楽しんで楽器を弾いていました
ただし10歳では、まだまだ人前で披露するに足りるソロ曲のレパートリーが充分になかったのも事実。
それでも親に勧められるままに、コンクールにエントリーしました。

するとなんと、本選出場者9名の中に選ばれてしまったのです

信用してもらえないかもしれないので、証拠の品を・・予選の後に配布された手書きによる本選出場者リストが、まだ実家に残っていました。

番号は予選の出場順で、それぞれ内訳は上からリコーダー2名、フルート・トラヴェルソ1名、リュート2名、声楽4名。今見ても、私以外は錚々たる名前が並んでいます。
(同じくリュートでエントリーされた鈴木氏は、残念ながらこの数年後に亡くなられました。その遺品の楽譜の一部が、私の手元にあります)

つまり、鍵盤楽器以外のソロ楽器と声楽がひっくるめて審査対象でした。
私自身の記憶はかなり鮮明にありますが、本選時のレポートを音楽評論家の那須田務氏が書かれていたのを見つけましたので、ここに引用します。

坂本龍右(ルネサンス・リュート)
[演奏曲]ダウランド:エセックス伯のガリアルド、プレリュード、ラクリメ、デンマーク王のガリアルド、モリナーロ:ファンタジア1番、フランチェスコ・ダ・ミラノ:リチェルカール

10歳!雑念がなく、身体を使ったのびのびとした演奏はとかく学究的・思索的な演奏となりがちなだけに魅力的だ。こうした例は、おそらく欧米でも他に例がないだろう。大事に見守っていきたい貴重な才能。

古楽情報誌「アントレ」1994年6月号より

今となっては、実にありがたい評です。今でこそ、幼少期からリュートを手にする例は珍しくなくなりました(特にフランスなど)が、この頃はそうした教育システムも確立されていなかったはず。

本選での演奏曲の並びを見ると、ルネサンス・リュートでのソロ曲のレパートリーの核は今とほとんど変わらないですね(モリナーロのファンタジア1番は先週の本番でも弾いたばかり!)。

那須田氏による評は、予選総括にも見いだせ、

(前略)・・リュートに小学校5年生の坂本龍右が鮮やかなテクニックと瑞々しい音楽的感興にあふれた演奏を披露して慣習を沸かせた(中略)・・坂本君のステージ姿は、フィレンツェのウフィチ美術館にあるフィオレンティーノ・ロッソの『リュートを弾く天使』を連想させて微笑ましい。

古楽情報誌「アントレ」1994年6月号より

ロッソの奏楽天使像を連想したということは、ステージ上の私はこんな感じだったということでしょうかね。
まだまだ体が小さくて必死に弾いていたのは確かです。

それはともあれ、小学5年生になりたての子供が大人に混じって本選に出たのですから、インパクトが強かったのは間違いありません。
つい最近になって知ったことに、リュート愛好家の間で私の本選での演奏を隠し撮り(録り?)したものが出回っていたとか。当の本人はそれを見ても聴いてもいないのですから面白いものです。

数年前に日本で、このときに審査員を務めていたある演奏家の方とお仕事をご一緒する機会がありました。その際、本選の演奏に対して複数の審査員から「これは稀有なことであるから、せめて特別奨励賞か何かを与えるべき」という意見が出た末に、最後は却下されたということを聞きました。

「10歳の子供に賞をあげたりなんかしたら、コンクールの威信に関わる!」という雰囲気があったらしいです。分からなくもありません。

正直に言って、このときの私は「ただただリュートが好きで弾いている子供」に過ぎませんでした。
音楽理論、音楽史などの知識は中途半端もいいところ。
何しろリュートのタブ譜を五線譜に書きかえることすら満足にできず(五線譜が苦手だった・・)、なにぶん体も手も小さかったので、左手のセーハの難しいところは音を抜くなどして、要はごまかしていました。
留学経験のある人たちや、エントリー時点で既にプロとして幅広く活動している人たちを差し置いて、あの時点で賞をいただいて良かったかと言うと、やっぱり気がひけます。

このたび手にとった、コンクールの歴史を振り返った荒川氏の著作には、わざわざ私についての言及がありました。1994年の第8回古楽コンクールの総括の項目には・・

坂本少年の演奏をもっと聴きたい、との声も多く聞いた。ここは本コンクールの見識と品格を示すべき時である。素晴らしい少年の芸を、もて遊んではいけないことを、必死で訴えなければならなかった。

『古楽コンクール〈山梨〉―35年(1987-2021)年の歩み そしてこれから―』より


やはりそういうことでした。まだ技術面でも知識面でも、経験の浅い私の演奏が「見世物」として扱われる危険性がある、それによって私が増長してあらぬ方向に行ってしまう・・ということを、長いこの先の将来を考えて、委員長は心配されていたのでしょう。

この4年後に中学3年生となっていた私は、再度山梨の古楽コンクールにエントリー
今度は体も大きくなり、楽器もフィット。リュートを弾くことに対しての自信が深まっていました。おそらくは、今までの人生で一番「根を詰めて」練習したのがこのコンクールの直前。

そうして頑張って準備をし、予選突破は固いと思っていたらあえなく撃沈
結果に失望して、本選を見ることなしに甲府から去りました。

このときのレポートは、NHKFM「古楽の楽しみ」パーソナリティでお馴染みの関根敏子氏が書かれていますが、予選敗退者の中では例外的に私についてのコメントがありました。

坂本龍右は、1994年も参加していた。その時は理屈ぬきに演奏するのが楽しいという感じだったが、今回は背も高くなり、一段と成長した姿を見せてくれた。音楽性もあるし、楽器もよく鳴っているのだから、これから微妙な表情や音色のコントロール、様式を踏まえた表現力、作品の充実した構成などをきちんと身につけることで、今後一層の活躍が期待される。

古楽情報誌「アントレ」1998年6月号より

この評の影響なのかどうかはともかく、皮肉にもこの後の私は、上のレポートで那須田氏が書かれていたリュートの「学究的・思索的」な側面へ、舵を切ってしまうこととなりました。しかしそれが行き過ぎて、どんどんと演奏のバランスを崩してしまいました。

都合の悪いことに、そこへ思春期と親への反抗期も重なり、かなり長期間リュートから離れることとなります。2年後のコンクールにもリュート部門が設けられているのを知りつつパス。
とはいえその時点でもまだ16歳、何度もチャンスはあったはずが、もはや自分の出る幕はないと決めつけてしまったようで、現在に至るまで日本のコンクールには一切出場歴がありません

どうやらこの2回の山梨のコンクールで経験した「光と影」は、私の人生を大きく左右するものでした。

ですが今になってみると、あの時に審査員の方々が私に特別の賞を授与しなかったことに対して、感謝したい気持ちすらあるのです。

「10歳で受賞!」ともなればそれだけで話題となり、場合によっては変に祭り上げられ、未熟な私は勘違いを起こして「天狗」になっていたでしょう。
同業者、はたまた同世代の演奏家たちとの関係性もスムーズにいっていたとは思えません。

あれで良かったのだ・・今改めて振り返ってそう思います。

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さて、話題として素通りするのは惜しいと思われるのが、先ほどのリストの最後に名前があった方。

そう、カウンターテノールの米良美一氏!
カウンターテノールでのエントリーはコンクール始まって以来のこと。
私はこの方の本選の歌唱を聞いていました。

生まれて初めて生で聞く、カウンターテノールの歌声
もちろん強く印象に残りました。
優勝間違いなしでしょ!
周りの人々が口々にそう言っていたのを覚えています。

そして結果は最高位(1位なしの2位)。

ご存じ『もののけ姫』の主題歌がヒットするのはこの3年後。
古楽コンクールの受賞を皮切りに、バッハやヘンデルを中心としたバロック音楽の歌唱でますますファンを獲得。
この「メサイア」の録音は今でもヘビロテしています!

米良氏がいわゆる古楽の演奏シーンから離れてしまったことを惜しむ声は、繰り返し聞かれます。その真相・経緯については、もはやご本人しか知りえないことでしょうから、ここでこれ以上触れるべきではないでしょう。

ともかくも私は、幸運にもあの時米良氏と同じ本選の舞台に立たせていただき、ついでにその見事な歌唱に間近に接することができたわけです。自分と同世代の音楽家たちにはできない経験であったことは間違いありません。

一昨年の秋、「信玄公まつり」の時期に甲府に滞在する機会があって、コンクールの会場となった県民文化会館のホールに行ってみました。
たたずまいはあの頃のままです。

予選・本選とも小ホールで開催。ちなみに予選の最中に並行して大ホールでB'zのライブがあり、絶えずドラムの振動音が聞こえてきて、さらに建物の入り口には出待ちの人々が大挙していました。

本選後にここのロビーで米良氏はじめ、出場者の方々と健闘を称えあい、歓談したのも良い思い出です。

本当に不思議、ここに立つだけで忘れていた30年前のことが一気によみがえってくるのは・・

という、30年前の出来事のお話でした。


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